私の京都:蛇塚古墳:魔界巡礼秦氏の謎
承前:私の京都:木嶋神社の三柱鳥居:魔界巡礼秦氏の謎
蛇塚古墳全景
ここで二点。
ともかく、太秦、木嶋といい帷子ノ辻といい、私は昔、幼稚園から就職して1年目まではこのあたり(車折:くるまざき!)に住んでいましたので、地名の呼び名をまちがうことはありませんが、他国の人だとほとんど絶望的な呼び名だと、痛感いたしましたよ。
ともかく、京都府下有数の蛇塚古墳だというのに、小学校、中学校くらいには訪れていたというのに、まったく、皆目、蛇塚の所在はようとして霧の中でしたよ。民家の密集地でした。記憶ではもうすこし野原の中にあったようなのですが、当日は目をつむって霊感でたどり着いた思いがしましたね。遠隔地の方は地図を確実に手にしてこないと、迷います。
地図:蛇塚古墳
蛇塚詳細地図:Google
京都府京都市右京区太秦面影町
石室の規模
それよりも、現実に足を入れて手でさわったのは玄室でして、しかもそれ以外の古墳を表す結構はまったくなかったです。むき出しの「石組み玄室」と言えばわかるでしょうか。むき出し玄室でそっくりなのは、飛鳥の石舞台にありますが、あそこは整備が進み、「方墳でした」と言われればそういう想像もできるのですが、蛇塚古墳は玄室の巨大さに圧倒されるだけで、その他のことはまったく分かりませんでした。
玄室へ至る道:羨道(せんどう)
近所の方が、JoBlog庵主と私の声高な「古墳評論家ぶり(笑)」会話に気がつかれたのか、柵の鍵を開けましょうかと言ってくださいました。さっそく、JoBlog庵主がノートに記帳し、中に入りました。
圧倒されました!
ほとんど、その一言ですね。ややこしい論議はふっとんで、ただただカメラ、ビデオをまわし、頬ずりはしませんでしたが、空から落ちる雨も意に介せず、玄室中央にたたずみました。古代人。すばらしい人たちだったと思いました。
参考にあげた松木先生の説では、創世記の前方後円墳(たとえば、箸墓であり、種々天皇陵でしょうな)は徹底的にモニュメント、祈念であり記念だったようです。まつられた人は人じゃなくて神さま扱いだったのでしょう。しかし、古墳時代も後期になって、6世紀になると家族や一族の為の「墓」になり、その内装や仕組みが精緻になり、力の込めようが外装から内装へ変化したようなのです。内でひっそりと個人を偲ぶ、そして夫婦や長男以外の子供を追葬するための横穴式が発達した、とか理解しました。
確かに岩根がごつごつして、いわゆるカミソリ刃一枚入らないとは申しませんが、広々とした空間は墓所であり居間であるような、そんな幻視を味わいました。
岩根の情景
今後は、固い鉱物の岩と、柔らかな植物とを対置して考えるのはやめようと思いました。時が相反するものを溶かし込んでしまう。
この岩根をみて、私はそう思ったのです。
熱燗と季節限定鴨なんば
さて、ここからが問題なのです。JoBlogではすでに早々と蛇塚古墳記事を書いておられたのに、Muは今日までかかってしまいました。いろいろ当方事情もあったわけですが、一番の問題は、蛇塚についてわたくしめが確たる典拠を得られず、そのうえ肩に力が入りすぎて、先行JoBlogに負けない物を書こうと思い出してからが、地獄の日々でありました。
そこで、いまだにどうしても引っかかっていることを以下にメモし、わたくしめの宿題といたします。
蛇塚古墳の課題
この蛇塚は本当に7世紀ころの前方後円墳なのか?
一般論としては、終末期古墳は6世紀末以降といわれ、それは円墳とか方墳が主な様式のようだ。もちろん、それだと横穴式の玄室附きが主流らしい。
少なくとも、終末期直前まで主流だった前方後円墳で、羨道のある、つまり横穴式は、珍しいものなのか、あるいはそれで築造時期が判定できるのだろうか。
蛇塚古墳が前方後円墳というスタイルでなければ、時代は新しくなる。表札には「輪郭をたどると前方後円墳」となっていたが、破壊された今となっては、超絶の科学技術が導入されなければ、不明といってよいだろう。
封土が取られたと書いてあるし、天井石はなかった。
飛鳥の石舞台は昭和か大正ころまでは、土中に埋まっていたと、どこかで読んだ。それを掘り出したわけだ。なにを言いたいかというと、封土がないというのは、蛇塚の場合、土中にあったのをだれかが掘り出したか、あるいは、だれかがわざわざ前方後円墳か円墳の土を取り去り、ついでに天井石も取り去ったことになる。
天井石については、封土が無くなりむき出しになった後で、地震なんかで倒壊し、下に落ちたのを、近所(大昔の事ですよ)の金持ちが庭石か、城石に運んだ可能性もあろうな。ともかく、一般に天井石は石舞台から想像すると、ものすごくでっかい石だろう。そんなもの、簡単に運べない。初めから無かったと考えるのもスジの一つだろう。
謎はもとにもどる。
たしかにこれだけ大きい玄室を設けたのは秦氏ほどの資産がないと無理だろう。昔よく聞かされた、無料で奴隷に作らせたというのは戯言、よまよいごとであって、今やだれも言わない。秦氏ほどの資産があってこそ、技術者を雇い、指揮者を選び、設計者を選び、石工を集め、土工に土を盛らせたのだろう。土盛りひとつとってみても、朝廷に土師氏という専業技術集団がいたくらいだから、ちゃんとしないと雨がふっただけで壊れてしまう。簡単な事じゃなかったはずだ。当然、高給が支払われたと考えるのが妥当だ。施工主が権力者でお金持ちでないと無理だろう。
いや施工主の問題じゃなくて、そうではなくて、この蛇塚のスタイルと築造時期と、大和朝廷との関係が分からなくなった。
蛇塚も、似ている飛鳥の石舞台も、大化の薄葬令(646年)以前のものだと思うが、もし石舞台を蘇我馬子の墓とするなら、それは7世紀の630年前後に築造されたはずだ。蛇塚古墳が7世紀のものなら、形状や雰囲気からなんとなく似ている(笑)。もし似ているなら、石舞台は方墳とみなされ、前方後円墳と認定されていないことから、蛇塚も前方後円墳と断じるのは、感覚的には危ない。どこかで早とちりがあったのだろうか。
もし蛇塚が前方後円墳ならば、今ある玄室の羨道は後日くりぬかれ、初めから天井石はなかったのじゃなかろうかと、不思議な思いにとらわれた。つまり横穴式ではなくて、竪穴式という想像。そもそも横穴式は朝鮮半島から6世紀ころに渡来したらしい方式だし、さらにあんなでっかい竪穴式墓室があろうとはおもわぬが、なにしろ秦氏は最先端の技術や発想を持っていただろうから、墓の様式も、母国よりも新たな祖国、新天地倭国で自由に調整したのかもしれない~。と、妄想はかさなるばかりなり。
で、被葬者だが今ある説の7世紀だと、秦河勝とは思えないが、6世紀にさかのぼるならば可能性もある。もちろん河勝さんの墓はいろいろあるようだから、これも謎だな。
……
まあ、そういうわかりにくさが蛇塚古墳にあって、これがもし70~80メートルもの大・前方後円墳ならば、その時期は6世紀にまで古くなりそうな気がした。あるいは、山城と飛鳥とでは墓製もふくめて文化の流れに違いが大きかったのだろうか。
すぐ近くの双岡は秦氏の城塞跡とも、耳にした。不思議は一杯残る。
参考文献
列島創世記/松木武彦.(小学館日本の歴史;1)2007.11 Mu注:ヒントを得た→「第六章 石と土の造形」
歴史考古学大辞典 (吉川弘文館) Mu注:ヒントを得た→「古墳/河上邦彦」
参考サイト
蛇塚古墳(JoBlog)
洛西に秦氏をたずねて1(平安京探偵団)←Mu註:以前から信憑性の高いサイトとして参考にしています。団長さんという登場人物は歴史学者のようです。
石舞台古墳の状景(ビデオ) MuBlog
石舞台古墳 MuBlog
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コメント
Muさん やっと記事がアップされましたね!
地元のMuさんにとり、蛇塚古墳は書きにくいテーマでしたかね。なんせ、地元で子供の頃は古墳の周りを走り回っておられたのでしょうね。
巨大な横穴式石室と前方後円墳という事で驚きました。秦氏の力は絶大だったのでしょうね。小野妹子の小野氏、小野篁、小野小町、坂上田村麻呂の坂上氏 等々の氏族は秦氏グループではなかったでしょうか。
平安時代以降の秦氏を徹底的にしらべましょう。
投稿: jo | 2008年1月15日 (火) 21時39分
Joさん
遅れた投稿でした。
ところで、小野氏は近江関係の図書にごっそりたくさん記事がありました。
田村麻呂さんのことは、平安京に関係が深いですね。
歴史趣味にすると、生きている間には解けない問題がいっぱいありすぎて、ストレスになりそうです。
ロボットや機関車は、しかるべき手を打つと動きますし、PCもそれなりに速くなりますからね。
ともかく今後は上京するたびに、行き先を考えておいてください。
投稿: Mu→Jo | 2008年1月16日 (水) 04時32分
(蛇塚の雨)
おっ!しばらくブログを見るのも書くのもさぼっていましたところ、面白いミニ映画が上映されているではありませんか(笑)。
怪しげなナレーターと、イケメン俳優出演ですね。
ん?もう一方足りないんじゃ?やっぱり、今度は風雪梅安ご一家みなさま全員の映画が見たいですねぇ。
大変な雨の中での撮影、ご苦労さまでした。
投稿: wd | 2008年1月16日 (水) 08時45分
WDさん、こんにちは
雨は雨なりによい風情でした。特に木嶋神社はよかったです。蛇塚は上からぽたぽたとありましたが、帽子でしたから。庵主さんは傘さしてました。
風雪梅安一家が勢揃いしないのは、寂しいものですね。ただし、梅安さんは幾分古代史が他人行儀なので、こういうディープな探検には不向きかもしれません。さっさと、「めなみ」などに放り込んでおいて、別行動するのが正しいわけです。
梅安さんは、ちょっとレトロな巷が一番お好きなようです。
またそういう機会もあると思います。
投稿: Mu→wd | 2008年1月16日 (水) 11時54分