小説木幡記:2008/05/06(火)与謝蕪村展:MIHO MUSEUM(ミホ・ミュージアム)
承前:ミホミュージアムの秋
ミホミュージアムの与謝蕪村と躑躅
春と秋には近江の山奥にあるMIHO MUSEUMに出掛けている。春には以前、ツツジを途中の川沿いで見付けて喜んだことがある。(山ツツジと522号線:滋賀県信楽町朝宮) 今春は、ミホミュージアムの玄関先で見かけた。しかし躑躅を捜して来たわけでなく、与謝蕪村展があったからだ。
蕪村は今の大阪府の出身らしい。江戸時代の18世紀後半に活躍した。俳人であり画人だった。
展示室に入った途端、長大な巻物があって、よく見ると京都国立博物館蔵の「奥の細道図巻」だった。重要文化財の「本物(笑)」のようだ。余は、これだけで感動した。戯画戯画しい(漫画チック)のがとても可愛らしい。
つまり、68歳と長生きした蕪村翁は、芭蕉翁をとても尊敬していた俳人だった。芭蕉と蕪村は、活躍期間が大体百年離れていた。
来年、余は「芭蕉」について勉強することにしている。すると蕪村翁も少しはわかっていないとよくない。
蕪村の「しら梅に 明る夜ばかりと なりにけり」が辞世句になる。どんな気持でよんだのか、まだ分からない。20代の記憶を蘇らすと、「鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな」、「菜の花や月は東に日は西に」の二句が残っている。
前者は鳥羽離宮だから保元・平治の乱の時代だと思うが、蕪村が義仲寺で芭蕉翁を偲んだことがあるのを知り、承久の乱時代を思い出してよんだのかとも、今思っている。芭蕉は後鳥羽院を仰ぎ見、その後鳥羽院は鳥羽殿や水無瀬殿を修理して愉しんだ方だから、連想でそう思った。
わからない。
後者は根拠のない連想だが、菜の花といえば、なにかしら奈良を思い出す。奈良は春、秋は京都と余の感性回路が定まってしまっているので、しかたない。
俳句って、よいものだな。
さて、展覧会では照明の落とした中でひたすら山水画というか唐土(もろこし)の神仙たちの画を見て回った。ところが、陶淵明が好きな余なのだから、もう少し蕪村翁に肩入れすればよいのに、なにかしら気に入らなかった。どうしても、最初の「奥の細道図巻」の印象が強くありすぎて、外国(中国)画がすんなり入ってこなかったわけだ。
ところが出口直前で、パンフレット裏面の上部にある「山水図屏風」にでくわして、驚き感心した。銀色に墨で描いたらしい。胸の中をつかみ取られたような気がした。亡くなる一年前、67歳ころの作品らしい。専門家はどう言われるか知らないが、唐唐宋宋していない、まさに日本の山水画、だと思った。どうなんだろう、蕪村翁!
もう一つは、これもパンフレット表に見えている「夜色楼台図」。これは、宋宋してはいるが、余はひたすら「シーナリー(情景)として、これを作るとなると、発泡スチロールが大量に必要だなぁ」とか「ストラクチャ(建物)を全部自作するとなると、しんどいな」。はては、「全体にウェザリング(古色)をかけるとなると、ジオラマ全体を常にドライアイスで煙らせる方法しかないなぁ」とか、じっと魅入って考えていた。
題して、「Nゲージ・山水世界周遊図書館ジオラマ」。あはは。
蕪村とだんご
今回も到着(11:30)すると直ちにレストランに座り、昼食をいただき、いつものように大満足を得た。
MIHO MUSEUMは景観も建物も内容も優れているが、なによりも、なにをとるかというと、レストランでの昼食になる。地上では味わえない、純朴な、そして深みのあるご飯や蕎麦を味わえる。
さらに展示物を数点見て疲れ切ったあとは、博物館の内部にある喫茶店に行く。
昼食と、お茶に、余がなにをいただいたかはナイショにしておこう。なにをいただいても、美味しいことに変わりはない。
さて、帰還してからMIHO MUSEUMのサイトを眺めたら、余にとって必見の展示会が予定されていた。今秋も、また出掛けねばなるまい。
秋季:2008年9月2日(火)~12月14日(日)
「大和(やまと)し美(うるは)し 川端康成と安田靫彦」
宇治川沿いに天ヶ瀬ダムを見下ろして、鹿跳橋でまがり、信楽を経由し、90分。帰りは京滋バイパスの石山ICを使ってあっという間に60分。よい半日でした。
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コメント
与謝野蕪村いいですねえ
MuBlogの中でミホ・ミュージアムは特別な味わいがあるように当方には感じられます。
最初の写真集でしたか、最後の(メカニカルな終末点)というのが印象に残っております。
また曲がりくねった山道をバイクやバイク感覚の4輪で走って、天と地を往き来する夢見がちな少年のイメージが重なります。
与謝野蕪村は当方もファンなのです。
(春の海ひねもすのたりのたりかな)
という一句を瀬戸内生まれの当方はずっと正岡子規作だと思っていました。
やっぱり子規や、瀬戸内海や、ええ俳句や、と得意になっていたものです。
ところがあなた、かなり歳とってから与謝野蕪村作と知って、口あんぐり。
足跡を改めてたぐり直してすっかり彼のファンになったという次第。
(夜色楼台図)の絵もいいですねえ。
すぐジオラマではどう作ろうか?と考えるMu大兄が気の毒なくらい。
この絵で水墨の中に淡い朱色を使っていますよね。
あれが何ともほのぼのとあったかくて与謝野蕪村らしい感じがします。
ほのぼのとあったかくてとぼけている。
与謝野蕪村、かなりの仁ですなあ。
投稿: ふうてん | 2008年5月 7日 (水) 22時02分
1.ミホミュージアムのことを、私は当初から純粋に気に入っています。いま書箱から『新宗教と巨大建築/五十嵐太郎』(講談社現代新書 1580)を取り出して、私の感性を他人の目と比べました。すばらしい、という点では合致しています(笑)。博物館だから海外のキリスト教の大聖堂とか、イスラムのモスクとは比較しようがないのですが、来世紀に残る施設および内容だと考えています。
要するに「演出」が本物になってしまった事例だと思います。
2.「(夜色楼台図)の絵もいいですねえ。すぐジオラマではどう作ろうか?と考えるMu大兄が気の毒なくらい。」
お気遣いなく。決して、気の毒なMuではないのです。芸術作品をみて忘我になって夢見て別の、ジオラマという「叩き芸術」を作ろうと思った自分自身をおもしろおかしく眺めておりますよ。
3.「与謝野蕪村、かなりの仁ですなあ。」
そう思いました。句をちらちらと紙上でながめるのとは別種の、つまり、蕪村が立ち上がって見えました。
言語芸術の限界というよりも、絵や彼の人生の流れを見ることで、違った、とぼけた爺さんが見えてきたのです。
年齢的に、北斎には及びませんが、当時の60代後半で、目のないMuでさえ圧倒される山水図を描くのですから、すごいものです。
見ていて私も描きたくなりました。私は、気に入ったものを見たり触ったりすると、自分で同じ事をしたくなります。
蕪村は、ダイナミックな感じがしたのです。そのうち、Muの画業?なんて、ならないなぁ~。
投稿: Mu→ふうてん | 2008年5月 7日 (水) 22時52分