卑弥呼の墓(007) 纒向遺跡解明への期待
承前:卑弥呼の墓(006) 邪馬台国がみえてきた/武光誠
1.発端
「卑弥呼の墓」シリーズを中断していた。今日はテキストの参照ではなく、伝聞と想念を若干メモしておく。
年始め、帰路自動車の中でNHKのTVニュースを声だけで聞いていた。その時、「4~5年かけて纒向(まきむく)を大規模に調査する。橿原考古学研究所が~」と、聞こえた。
後で気になって調べたのだが、橿原考古学研究所(橿考研)が関与するというのは聞き間違いだったのかもしれない。あるいは纒向関係の最近の新聞情報が、下記読売系しか見あたらなかったので、多くの点でこのTVニュースは、空耳だったのか(笑)。
いつも思うのだが、なにかしら纒向遺跡については、奈良県というか桜井市というか、ぎくしゃくしているような気がします。
誤解を恐れずに言うならば、さっさと豪勢きわまる「卑弥呼の館」でも造ればよいのに。
勿論、環境破壊とか、学術的に不明瞭とか、賢者、識者、良識者が、そう言い放つMuBlogを叩きこわすでしょうが(笑)、ことの本質は、ひとこと古代史黎明期について、「なにか、奈良県人には、気合いが入ってないな」だ。いやいや飛鳥は、大変がんばっておられる。行っても、よくわかる。公園もあるし、駐車場もある。観光施設をととのえて、異邦人に知ってもらうのは、大切なことだと思う。
もう少し、全国民に、国のまほろばとして、三輪山や箸墓や纒向遺跡を、大規模にこってりと、宣伝広報してもよいのじゃなかろうか。吉野ヶ里や、北九州の人心や、もろもろ考えて比べると、なんかこう、奈良県人は「どうでもよい」というのか、昔の奈良市のような「大仏商法」というのか、寂しい。
あるいは、「あそこが、邪馬台国で、卑弥呼の館はここなんだから、そんなこと、人に言いふらす必要はありまっせーん」と、ゆとりのゆーすけサンタマリアなのかもしれないが。
2.事前調査
纒向遺跡中枢解明へ(JoBlog)
「邪馬台国」畿内説の最有力地、纒向遺跡中枢地区を発掘へ(読売新聞記事)
そんな気がして数日後、ふと気がつくとJoBlogに記事がありました。ああ、ありがたい。それにガイドされて読売新聞の記事を確認したところ、大体のことが分かってきました。
「纒向遺跡の大規模発掘と整備を公約に掲げる谷奥昭弘市長は「考古学的にも画期的な調査となるはず。邪馬台国の手がかりをつかみたい」と期待する。」
との事なので、ここ数年の間、大規模調査が始まり(これまでもすでに150回以上あったようだが)、国からも資金援助があるのかもしれない。
3.参考
桜井市・文化財情報
発掘調査報告(見出)
桜井市イベント情報
纒向遺跡発掘調査報告書:巻 野内坂田地区における調査報告
埋蔵文化財センター
↓古い情報
桜井市立埋蔵文化財センター
纒向(まきむく)遺跡
4.MuBlog成果なし
橿原考古学研究所が関与するのかどうか、あるいはそのあたりの国や県や市の複雑な仕組みは分からない。研究者達のこともまったく無知。結局、何も分からなかったと言ってよいだろう。
ただね、桜井市の埋蔵文化財センターを以前一度おとずれて、人も施設も、とても印象がよかった。しかし規模は橿考研よりも小さかった。{崇神朝、三輪山、箸墓、そして纒向遺跡}をかかえる土地柄の施設なんだから、市や県や国は、人とお金とを大量に注ぎ、古代史の黎明期を国民に、大規模に知ってもらう必要があるだろう。ことわっておくが、上記に卑弥呼も邪馬台国も集合に含めていない。{崇神朝、三輪山、箸墓(はしはか)、纒向遺跡(まきむくいせき)}だけで、おつりがでる。
いや、真意は、「当たり前のことだから、書かなくてもよいでしょう」ぎゃはは!
追伸
新聞に「文化庁記念物課も「本格的な調査が進めば、全国に類例のない成果が得られる可能性がある。史跡指定をして遺跡を保存するためにも、早急に実態解明を進めてほしい」とする。」とありました。
この行文が気になったのです。もしこの部分が正確ならば、とりようによっては、奈良県や桜井市は、いろいろな複雑な利害関係かなにかしりませんが、要するにあれだけの土地柄を、本腰いれて調査しなかった、あるいはきっちり調査は長年やってきたが、国民に周知しなかった、そんなきらいがあったのか、とも思えるような記事でした。
(ただしが多いのですが、ただし。北九州の識者たちは、関西の研究者達が、邪馬台国纒向説を安易にジャーナリズムに流しすぎ! と、以前から申されているのも耳にしてきましたが、まあ、お互い活発に行きましょうよ)
以上、Mu誤解かな?
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コメント
Muの旦那はん
先ほど、宴会から帰宅し明日早朝の新幹線に乗らないといけません。荷物を整理してキャリーバッグに放り込みました。
今回は残念ながらMu大家とご一緒できませんね、センター試験ならしょうがないどす。明日は昼は家内と義妹と伏見の鳥せいで昼飯の待ち合わせだす。私は一人で京都駅からかけつける算段です。
前々回はここでお世話になりましたが、義妹がどうしても鳥せいに行きたいと希望です。
さて、纒向楽しみですね。21世紀最大の発掘というニュースを期待したいですが、その前に作業員として登録が必要ですね。
無錫も行かなあかんし、困っています。
投稿: jo | 2008年1月17日 (木) 23時30分
Joさん
本当に、今世紀初頭に、纒向でいろいろよい調査結果がでると、余生へのみやげになりますね。
長江をJoさんが現地取材して、帰り際に京都によって、Muと奈良県へ行くというパターンがうまく機能することを念じております。
ただ、DNAのパターンからみると縄文南方渡来、弥生北方朝鮮経由、という大きなパターンがあるので、そのあたりとの照合も必要ですね。
投稿: Mu→Jo | 2008年1月18日 (金) 04時41分
MUさん
縄文=南方系、弥生=北方系という考えは間違いかも。
どちらかというと、縄文人(古アジア人種)のほうが、北方から朝鮮半島経由、シベリアを渡ってやってきている。
弥生人(新アジア人種)というのは、稲作の伝播で、黒潮や対馬海流に乗って中国南部からやってきている。もっと先からみると、シベリア→中国北部→中国南部ー(黒潮、対馬に乗って)→日本列島。つまり、中国南部まで南下しての大回り。
つまり、古アジア人種というのは、初期のアジア人種で早い段階に日本に渡ってきたから、シベリアの寒さにいる時間が短かったと思われる。
が、新アジア人種というのは、シベリアにいた時間が長かったので、あういう容姿になった。
まあ、縄文、弥生時代という考古学上の定義自体、見直さないといけません。
縄文、弥生というのは、土器の名前から考えられた学説名ですが、そもそも、土器の種類によって人種を分ける考えは不適切だと思います。
投稿: まつ | 2008年1月18日 (金) 17時59分
よって、邪馬台国時代というのは、日本に稲作がやってきて最低でも千年以上経過した時代みたいです。
ところで、こういうのを見つけた
↓
1100 Reply 倭人伝の正始8年(西暦247年)=日本書紀の崇神治世10年 himiko 2008/01/16 16:45
私の推測の基点にあるのは
倭人伝の正始8年(西暦247年)=日本書紀の崇神治世10年
というのがある。
倭人伝では
邪馬台国・卑弥呼VS狗奴国・卑弥弓呼の戦い
→その直後、卑弥呼急死
→その直後、卑弥呼の大きな墓が作られる。
日本書紀では
大和国・百襲媛命VS許乃国・武埴安彦命
→鎮圧直後、百襲媛命急死
→その直後、百襲媛命のために箸墓という大きな墓が作られる。
投稿: まつ | 2008年1月18日 (金) 19時26分
はじめました、まつさん
返事がおくれました。
さて(1)縄文、弥生人
たしかにおっしゃるとおり、土器形式を、他へそのまま転用するのは不適切ですね。
DNA関係については、うろ覚えのことをコメントに書いて、指摘されて、もう少しきっちり考えようと思いました。
(2)倭人伝と書紀
モモソ媛と安彦さんのパターンを、倭人伝の卑弥呼のパターンに比較した例に、これまで気がつきませんでした。ありがとう御座います。
以上、はかばかしいコメント返しではないのですが、お礼を申し上げます。
投稿: Mu→まつ | 2008年1月19日 (土) 12時01分