化石の村/浅茅原竹毘古:完結しての自己感想文
承前:新連載『化石の村』小泉佐保は冒険家だったのかもしれない(2007.08.19)
今朝、平成20年3月1(土)、小説『化石の村』の連載が完了しました。
原稿用紙で650枚の長編です。
MuBlogの左サイドバー「小説関連サイト」にも「化石の村・定稿」として整理しておきました。
また、連載した携帯blog(auone)にも「『化石の村』を終えて」を載せましたので、ご確認下さい。
<定稿の意味>
私は、作品が完全に完成するまで時間がかかります。『化石の村』の場合、ぼんやりとした構想の果てに書き出したのは2004年で、2006年初夏には原稿用紙800枚程度になっていました。それから約150枚の圧縮をして、今回2008年に「定稿」としたわけです。
随分年月が経過しました。
文字数に換算すると、400字x650枚→260000文字となります。もちろん空白や改行も入れてのことですが、空白や改行は無意味な記号ではなくて、それも表現だと思っています。
「定稿」とは、こういう紆余曲折を総て完了した、という意味で使っています。誤字脱字程度は修正することもあるでしょうが、表現自体、もちろんストーリーなど、今後変更することはありません。
もし、何かの事情で変えるとしたら、それは改版になって、別の作品となります。
私にとって、定稿がどういう意味を持つかというと、完全に他人と見なすという意味が大きいでしょう。作品を生み育てて、いつの間にか成長し、もう大人になったのだから、毀誉褒貶(きよほうへん)、誉められても貶されても、他人事として対処するということです。
事例として。
もしも誰かから「小泉佐保さん、とっても大人になりましたね。おもしろかったです」と言われても、内心では「ほう、そうですか。じゃ、時間があれば僕も読んでみましょう。」と、思うことでしょう。
あるいは「谷崎みたいな気楽な教授や、小沢トモコみたいなあり得ない学生を作品の中心にするなんて、荒唐無稽すぎる!」と言われても、内心では「ええ、小説って、もともとそういうものでしょう。それは大昔からですよね」と、思うことでしょう。
もちろん、言葉の上では、その場・相手に合わせて、適当に流すくらいの智慧を持ち合わせるほどには、加齢現象に裏打ちされた人生経験があるのです。(自然言語処理泣かせの日本語です)
物語を騙る
京都百万遍大学中央図書館で司書を務める堅物の小泉佐保(25歳独身)は、例によって恩師の谷崎教授から、「別荘お披露目」という名目で、名も知らない鬼添里村(きさなむら)に誘われた。友人のタマちゃんや、後輩の小沢トモコも来るらしい。
村では魅力的な図書館長、遊刺木(ゆさき)青年に出合い、ときめきを感じたが、なんのことはない、後輩のトモコの方が熱をあげてしまった。
内心がっくりしたのだが、その直ぐ後に佐保は自分よりも年下の水も滴(したた)るような不思議な青年から話しかけられた。物氏玄輝(ものうじげんき)と言い、神社の息子だった。20歳だから、佐保の弟と同年齢だが、美しい顔立ちなのに深い陰があり、そのうえ村の噂では粗暴ということで、嫌われていた。
と、ここまで書くと「青春ドラマだなぁ」と、読んでいて思ったが。
さにあらず。
小沢トモコが、遊刺木館長に誘われて村の博物図書館を見学している最中に、暴漢に襲われ、トモコ一人が誘拐されて、行方不明になった。
村では「ハヤニエ」という不気味な伝承を持つ猟奇殺人が頻発している最中(さなか)だから、谷崎教授も佐保も蒼白になった。
そして、いつもは頼りになる谷崎教授こそが、一番の問題だった。先生は心この地にない不安定な状態に落ち込んでいたのだ。別荘で会ったときからいつもと違っていたのだが、トモコの誘拐で、谷崎の懊悩は極限に達し、教え子の佐保が心のケアをする立場に立ってしまった。
トモコを救い出し、総ての事件を解く鍵は、隠退した谷崎の父親が持っていた。佐保は谷崎とともに、父親の住む京都伏見へ行き、谷崎謙介を村に引き戻すこととなった。
見どころ1:黄桜警部の登場
黄桜弥生(きざくらやよい)という30代半ばのエリート警察官が登場します。彼女は、以前『蛇神祭祀』では、宗教教団を内偵する奈良県警警備課長として活躍しました。佐保の父親は公安警察の高官なのですが、黄桜はその部下であり、黄桜が登場すると、まともな刑事事件ではないことがうすうす分かります。
本作は黄桜の登場で、佐保のことがより明確に分かってきます。
一つは、相変わらず父親の仕事内容が霧の中にあり、名刺を何種類も持っている父親に、佐保は曰く言い難い気持を抱いたままです。他人である黄桜弥生が、そういう父親と共同で仕事を達成していく姿が、羨ましいわけです。
一つは、なにかしら土台の消え失せたような谷崎教授が頼りにならない今、佐保にとって、いろいろな情報を客観的にもたらす黄桜が、話しているだけで心の安定をもたらし、二人は良い関係なのです。
こういった、深層では複雑な相手と、佐保がどう付き合っていくのか、本作の見どころの一つです。
見どころ2:歴史の謎
この探偵司書小泉佐保シリーズは、歴史の謎が作品を支えているわけです。その謎を司書である佐保が、事件を司書の仕事、レファレンス(調査回答)として調査分析し、最後に「レファレンスレポート」(調査報告書)を完成することで、物語が完結します。
『犬王舞う』では中世の観世能と、そこにいた「犬王」という、今で言う能楽師が残した南北朝騒乱に関わる文書、「犬王聞き書き」の謎がありました。
『蛇神祭祀』では、三世紀以来の歴史を持つ宗教教団が蓄積してきた、神離帖(かむさりちょう)に秘められた、卑弥呼と教団・御杖代(みつえしろ)との関係に謎がありました。
そして『化石の村』では、神主・物氏家に代々伝わる文書「神明物拾遺(しんめい・もの・しゅうい)」原本およびその玄義(解説本)に、因習にとらわれた村の伝承が込められていたのです。鎖国的な鬼添里村は、古代大和朝廷の先駆者であった物部氏の影が長く尾を引く村だったのです。
佐保は司書として、謎を謎のままにしておくのがどうしても出来ない「正しい」司書です。今回登場しなかった先輩・長田(オサダ)君とよいコンビなのですが、長田君も「司書の中の司書」でした。つまり、この物語の見どころとして、司書佐保がどうやって文書を見付け、それを如何にして現代の事件の解とするのか、そこが大きな見どころになっています。
不満な点
文体、小説構造上、作者は小説の視点を「佐保」に限定しています。つまり、佐保が見て聞いて読んだことしか、外界情報が表現されないわけです。たとえば佐保は、身近な谷崎教授のことでも、彼の話を聞いたり顔色をみて「いま、先生はこういう状態なんだろうな」と、想像することしかできません。
もちろん、この手法はそれなりに効果があるわけですが、現代一般小説に比べるとダイナミックな世界観や、人間同士の心理の駆け引きの点では見劣りします。
たとえば、佐保が同性のファッションや話し方に接しても、一般的な解はなく、あくまで佐保の世界観でしか、感じられないし、表現もされません。
これは非常に枠の強い、逼塞感(へいそくかん)をもたらすことがあります。
私は、この作品を読んで、時々「なんて甘い女なんだ」とか「ものすごく、表層的だな」と、佐保を貶している自分に気がつくことも多々ありました。もちろん、25歳の独身女性としては、当然限界があり、仕方ないとも思えるのですが、作品全体の仕上がりとして、ときどき苛立つことがありました。
まとめ
探偵司書シリーズは、あと近江篇、嵯峨野篇を残すばかりとなりました。このままの雰囲気で最後まで完成することを願っていますが、心配なのは、歴史を絡ませることの難しさと、そしてシリーズ終了後の次はどうなるのかということです。
前者は、たくましく歴史の森を分け入れば、なにかかんか見つかるでしょうが、後者は、古来「詩の泉が枯れる」という現実の怖さです。分かりやすく言うと、書くことがなくなる、ということです。プロの作家達は、書くことがあってもなくても、注文に応じて書くというのが、専門家の所以(ゆえん)です。ところが、日曜作家の場合、書けなくなるというのは切実に辛い事です。
書けないなら書かないで、研究したり、趣味をたのしめばよかろう、と思うのがそもそも違いの分かれ道なのです。書かざるを得ないから書くのが日曜作家であり、デビューした当時のプロ作家なのです。こういうことに関わらざるを得ない人種は、おそらく生まれながらにして「詩の泉」があり、書けないということは、切実にアイデンティティーを喪失した状態をもたらすのでしょう。
しかしながら、最近の実質寿命は男性でも85歳くらいであると、「文藝春秋」(2008年2月号<不老革命>)に書いてありました。長生きする分、考え書く時間もあると思います。不思議なことに、書かざるを得ない人は、筆を持つといつのまにか文字が動きだし、物語が紡ぎ出されるようです。
より深い地下水に期待するところです。
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