小説葛野記:2008/01/04(金)仕事始め
7:40葛野着、マシンの火入れ式をおこない、珈琲を飲んで一段落。一応4台のマシンをオンしたが、手元の涼夏2007PC以外はすべて古い時代の、つまりレトロなおもむきを見せている。それでも一番古いマックといってもMacOS9.1搭載のG3だから、じわじわと世代交代はしてきたつもりだ。WindowsVistaは今年も入れないだろうな、どうなんだろう、あのOSは。
今年も無事新年を葛野で迎えることができた。亡き父は年越しそばを食べるたびに、「tosio(Muの過去名)よ、父ちゃんはあと何回、蕎麦を食べられるかな。」と言うておりました。余もそういう台詞をはく季節じゃなぁと、独り言。
といいながらも、今年も元気いっぱい、やりたいことが両手からこぼれそうで、時間がどれだけあってもたりない。もちろん一番時間を喰うのは、例の「ぼんやり」と、眠ること。このぼんやりが無ければ、今朝も元気に笑いながら葛野へ出てくるわけがない。長生きの秘訣は多分、ぼんやりと、そしてよく眠ることじゃろうね。睡眠は死、起床は再生、甦り。このままだと、永久に甦りそうな、そんな気持ちがじわじわとわいてきたね、今朝。
ぼんやりは、これは一家言あるよ。世の中の者は、ちょっとこざかしすぎる。もっと、ぼけたらよいのに。今日明日の利をもとめて、細かくちょろちょろ計算しすぎる。そこのところは、風呂に入ってしばらくぼけておれば、もっと気持ちよく行けるのにね。
ただ、ぼんやりするにも仁義があって、こうして早寝早起き、宿題は発生したら即たたきつぶすという日頃の修練なくして、ただ、一生ぼんやりしていたら、そりゃ、お釈迦様でもゆるしてくださらぬよ。節目、節目、ちゃんとご飯たべて、よくねむって、老翁の意見はちゃんと聞いて(うけけ)、やることやって、それからぼんやりしないとな。
ああ、新年早々説教になってしもうた。
さて、本日定食。
職場全体の新年顔合わせがあって、ありがたいお話や、佛の慈悲を味わう、職場独特のセレモニーがある。これ、ここしばらく「よきこと」と思うようになった。昔からセレモニーがあるたびに心身壊すほどに、あらゆる儀式は嫌いだったが、宗旨替えしたというか、人生観は年齢相応に変わるものだね(笑)。
「嫌なら、しない」→「なにか、みんなやっているのだから、いいことあるのかな?」→「うん、それなりに」→「いや、これがないと、気持ちがしゃっきりしないね」と、人の心はどんどん変わる。
パンタレイ・万物流転するなぁ。
そのあとは、さっそくお仕事。これはなあ、昨今いろいろあるよ。いま抱え込んでいるのは、~、まあナイショだね。公器blogで、あれこれいうのははばかれる。Mu個人のことなら、何をいうても、いいけどね。他人がたくさんかかわることは、口にチャック。
そのあとは一休みして、さて、カッターナイフをとぎすませて、でっかい発泡スチロールを、シュパ、シュパと切り刻むか、あるいはif then elseでロボットのセンサーの値をモーター駆動に結びつけるか、あるいは手帳でも新しくするか、本当にいろいろあるよね。
今年も誠心誠意、生を楽しもう。
追伸
年賀状たくさん、いただいて、ありがとう。Muはもう手書き文字が書けないし、年賀ソフトなんて難しくて触れないので、心の中でみなさんのご多幸を深く祈念しております。また来年もくださいな(笑)。
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