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2008年4月26日 (土)

小説木幡記:2008/04/26(土)未だ生を知らず~

 「いまだ生を知らず、いずくんぞ、死を知らんや」、深夜目覚めて言葉がよぎった。
 孔子さんがどんな気持でこう言ったのかは知らない。単純に、生きていることを大事にしなされや、という意味だと、長いこと得心してきた。
 日本風にさらに翻訳すると、まだ生きることの意味もよくわからないのだから、「死」のことなどわかろうはずもない、そんなことに関わらないほうがよいよ。と、でもなるのか。

 そうともいえるし、それだけでもないよ、とも思う。思うから生きているのだろう。

 「五十にして天命を知り、六十にして耳したがう、七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)をこえず」
 六十にもなると、人や世間の言うことに、素直に聞き入ることができるようだ。
 週の初めに、激痛に耐えかねて、「何故このような痛みがあるのか」と、肩をもんでくれていた長男に尋ねてみた。答えが一瞬でもどった。「生きているからです、お父さん」と。

 深夜の目覚めは、痛みとか夢とかのせいで起きることが多い。
 数日前は、母のことで気がかりが生じて目が覚めた。で、徐々に頭がもどってきて、「ああそうだ。母は20世紀末に死んだのだ。もう心配する事は何もない」と、気がついてほっとした。ほっとした途端にアキレス腱の痛みが襲ってきた。

 今夜は、何だったのだろう。
 夕方に、葛野で生死について思いをめぐらす機縁があった。生死について一節を読んだのだ。
 なにかしら、こたえたのだろう。
 母の死について、もう死んだのだから心配する事は何もない、と思って目覚めた余は、余程にリアリストというのか、酷薄な部分もあるようだ。生きていることが心配なのだ。終わってしまえば、心配はなくなる。この自動的な「心の安定化」を、余は自身の酷薄さととらえている。

 ま、よかろう。
 生き生きて、この世の快楽(けらく)を賞味しよう。
 このごろますます、人生は食にあると思っている。貧しい食卓とはいわない、貧しい食観では生を味わえないと思うところだ。
 余は、考えすぎると身体が不調になり寝込む。
 適度に美味い物をいただいていると機嫌もよくなる。脳も適度に空虚を保つ。ヌルというコンピュータ用語を連想している。なにもない、空虚。ヌル。楽になる。そこを、食が満たしていく。数日前の「コチ」の造りが絶品だったなぁ。最近は「生だこ」の造りに、本わさびが気に入っている。うむ。

 酒を人並みにたしなめないのが悲しみだが、それでもシェリー一口、ウィスキー1フィンガー、熱燗おちょこ一杯、それらは甘露と味わえる。

 と言うわけで、MuBlogを書いていたら、なにやら気分が楽になってきた。
 孔子さまも、お釈迦さまも、キリストさまも、プラトン君やソクラテス君、みんな若い頃の友達だった。みなさんがそれぞれ何を余に残したのかは、大半忘れてしまったが、彼らよりも余の方が今のところ幸せだと実感している。若い頃に彼らの物語に身を添わせて、孔子ならどう考えたのだろう、キリストさんなら~。そんなことを幾度もしていた。なかなか辛い訓練だった。実存的同時性を得ようとしていたらしい(と、当時のぼくは、今の余のあずかり知らぬ生命体なのだろう。他人)。

 それが今朝、極早朝の、一つの結論だ。
 さあ、ひと眠りして、土曜の一日、エヴァンゲリオンDVDを鑑賞しよう。シンジ少年のセリフや嘆きには耳をふさげて、使徒というか死徒達の動きに興味がわく。いろいろな鑑賞があるものだ。
 ああ、スカイクロラも公開がせまってきた。
 だから、生は楽しい。
 茶柱一本立つを見て、全世界を味わい得心する。この心を、今は亡き旧師の書物から味わった。

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コメント

Muさんの日記を拝見していて、
ぜんぜん関係ないのですが、
なぜかふと伊東静雄の「ゆめからさめて」という詩を思い出しました。

http://www.nextftp.com/y_misa/ito/natu02.html


「生き生きて、この世の快楽(けらく)を賞味しよう」
いい言葉ですね。
そのこころばえもて、美味なるもの、麗しきものを愛でながら
淡々と生きてゆきたいですねぇ。 

投稿: 伽羅 | 2008年5月 8日 (木) 20時13分

まいど、というか、おひさの未知伽羅さん

 伊東静雄さんの詩を引用によって読みました。
 めったに詩を眺めることがないので、たまに見ると衝撃ありますね。
 言葉言葉がどうしてこうして胸をつくのか不思議でなりません。

 もともとこの方の系列を詩というか文章でいろいろ読んできたので、親近感があるのだと思います。朔太郎さん、中也さん、なにかしら昭和の初めの世界の言葉に惹かれてしまうのです。

ところで「麗しきものを愛でながら」、これはきっとガクトさんのことなのかと、想像して読み終わりました、とさ。

投稿: Mu→伽羅 | 2008年5月 8日 (木) 21時02分

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