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2008年2月23日 (土)

神功皇后陵の学術調査・見学

神功皇后陵

(奈良県奈良市山陵町)

 2008年2月22(金)の午後一時から約2時間半をかけて、奈良市の神功皇后陵を歴史学、考古学学会の関係者16名が調査・見学をしたようだ。どのような学会で、どなたが見学したかは、まだ私は知らない。いずれ、新聞や雑誌、学会誌などに掲載されるのだろう(もう、公開されているかもしれないが)。
 注:学協会情報については、機関誌内容も含めて、NIIの Academic Society HomeVillage に多くあります。

 YOMOURI ONLINE 神功皇后陵で初の「陵墓」立ち入り調査、埴輪の破片確認
 産経ニュース 尊厳守りつつ学術的解明を 神功皇后陵調査

 神功皇后については以前からどのような人だったのか、興味を持ってきた。この古墳は五社神(ごさし)古墳とよばれている。全長が270~276mというから、箸墓と似た大きさだ。巨大な前方後円墳である。

 今度の見学では、埴輪や葺石が見られたようだ。前方部3段、後円部4段あり、その一段目をぐるりと回ったのだろうか?

 上記の地図でもわかるが、佐紀(さき)のあたりは佐紀(盾列)古墳群:さきたたなみ:さきたてなみ、と言われるように、巨大な古墳がいくつもある。『近畿の古墳と古代史/白石太一郎』(学生社、2007.5)によると、その推測成立年順は、
 宝来山古墳(現・垂仁天皇陵、227m)→佐紀陵山古墳(現・日葉酸媛皇后陵、210m)→佐紀石塚山古墳(現・成務天皇陵、220m)→五社神古墳(現・神功皇后陵、270m)
となっている。

 以前の『古墳と大和政権/白石太一郎』(文春新書、1999.4)では、五社神古墳が最古になっていたが、2007著作では、宮内庁の円筒埴輪発見の発表により、新しい古墳と推測されるにいたった。

 なお、宝来山古墳(垂仁天皇陵)だけは、ちょっと離れた南部にある。

(奈良県奈良市尼辻西町)

 周知のように、桜井市の纒向遺跡近くには、崇神、景行陵がある。倭建命(やまとたけるのみこと)の息子さんの仲哀天皇の奥さんが神功皇后にあたる。

 この間の系譜の流れは、
 倭迹迹日百襲姫命(やまと・ととび・ももそひめ:箸墓)→崇神→垂仁→景行→成務→仲哀・神功皇后
となる。景行天皇の皇子に倭建命、成務がおられたが、倭建命は旅先で亡くなり、成務が景行天皇のあとを継いだ。仲哀天皇(香椎宮)は倭建命の皇子であった。
 上述での佐紀陵山古墳(現・日葉酸媛皇后陵、210m)の日葉酸媛(ひばすひめ)皇后とは、景行天皇の母にあたり、垂仁天皇の皇后である。当時のことは古い話なのでわかりにくい。

 わかりにくさは、陵墓の位置で、垂仁陵が佐紀盾列古墳群から、少し離れていること。神功皇后の夫・仲哀天皇陵は古市古墳群にあること。系譜の流れと陵墓の位置関係の違いについては、以前にもメモをした。「平城宮跡、そして佐紀盾列古墳群

 今回の神功皇后陵の調査・見学は、日本の古代史を一歩前進させる力になると思った。私は基本的に、聖域を認め、墓を暴くのは罪であると考えている。しかし、日本の古代史にあっての陵とは、天皇家の聖なる御陵であって、また同時に日本国の礎を客観的に保証する遺跡でもあると考えている。時は人の心を癒す。歴史にあっても、時はさまざまな想いを鎮める。すでに二千年の悠久の時の癒やしを得た今、古代史における陵・陵墓参考地の学術調査は罪ではなく、過去への思慕の証である。今後とも適切に行われることを祈念する。
 皇祖、天皇霊もそをうべなうこと、かしこみて識。

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コメント

考古学・歴史学者の悲願

 簡単な立ち入り調査だけでは、殆ど成果は期待出来ないと思いますが、大事な一歩ですね。

考古学者の世界では宮内庁が定めた陵墓と大王の関係について、当該大王の陵墓であると確定しているのは僅かな陵墓であると聞いています。

 お墓ですから、発掘は難しい問題がありますが、何か最新の科学を動員して陵墓の研究が出来る余裕を宮内庁は学者に与えるべきです。

 世界で稀に見る2000年の歴史いやもっと古いかもしれない、永い奇跡的な歴史を持つ皇室というものを探る事は、現在生きている我々の先祖を探る旅でもあるのです。

 何とか、いい方向に行く事を祈っています。

投稿: jo | 2008年2月23日 (土) 18時01分

Joさん
 陵墓、陵墓参考地については、以前から気になっていました。そういう専門書を見てみると、以前から書陵部が陵墓を修理するときなど、若干名の研究者が見学をしたこともあるようです。

 当時の人達が、墓として記念碑として、巨大な前方後円墳を作り、その多くに大王家、天皇家の人が眠っている。盗掘や破壊や自然破壊を経て、幕末から明治にかけて、古墳が陵墓、陵墓参考地として定められたようです。

 古来、日本の歴史では前政権の墓をのきなみ暴き破壊する行為はなかったから、今に至るまで形をなしてきたとも言えましょう。

 崇敬と学術とがうまく折り合うような方策は、あると考えています。近来の学術には倫理規定があります。考古学の陵墓関係にも、古代や対象陵によっては、新たな倫理規定を設けることが今後の二歩につながると思います。

投稿: Mu→Jo | 2008年2月23日 (土) 23時55分

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