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2008年3月15日 (土)

【入力ばかりだと/森博嗣】はblog創造の正しい認識と思う

承前:【映像展開/森博嗣】が不思議だった

 昨日午前8:30過ぎにMLA(MORI LOG ACADEMY)「入力ばかりだと」(2008年03月10日(月曜日)分)を読み、一旦おいたが、今朝極早朝に再度読み直して、記録することにした。余はネット上の記録に恒常性をみていないので、良いとおもったものはその時に記録することにしている。

 若者から森先生に人生相談があるらしい。古来、坊主とか先生とか呼ばれる人は、人から相談事を持ち込まれる。そういう職能だから、不思議でもないしおかしくもない。森博嗣先生は専業作家だから、「先生」とか「老師」とか呼ばれるのが通例だ。これはご本人がどう感じるかとは無関係。

 森博嗣先生が受けた内容は、『いろいろ試したが、することなくて、興味のわくことがなくて、人生がつまらない』という若者の相談のようだ。人生とは、詰まるとか詰まらないとかとは違ったところに意味があると考えてきたが、MLAは丁寧にその対処法を示していた。

 いろいろ要因はあると思うし、本当のところはよくわからないのだが、たぶん、いろいろ試してみた、というのは「受けた」だけなのでは、と想像する。観たり、聴いたり、読んだり、と自分の中に取り込むこと、すなわち「入力」を試したにすぎない。ゲームなんかの場合も多かれ少なかれ、受け入れるものだ。そう見えないように工夫されているが、基本的に自分から「出力」するような行動ではない。

 料理でいうと、レストランや料亭や、メシヤや寿司屋でご飯を食べる経験をしてきて、美味しくない、つまらない料理ばかり、食欲がなくなるなぁ~と嘆いている風情だ。コンビニ弁当を買って食べても、お総菜セットを食べても、入力ばかり、ということになる。
 読書で言うと教科書を無理矢理読まされたり、読書感想文用に小説を読まされると、これは「入力」を越えて、詰め込みという言葉があたっているだろう。

 だから、「なんでも良いから一度、自分で作ってみたら?」とすすめる。本当になんでも良い。なにか1つを作りあげると、それは自分から出力したものだし、それによって視点が変わるかもしれない。1つ出力すれば、それに関連したこと10を受け入れたくなることも多いし、きっと入力もまた楽しくなるだろう。

 確かに人の作ったPCゲームで遊ぶよりも、PCゲームを作っているときの愉悦、快楽、楽しさは数百倍あった。
 「作る」という言葉には、森先生の場合は工作者だから、模型や家具や芸術作品が含まれると思うが、「コレクション」、集めるということも大枠に含まれると思った。
 つまり、能動的に世界を回りを自分の手と頭を使って、気持をこめて自分の好むように、望むように作り変える、再編することも「作る」に含まれると思った。

 余が、回りの若者に森先生の言葉を、そういう風に翻訳したなら、きっと「自分の好む、望む」そこが分からないのです、と言葉がこだまする幻聴が今あった。何を好み、何を望んでいるのかがわからないから、詰まらないということなのだろう。だから森先生は答えている。「作ってみたら?」と。余はそこに上述のような「好み」とか「望み」とか饒舌、蛇足を付けてしまうが、森先生は「~してみたら?」と留める。事例として、「部屋を整理整頓する」ことをあげておられた。

 さて、若者のことはもうよい(笑)。
 余自身のことだ。これは森医師処方箋というよりも、一種の診断書として眼前に突きつけられた思いがした。これまで、いろいろな人の図書(小説とか評論とか歴史とか哲学とか、専門書も)を読んできて、突きつけられたことは多々あるが、blogについて、より具体的に記してあるので、反省自戒が強くわきあがってきた。

そもそも、ブログがこんなに流行っているのも、この「出力」への渇望によるものではないか、と分析できる。でも、そのブログだって、出力しているようで、実は入力しかしていない人が散見される。~面白いものはないか、楽しいものはないか、と大勢が自分の外部を探している。自分の内部を探す人は少ない。

 ブログが入力だけの人であっても、その人がおもしろく楽しければ、この引用は無効になる。その人が、もしも深夜「わたし、一体何をやってんの。詰まらない、こんな人生って、おもしろくない」と、悩み出したときに引用が有効になるのだろう。

 君のblog記事はきっと入力ばかりなんだ。真の出力、つまり創造がなくて、世の中のこと、世の中の情報を転写しただけに過ぎない。君の一見「出力」意見らしいことも、類似例をネットで千件、万件だせる。それなら、近所のお父さんや大家さんの言ったことを口まねしているだけだろう。そりゃ、詰まらない話だ。コンサート会場で、万人のファンと一緒に熱中狂気乱舞しても、下宿に帰って一人になると何もない。そんな風景だねぇ。
 と、そんな風には森先生は考えもしないし、表現もされないが、余はそういうイメージを持った。

 実は、「わたし、一体何をやってんの。と、時々思うのは余なのだ。自ら創造する小説ですら凡百の海の藻屑に消え、人気の涼夏PC自作もパーツ屋のパーツを集めて組み上げただけ、執心のジオラマも、方法論は週刊誌にあるものを使った下手な物まね。大河ドラマにいくら熱中しても、それでアクセスが倍増しても、余は役者でもないし武田信玄でもないし、篤姫でもない(笑)。MuBlogの真価はどこにある、あるのか?
 詰まらない、と思うことが多々ある。
 だから、森先生の最後のところでのblogへの言及が胸をついた。

余の対処法
 blogは人類史の中でも新しい、新設の表現開示手法だと考えます。まだまだ表現自体は洗練されないでしょうが、それを維持するマネージメント手法、ひたすら記録せんとする執心、新しいコンピュータ技術を駆使せんとする努力工夫、そういう基礎部門に関係している「楽しさ」があります。
 表現自体の「入力」過重は、blogを開設維持する「出力」によって中和され、いまだ興味は尽きません。
 と、思うことにした。

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コメント

入力と出力と

 若い人から(私、出力どうしたらいいのでしょう?)と問われる。
そういうことが多い、と森先生はおっしゃっているようですね。
Muさんの記事によく出てくる森先生のことはよく分かりません。
グーグルに聴くとウィキペディアに(出身校や勤務先などの経歴は非公開としている)とありました。

 自身のことを(非公開)にしつつ、ブロッグで(公開風)にする。
当方などもほぼその線ですわね。
やはり人間は矛盾のかたまりなのでしょうか。

 若い人が(入力)ばかりで(出力)の方法を知らない、というのは当たり前だと当方などは思います。
(何でもいいからやってみたら?)と出力を求める助言もいいでしょう。
でも当方の若いころのことを思いますと、何をすればいいのかなあ?が精一杯でこの助言は受け付けませんでしたね。
(何でもいいから)というのは(何がよいのか)を求めている若い人には無理な注文です。

 当方が若年期に助けられた言葉の一つを紹介しましょう。
伊予の、今治にいたオジちゃんから聴きました。
叔父は骨董をやっていた茶人でしたが、応仁の壺かなんかの贋作事件が当時ありました。
(オジちゃん、ニセモノを見抜くのはどうすればいいの?)
と19歳くらいだった当方は聴きました。
(ええもん、本物を見続けることよ)
とオジちゃんは応えました。

 若い人たちには出力を急ぐよりも(ええもんを一杯入力せえよ)と言いたいですね。
(ええもん出す)のは後でもよろしい。
ま、これは当方の独断と偏見ですが。

投稿: ふうてん | 2008年3月15日 (土) 10時01分

ふうてんさん、なにかしら「ブーッツ」とBEEP音が瞬間にでたようですね。
最近、うちのマザーボード、ビープ音がなります(笑)
原因は別にないようでした。

ふうてんさんの人生観からすると、お説の通りですよ。少なくとも、端からみていると、ふうてんさんのこれまでの人生はなかなかわかりにくかったです。目的とか、出力とは別の相で人生を送ってこられたようです。楽しみ、味わう、という人生だとは、ぼんやり見えておりましたが。

もし目的とか、「成果をだすぞ」というある種の一般的明瞭な「出力」観があれば、今をさる30年近く前に、非電化単線手動ドア・クーラー無しの奈良線の列車に乗って、JR木幡駅近く、妖しいルナ企画に、はるばると、一流企業の幹部が一人で汗ながして訪ねてくるわけがない。

それはつまり逆に考えると、ふうてんさんからするとMuの機械仕掛けのような「出力」観や、森先生の若いひとへの「何かやってみたら」言は、けったいな振る舞いに見えることと推量。

で、話をてきぱき記すために、結論を申します。
それが人と人との相違だったり、ふうてんさんの特色だと思うのです。

Muは、こう思いました。大学の授業は一般にはまだ入力なのです。しかしその入力に困難を味わう人が多数おります。入力ができないままでは、一般的「出力」は無理です。空のビール瓶から恵比寿ベールが出てくるわけがない。しかし、入力の動機がひょこりとあると、入力が進み、あわせて出力も豊かになり、その出力をさらにのばすために、おもしろくて、逆に入力がどんどんすすむわけです。

鶏と卵の、どのステージでどんな助言が必要かという、ちょっと難しい話も裏に隠れています。

骨董屋の小僧にとって、「本物をみつづける」入力が最良の出力「眼力を持った骨董屋」を約束するでしょう。その小僧はきっと、真贋を見極めたいという動機が強くあるわけでしょうね。だから、眼力をもつほどの目利きになる人は、なんぼ入力を続けても、ずっとおもしろくて、飽きないのでしょうね。

Muは自覚していますが、青年期から、いやもっと若年期から、なにかを作ることをしないとすぐに飽きました。つまらなくなりました。

と、そんなところです。

投稿: Mu→ふうてん | 2008年3月15日 (土) 14時17分

「君のblog記事はきっと入力ばかりなんだ。
真の出力、つまり創造がなくて、
世の中のこと、世の中の情報を転写しただけに過ぎない。
君の一見「出力」意見らしいことも、
類似例をネットで千件、万件だせる。
それなら、近所のお父さんや大家さんの言ったことを
口まねしているだけだろう。」

おぉぉ、ガツンと来ますねぇ。まさしく
自分のことを言い当てられているようなお言葉です、はい。
これは、ここ数日間のネット逍遥の中で、
私の胸に一番hitした言葉ですな~。

自分を含めて多くのブロガー達が、
他から仕入れたものを転記することによって、
Outputしているつもりになっている
というのが、本当のところでしょうね。

一億総ブロガー時代が到来しても、
その実態は、大いなる転送の繰り返し、
伝言ゲームの変形みたいなものなのでしょう。

薄ぼんやりとは気づいていたことですが、
蜘蛛の巣電脳世界において、
真の出力はそうとう困難であり、
生みつけられたもののほとんどは、
どこかからの借用、
もしくは話題に対する反応、
それでなければ せいぜい日常のカタルシス
といったところなのでしょう・・・・

そして群れ寄ってきたものたちは、
お互いおに互いへの責任を負わなくて済む
免責の気楽さのもとで、
地球の上を、たった一人で、
終わりまで生きてゆかなければならない
人としての重みを軽減するかのように、
ささやかな接触を楽しんでいるのでしょう。

それでも、個々人が、
この大いなる電脳迷宮の小さい入り口に向かって、
何かしら言葉を投げかけていることは、
その人が、今日、地球というこの星に
まだ籍を置いていることの
出席簿のような意味もあり、
失われたルーティーンワーカーとしてではなく、
探求あるいは創作への微かなる意志を残した
彷徨える志願者としての自分を、
表現しようとする羽音なのかもしれません。


投稿: 伽羅 | 2008年3月16日 (日) 10時44分

今晩わ、未知伽羅さん

「今日、地球というこの星に
まだ籍を置いていることの
出席簿のような意味もあり、
失われたルーティーンワーカーとしてではなく、
探求あるいは創作への微かなる意志を残した
彷徨える志願者としての自分を、
表現しようとする羽音なのかもしれません。」

 なるほど。羽音です。羽音でよしと思っています。

 裾野は大切ですね。富士山は静岡や山梨だけじゃなくて、日本全土が裾野になって盛り上げていると思います。

 何合目にいるかよりも、底辺と自虐するよりも、裾野です。

 そう言えば未だに出勤簿を押しています。押さなくなっても、MuBlog出勤簿をMuは押し続けることでしょう。

 ところで、持論では。
 人類の99%の叡智は過去のどこかに埋もれていると思います。それを見つけ出して味付けして、別の料理がでてくると思っています。

そんな気がしているのです。

投稿: Mu→未知伽羅 | 2008年3月16日 (日) 21時07分

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