博物館・明治村研修旅行HMK(2)歴史的な蒸気動車と京都市電
博物館明治村の乗り物
明治村には乗り物が何種類か動いていますし、歴史的な乗り物も展示されています。記憶では馬車や自転車も乗れるのですが、今回はその二種類を見かけませんでした。展示物では、明治天皇の御料車が有名ですが、何かの都合(笑:時間切れ)で立ち寄れませんでした。
また、ガイド役の一番隊長が痛恨の涙をながしたのは、実際の蒸気機関車に乗れなかったことでしょう。これも時間切れというか、帝国ホテルを後にして最後に乗ろうとしたのですが、丁度汽車が出たところでした。あと数分早ければ~。それで、仕方なく一行はこれまた発車間際の村営バスを勇気ある書記局長が疾走し止めて、やっと乗れたわけでした。明治村を半日で経巡るのは無理がありますね。
それで今回は展示物としての「蒸気動車」と、実際に一行全員が乗車した「京都市電」について探索結果をまとめておきました。
MuBlogの愛読者はご存じのように、私は2007年晩秋から「嵯峨野鉄道図書館ジオラマ」という教材研究を当blogに連載しています。これは移動・静止型の未来的な「二階建てトロッコ図書館列車」の概念を定着するためのシリーズです。ですから、明治村こそ、そのような図書館列車が走る博物図書館構想のフィールドとして最適なわけですが、誌面の都合ならびに概念の錯綜を避けるために、それは別途の記事として後日まとめようと考えています。
蒸気動車は、はじめての体験でした。石炭か薪かは確認しませんでしたが、でっかい機関部と運転席と客席が同居する、このような列車が明治時代に大阪で造られて国内で走っていたという事実を全く知らなかったのです。
次に、隊員達全員で狭い電車を占領するように乗った京都市電は、私自身の大学生頃までは日常の足でした。勤めだして数年後に、京都市から市電が無くなったように覚えております。そのころ走っていた多くの市電は、今も15両が広電(広島市)(1900形)で現役のようです。なお、平安神宮で以前、残された市電の写真を撮ったのを思い出しました。
蒸気動車と螺旋連結器 明治村解説
最初の写真を撮ったときは、おもわず驚いてシャッターを押したわけです。多分列車の背面になるのでしょうが、観音開きのドアがひらいて、真ん中に偉容なというか異様な機関が顔をみせ、煙突が天井から突き出ています。
ものすごい蒸気機関車(蒸気動車)ですね。熱くって煩さかったろうな、と想像はしましたが、当時の人達も眼を丸くして乗ったことでしょう。
連結器の左右に丸い皿が二つ付いていますが、これはバッファー(緩衝器)というらしいです。しかしネット記事をいくつか読んでいる内にわからなくなりました。緩衝器だから、二両の車両が押し合いへし合いして走る際の「遊び」と想像したのですが、それだけでなく、これで「押す」という機能もあるようなのです。すると、この蒸気動車は運転席が真後ろになって、前が見えませんね? この観音扉部分に窓がありますから、ここに人がいたわけでしょうか? それは無理ですね。私は鉄ちゃんではないので、思考はそこで停まりました。
なお連結器は、螺旋連結器といって有名な歴史的連結器らしいです。これはNゲージモデル世界に少しでも手を付けますと、興味がわく代物(しろもの)ですが、本題からはずれますので、このくらいにしておきます。
京都市電のポールと線路 明治村解説
この市電の乗り心地は今から思い出すと、後日掲載予定「二階建て図書館列車考(5-2)」の嵯峨野トロッコ列車と似ておりました。レールからの衝撃が直接がつんがつんとお尻を突き上げます。走行音も直接身体に響いてきます。左右の揺れもあります。ですから、このままでは移動・車内読書には向きません。私が青年時に京都市内で乗っていたときは、これほどではなかったです。
明治村のは明治時代の電車で、私が乗っていたのは戦後昭和の市電ですから、そりゃ違って当然です。くだんの嵯峨野トロッコ列車がガツンと突き上げるのは、もともと無蓋車を改良したトロッコだからです。
ただし。以上は否定的な意見として述べたのではないのです。
広大な明治村の中を、開放性の高い京都市電に乗って、がったんごっとんと旅をする風情は、また格別の物でした。何度でも乗ってみたくなる、というのが正確な記憶として残っています。
そして、こういった古い電車を毎日運転している明治村の根性を想像すると、おもわず頭がたれてきますね。たしかに戦後京都市の最後の市電なら、広島市で動いているから技術者も補修部品もなんとかなるでしょうが、この明治村のはまさに明治時代のものです。蒸気機関車にしても、市電にしても、維持保守には特殊な技術が必要になるわけです。その経費や、補修を考えると、ついちょっとの博物館経営思考では、できないことかもしれません。運賃も300円、一日中全ての乗り物乗り放題にしても800円。すばらしいことだと思います。
レトロな車を動かす技術者達
身近な例ですが、畏友が40年になんなんとする大昔のフェアレディ2000に「ロシナンテ」という愛称をつけて、今でも乗っています。それが可能なのは畏友の頑固一徹さもありましょうが、昔からのなじみの技術者「国立技工」があるわけです。国産スポーツカーの部品を海外で探したこともあったようですね。そういう事例を知っているからこそ、明治村の「明治時代・乗り物」維持のすごさが身にしみて想像できたわけです。
以下に、ネットですぐに見つかった「フェアレディ2000と技術者とオーナー」の風景記事を掲載しておきます。賞味期限だけが切れず、消費期限のきれたマシン(機械類)を、普通に動かすことがどれほどの難事か、その一端を味わってください。
2007.4.22.ロシナンテのクラッチが直った篇
2008・1・20 小正月も明けて篇
京都市電は最初伏見につながった!
さて、話がすこし紆余曲折。
「私の京都」からみで申しますと、今回、インターネット記事で大変貴重なものを発見しました。つまり、京都市電は当初、京都市と伏見市(昔は、伏見市があった)とをつないでいたわけです。それが日本初めての市電だったのです。幕末に近藤勇や土方歳三さんや坂本龍馬が徒歩・馬で通った伏見寺田屋あたりまで、明治の後半になって最初に電車を走らせたわけです。その伏見線は京都の市電が全面廃止される数年前の、私の大学生時代まで続きました。
その路線は? 意外にも、現在私が愛車RSで伏見の裏町を走っている、その道路を明治時代から昭和まで、市電が走っていたわけです! びっくりしました。今朝は、その記念石柱をそぼ降る雨の中、信号待ちで確かに見ました。伏見の駿河屋店頭にあるのです。
京都市電の廃線跡を探る(トップページ)
同上 伏見・肥後町あたり
同上 油掛(要するに、鳥せいの東)の伏見駿河屋本店にある記念碑
同上 中書島の市電終点あたり
↑これらの記事はすでに図書になったようです。「京都市電の廃線跡をたどる/中村 浩史.岐阜新聞社」
まとめ
今回は話が明治村から嵯峨野トロッコ列車や、国立市や、京都市の市電廃線跡まで飛んでいき、まとまりがつかなくなりました。しかし全ては、「HMK:博物館明治村研修旅行/葛野図書倶楽部2001(2008.3.28)」から始まったことです。
気持ちの上では、小所帯であっても一行8名が事故なく経費少なく明治村を探訪することに、主眼があったので、まだ浸透していない「図書館列車」関係については、私一人で動きまわることもできなかったのです。それ故に、写真も少なく、対象も僅かな物となりました。
しかし。
今にして、あの広大な明治村の動脈として蒸気機関車や市電や村営バスが走っていることの意義を、この記事を書きながら深く味わいました。たしかに保守維持は大変だと思います。しかし、歴史的建造物をつないでいく乗り物が、明治の装いを色濃く持っていることこそ、あの博物館明治村の真骨頂なのだと、私は確信するにいたったのです。
地図:現代の伏見線あと記念碑
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(画面: 魚屋通 下油掛町の東の信号の、北西角に駿河屋がありまして、その店頭)
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