NHK篤姫(10)薩摩の話:篤姫が結婚の決心をした
箸の持ち方(箸先五分しか濡らすな、長くて一寸)、手を付いての挨拶(両の人差し指で△をつくり、畳につけてその△に頭を押し込む気持で)、箏曲(これは長い練習が必要)、小鼓(いっよぉ~これも練習苦労のblogがあるくらい大変)、徳川まつりごとの仕組(老中、若年寄、奉行など)、それ以上のことを幾島は軽々と篤姫の前でこなし、指導される篤姫はますますふてくされる。おそらく、お花にお茶にお香に和歌に~。近衛家の老女幾島ともなると、現代のスーパーレィディでも追いつけないほど、言葉の通り諸芸百般に通じておられる。近衛家にいたのだから、どれもこれも飾りじゃなくて本家本元・都の流儀を19か20の篤姫に染み込ませたのだろう。
斉彬は遂に、篤姫を将軍御台所にすることを伝えた。
姫は、当夜は睡れず、翌夜家出を計るも、幾島に見とがめられて再び義父・斉彬の前につれてこられて、「何か言いたいことはないか」「碁を打って下さい」と。
「父上は、私を利用なさるのですか」「そうじゃ」と斉彬は、篤姫が江戸に入ることで、島津の幕政参加活動が容易になると打ち明ける。そのことで、日本の危機を切り抜けたいと。
篤姫決断。「では、私の意志で養女になり、私の意志で江戸に行き、御台所になります」と。
「よう、決心してくれた」
「父上は本心を言ってくださいました。父上の碁には乱れがなく、攻めを打ちました」
「お篤、わしをためしたのじゃな。ぐあははは(高笑)」
この間、江戸では堺雅人の家祥(いえさち)→家定役の名演技、幾分宙にういた目をして、諸国からの海防策建議を阿部老中に読ませ聞き、「酒肴を黒船に振る舞い、酔っぱらったところで船に押し入り、火薬庫に火を点ける」という策を最良と言い切る。庭にでると、アヒルを追いかけ、けつまずく。いわゆる、馬鹿殿様が板についていた。暗愚とよばれているのを知ってか知らずか、いつも微笑を浮かべている、ふとムイシュキン公爵を思い出した。
薩摩では、篤姫に御台所の話は聞かせたが、婿殿のとかくの噂は一切知らせなかった。父斉彬との話に心の決着をつけた篤姫は、ある夕べ「広川」と島津大奥老女に言う。「ありったけの、徳川宗家に関係する書物を集めよ」と。
さて、
昔の結婚は、よく聞く話に「花婿(花嫁)の顔も見ないままに、一緒になってしまった」とある。本当かどうか、昔の人に確かめてはいない。多分、仲人さんの口利きで双方の親がうなずいたら、本人の気持ちはそれほど重視されなかったのだろう。相手の男(女)がどうであれ、事前に相手の「家」だけをチェックするようだ。
ところが意外に、庶民はどうだったのか、はたと迷った。幾分似たところがあると思う。大家さんとか、店の旦那さんが、仲人の役割をしていたのだろうか? と、ここで婚姻史をひもとくほどに興味があるわけじゃない。ただ、なんとなく昔は「家」と「家」の結びつきが結婚の核になっていたようだ、と思う程度にしておこう。
最近立て続けに披露宴に招かれている。仕事柄そういう機会が多いのだと思う。ペアはそれぞれ長い付き合いのようだ。現代なら、家とか長男跡継ぎとかは多少問題になる場合もあるが、大抵は本人同士が一緒になりたいから、披露宴を持つことになるのだろう(笑)。篤姫時代とは違っている。そういえば、Muも結婚して数十年たつ。不思議なことよのう。
今夜の篤姫。
まだ徳川家祥(いえさち)のことは全く知らない。これから読書して徳川宗家のことを読んでも、当時在世の将軍の人となりについて書かれた書物は無いと思うが、どうなんだろう。次回以降、大奥にはいるまでの道が険しい。
なお、幾島も地獄の大奥まで篤姫についていく決心を斉彬に告げた。理由は「カン」だった。斉彬が篤姫を見出したのも、「カン」だった。カンカンと音が響き合い、よい一夜でした。
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コメント
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つまりbiglobeと思いますが、貴殿方の記事を確認し、当方から返礼をしようと何度もTBをかけるのですが、まったく受け付けてくれません。
申し訳ないことです。
投稿: トラックバックをいただいて方へ | 2008年3月11日 (火) 20時33分