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2008年5月 4日 (日)

小説木幡記:2008/05/04(日)小説を読んで書いて

 連休だからというわけでもないが、「小説」について語りたくなった。
 小説は、読んでも書いてもおもしろいが、余の場合は、読むだけの方が気楽で、日曜作家をしだすと100倍ほどの力が必要で疲れる。なのに書くのはなぜか?~、それは後日にでも。

1.小説を読む
 余は小説を読む時間は世間普通だと思う。文庫本一冊なら土曜の朝から日曜の昼には読み終えている。
 これが論文用の基本文献だとか、小難しい専門書になると、フルタイム(日に6時間前後)で一週間~二週間かかる。古代史や生命科学や人工知能という好きな分野の新書版なら、数日で読み終える。

 だから、「小説」については、週に数冊読んでも、日常生活に支障は来さない。だが、夏期論文用の、たとえば今夏『日本の美術史』クラスになると、行きつ戻りつするので、結局読むだけで一ヶ月はかかる。もちろん再々再読になるのだが。それでも何度読んでも、難しいものは難しい。
 これは遅読だと考えている。だから、専門書を読むということは、講義にも、会議にも、倶楽部運営にも、付き合いにも大いに支障を来す。矛盾の一種なんだろう。となると、春やGWや夏や冬の休暇はかき入れ時といってよい。

2.並行読書
 この一ヶ月間ほどずっと三冊の小説を並行して読んでいる。まるで、現代ソフトウェアの並行処理である。並行間での推移は、イベントドリブンという古典的な考え方に基礎を置く。日付が変わるというイベントで、駆動したり休止したりするというのは、もっとも分かりやすいイベントドリブン類である。

 ☆海外ミステリー、文庫上下
 ☆歴史小説(平安時代)、文庫上下
 ☆純粋ミステリ(館もの)、文庫換算で四冊分程度。

 並行読書で、一冊一冊を時々思い出したように手にとって、続きを読むのは、余には珍しい部類になる。
 負の要因は、ずっと忙しない毎日、春は横臥の毎日、年度末は仕事のけじめの毎日、年度当初は仕事の流れに乗らない毎日~だからと、いろいろある。
 正の要因は、毎日違った世界を味わえる。洋食、和食、創作料理を少しずつ毎日いただいているようで、豊かな気持になれる。近頃は話の続きの(余の脳内での)整合性を気にしなくなったので、焦りや緊張が緩和されて、心身の滋養になる。そういう気持があって、並行分読をしだしたようだ。

3.小説読書の効用
 文芸評論家とか現代文学研究者の人が現代小説を読むのは、これは仕事だからだろう。余もとりあえず、現代メディアのひとつとして小説を嗜み(笑)、公共図書館での有力な資料源としての小説を分析読書する。そういう読書は、基礎資料の把握として、職業的読書人にとっては欠かせない、必須のことである。

 一般に、どんなことでも、「職業」化した場合、そのオブジェクト(対象)に耽溺する事は少ない。中国服を着て、研究室を中華風にしつらえて、まるで清朝阿片巣窟のような中で、中国語で談笑し、中国文学を嗜んだ碩学もいたらしい。しかしそれは彼の若い頃だけの話であって、中堅以降になってもそんなはしたない溺れようを人に見せるのは、パフォーマンスの一種以外なにものでもない。だから。仕事で小説を読んでいる人は、一般人の楽しみ、マニア耽溺から生まれる快感は、あまりないと思ってよかろう。

 余はどうか。ふむふむ。それは想像に任せよう。
 ある時は、耽溺しすぎて知恵熱を出し、酷いときには横臥にいたる小説読書も、講義の合間に話題提供レベルで話すときは、「えっと、あれは、よいですねぇ」と、さらりと流す。灰色状態の態度でオブジェクトを眺めておる。
 一般に、文芸そのものを講義するのは、難しいことだと思っている。それは若い頃に沢山読んだ、いわゆる作家論、作品論を思い出してのことだ。原酒に相当する「小説」とは、別種の世界がくりひろげられているようだ、なぁ(笑)。
 司書の卵達には「今の内に、あれこれ、よく読んでおきなさいよ」で、済ませられるのが大半で、少し気が楽だ。

 読書を仕事とする人の読書の効用は、仕事の洗練。
 一般人の小説読書の効用は、世界観が広がる、人間関係の深さを知る、芸術鑑賞的高揚感を得る。楽しみ、暇つぶしという目的外効用がある。

4.小説を書かない自由
 2000年ころから毎週日曜作家をしていて、2005年ころからはネット公開もしだした。途中では間氷期のような期間もあって、創作という自己確認を要しない、書きもしないし公開もしない時期もあった。
 今は丁度、第四間氷期のようだ。つまり、温かいからのんびりしている。

 と、記すと「また、Mu先生、書けないエクスキューズかいな。それは詩の泉が枯れはったんやで」と、空耳が聞こえてくるのだが。そうではない。書かない自由について、一考を記しておく。

 余の作品はいわゆる古典的歴史ミステリーにジャンル分けされるようだ。
 小泉佐保という二十代半ばの女性司書が、友人や師匠と一緒に、歴史の謎に巻き込まれていく設定になっている。古典的と修飾したのは、比較的穏やかな筆致で、人間関係も複雑でなく、主人公の小泉佐保も聡明で麗しいことと多少霊感(笑)が有るくらいの普通の人で、物語も起承転結に則っているからだ。その意味で、斬新さは少しもない。ただ、斬新な作品を日曜作家Muが書けないという困難さがあっても、当の日曜作家がそのような作品を望んで書いているからそうなったとも、明確に言える。

 難しい点は、歴史ミステリーだから、なにかしら歴史の影に隠れたテーマを見つけ出す必要が常にあることだろう。事実、当の日曜作家はそういうテーマが好きなのだからしかたない。作者の好きと読者の好きとは別物だという客観的法則を知らないわけではないが、当の日曜作家はやはり好きなことにしか手を付けない。

 今、その謎のテーマが形を成さないから、書かない自由に遊んでいる。
 日曜作家はよくしたもので、誰からも「早く書け、締切守れ、ホテルで缶詰になって仕上げろ」とは言われない。明確に書かない自由がある。これが平日作家だと、日々ゲラと赤鉛筆にまみれ、指は「キーボード・たこ」まみれになり、眼精疲労ドライアイ、強迫神経症に悩まされることだろう。平日作家の書かない自由は、作家廃業、あるいは華々しく「休筆宣言」でもしないと、無理なんだろう。そこらを曖昧にすると、昔の文豪達のように、心中したり、胃潰瘍で若死にしたり、廃人になったりと、良いことなんか少しもないな(aries)。

 さて、歴史ミステリー。いわゆるネタはなかなか生まれない。
 もちろん例外もある。以前『写楽・考/北森鴻』(新潮文庫)を読み終えて思ったのだが、やはり才能ってあるもんだ。四つの短編がすべて驚くようなテーマに満ちている。余ならば、その一つで大長編に取りかかるだろう。それが惜しげもなく短編のテーマになっている。だから、ジャンルのせいにはできない。

 余は現在、探偵司書小泉佐保シリーズ(4)『湖底宮』を考えている。湖は近江の琵琶湖だ。最近は横臥していることが多くて、近くなのに付近を探索していない。余は、他の人とは異なり、ある程度以上その現場に耽溺しないとテーマが形成されないようだ。
 また時代の中心をなかなか掴めない。話は、景行天皇から継体天皇を経て、壬申の乱~平安初期、そして現代にいたるものなので、古代史と現代史との接点だけでなく、古代史の何を中心にするかで迷っている。
 これほど迷いが生じるのは、実は珍しい。

 というわけで、日曜作家の特権、書かない自由を謳歌しているわけだが、よくしたもので、第四間氷期は、ロボット司書や鉄道図書館のモデルを考えているだけで、歴史ミステリーのテーマ選びを失念するほど、穏やか、温かい日和が続く。
 人間、やはり気楽な方が、良いのじゃろうかね。日曜作家には書かない自由があっても、書き出したなら、日曜も平日もないのが、「作品」なのだろう。書かない間は、のんきに過ごせる。

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