NHK篤姫(14)篤姫、父(島津忠剛)の死
島津忠剛(ただたけ:長塚京三)の死が印象に残った一夜となった。
斉彬は幕府の要請で参勤交代よりも二ヶ月早く江戸に向かうこととなり、不意に思いついて、お忍びで今和泉の忠剛を見舞った。まず普通ならあり得ないことだが、忠剛も分家とは言っても大名格だから、お忍びならあり得ぬことではないだろう。それに、篤姫の実家である。
忠剛は斉彬に、「篤姫さまには、私のことでは、事(姫が御台所になること)が成るまでは伝えないで欲しい」。つまり、実父の生死に篤姫が動揺することを避けたかった。
斉彬が神奈川宿で休んでいるとき、二月二十七日に島津忠剛がみまかったという、訃報が入った。
一方篤姫は、母・英姫との面談を強要(笑)し、座り込みの結果再度会えた。話は以前と変わらず、「篤姫が御台所になる話は、殿の思いこみ」と言われた。追いすがる篤姫は御簾を押し切り英姫に迫ったが、英姫のマスク(顔隠し)を目にし、愕然とした。
後で幾島からの報告では、幼少時に「疱瘡のアバタ」を煩い、顔を隠していたこと、人前に出ないことが分かった。
国立科学博物館のサイト情報では、幕府は安政五年(1858)に種痘を公認したようなので、英姫の幼少期はまだアバタの人が多かったのだろう。
ペルーとの日米和親条約が締結された。
水戸の斉昭(なりあき)はそれに強烈な反対を見せていた。彦根藩主の井伊直弼は斉昭と対立した。そう言う中で、老中阿部は、島津斉彬を江戸に呼んだわけだ。
徳川家定は将軍に就いたが、相変わらずである。将軍が機能しなくても、幕府閣僚や親戚や外様の殿様が国をどうするか合議していた。織田信長のような人が将軍なら想像できない、現代的な右往左往がうまく描かれていた。
明治維新政府が出来るまで、幕府も朝廷も諸藩も右往左往したのだから、当時の幕府に人材が無かったとは言い切れない。誰であっても、未来は見通しにくい。もちろん後日に、勝海舟のような人材が下級御家人から中心に出てきたのだから、異様であったのは事実だが、どんな場合も、誰が舵取りをしても、なんの保証もなかった時代だった。
さて、実父を亡くした篤姫は、さらに来週以降孤立する様相だ。予告編では西郷さんがでてきた。姫をお守りする、と血相を変えて叫んでいた。多分、そうなるのだろう(笑)。遠い記憶では、篤姫輿入れの一切合切を請け負ったのは西郷さんだったような。
追伸
最近同じことを繰り返すが、今夜も同様だった。つまり、45分間、食い入るようにしてドラマを見終わるのだが、さて感想文を書くとなると、書きにくい。それぞれ味のあるエピソードがいくつも積み重ねられ、充実するのだが、ひとつひとつが大事件ではないから、何を核にするのかが決められない。不思議な大河ドラマだ。
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