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2007年12月30日 (日)

私の京都:木嶋神社の三柱鳥居(このしまじんじゃ・の・みはしらとりい)魔界巡礼秦氏の謎

 最近葛野の事ばかり記していて、私も読者も「葛野話はもうよかよか」と思っていた矢先、関東は横浜から畏友Jo(JoBlog庵主)さんが京都魔界詣でに上京なさったので、伴をした。繁忙きわまりなき師走だったが、実は葛野研究室も月末停電だし、仕事も疲れたし、久しぶりに魔界異界の都に紛れ込んで、気鬱の世界にもおさらばしたいと、誘いにのったわけだ。
 と、思って一筆啓上。

 ところが、魔界京都といえば秦氏登場、となるとまたしても葛野郡、なんともカドノからは逃れられないようなのだ。その秦氏(はたうじ・はたし)といえば京都市右京区の太秦(うずまさ)広隆寺、そこから東に500m行くと、ちょっと異色の木嶋神社(このしまじんじゃ)、別名蚕ノ社(かいこのやしろ)があって、そこの神池(元糺池)には京都三鳥居の一つ、三柱鳥居(みはしらとりい)がある。
 と、早口に言ってもそれがどこかは、遠来の方にはわかりにくかろう、と思って地図を用意した。太秦映画村はすぐ西にある。じっくり界隈を御覧あれ。

木嶋神社(蚕ノ社)地図 「このしま・じんじゃ」

(京都府京都市右京区太秦森ケ東町)

 木嶋(このしま)神社境内に元糺池(もとただすのいけ)があって、そこに目当ての三柱鳥居があった。境内全域古式、神韻縹渺(しんいん ひょうびょう)とした雨あがりの半日でした。
3tori
木嶋神社の三柱鳥居(Mac & Win 動画mp4・13MB)

木嶋神社の新しい鳥居

新しい鳥居:木嶋神社南から
石碑「式内郷社 木嶋座天照御魂神社」と「蠶神社」
 鳥居が真新しく見えた。寄進もゆたかなのかもしれない。寺社仏閣は、特に京都の有名所は観光客も多く布施・寄進も豊かだろうが、この地元に張り付いた木嶋神社に観光客が大挙して押し寄せるとは思わない。
 だから、想像だが、地元の人達の力が大きいのだと思った。寺社の修築はなにからなにまで特殊だから、相当な資金が必要なのだろう。最近もどこかの田舎で神社の屋根を葺いた高価な銅板が盗難にあったとニュースで知って、私はその地元の人達の気持ちに同情した。
 入り組んだ道のすがらに、突然大きく立派な鳥居が目に入ってきて、この日はこの瞬間から幸せな気分になった。

境内と神紋

木嶋神社の境内
千木の外削ぎ
加茂葵の神紋

 雨という、神社を訪れるに絶好の天候だった。私の考えでは、神社は朝霧の霞む極早朝とか、浄闇の夜とか、天候なら曇よりも雨、さらに雨上がりが一番神々しく思える条件だと思ってきた。雨の京都太秦(うずまさ)、人家の建て込む、細い道の横にこれほどの巨木に囲まれた神域があるということに、恍惚とした。濡れた敷石の反射、木々葉々の繁茂、水滴に霞む社殿。本当によい参詣となった。

木嶋神社の由緒

由緒:木嶋坐天照御魂神社:このしまにますあまてるみたま・じんじゃ
木嶋坐天照御魂神社/京都市:このしまにますあまてるみたま
木嶋神社(蚕の社)平面図/京都市

石碑「かいこのやしろ」
石碑「かいこのやしろ」

 由緒の後ろに景教(キリスト教のネストリウス派)のことが載っていたが、このことはちょっとした記憶がある。昔、京都大学の図書館に縁があったころ展示会(東アジアの文字)を開催し、そのとき博物館から「大秦景教流行碑」の原寸パネル写真か、あるいはレプリカを貸借したような気がする。作成した資料は葛野研なので、ちょっと分からない。この「大秦」の意味は、諸説勘案すると「景教」の意味らしい。大秦寺とは、景教寺院とのこと。となると、原始キリスト教と太秦(うずまさ)とは無縁ではないという、幻視がうまれそうになって、ここ数日困っている(笑)。この説はそこここで、時代が合わないとか、否定されてはいるが、シルクロード・絹(養蚕)・景教・ユダヤと、話は尽きなくなる。ふむふむ。

三柱鳥居と元糺の池(みはしらとりい もとただすのいけ)

三柱鳥居:元糺池
三柱鳥居(みはしらとりい):木嶋神社
 肝心の「三柱鳥居」だが、それが建つ元糺の池が修復中で、そばには寄れなかったし、竹矢来の囲いもあったので、撮影は困難だった。この特殊な鳥居の形態については、末尾に記した丘氏は太陽の道の方角との関連を述べておられた。
 異を唱えるつもりも知識もないが、「三角形」という安定と、その中心になる石組みの神座とを合わせて考えるなら、わきあがる元糺の水を制し(あるいは、嵐山の葛野堤という治水)、どっしりと安定した力で神座を守る秦氏の気概を感じ取った。上方からの撮影ではないので正確とは言えないが、おそらく正三角形の形をとっているのだろう。四面よりも単純な三面に、質実剛健なイメージを味わった。飾り無く最小の力で最大の効率を上げる、それはそこらの磐にすら、ふと座します古代の神と同じく、秦氏の生き方だったように思えた。要するに単純で、二柱の一般的な鳥居よりも力強い、それが三柱鳥居なのだろう。
 しかし創建が分からないので、上記はあくまで想念。秦氏が考案したのかどうかさえ、霧の中。

魔界巡礼秦氏の謎
 肝心の秦氏の謎ですが、これはJoさんが様々な異説を移動中に語られ、すべてを記憶したわけではないが、要点をメモしておこう。

1.秦氏は聖徳太子のバックボーンとして巨大な財を太子に貢いだ。何故か。それは、太子が秦氏の出身だから、とのこと?
2.桓武天皇を、平城京→長岡京→平安京、と次々と引っ張ったのは背後に秦氏がいた。桓武さんの母上は百済王族出身の帰化人「高野新笠」だから、その関係から、桓武さんも秦氏系と言えなくもないとか。つまり秦氏そのものではなく、秦氏の影響下にあった帰化人だったから、という論法だった。
3.諸説あるなかで、瞠目したのは、平安遷都を裏で支えた秦氏が突然歴史から消えたのは、実に簡単なトリックがあって、それは藤原氏を秦氏がのっとったと言う説があるようなのだ。さらに、もともと藤原家創始者・中臣鎌足が秦氏だったのだから、乗っ取ったというよりも、単純に先祖返りしただけの話と、聞いて唖然とした。そうだったんだぁ~!

*.というわけで、魔界巡礼の次の目的地は、京都府下有数の前方後円墳、すぐ近所の「蛇塚」に行くことにした。ここも秦氏の墓と言われているようなので、そもそも飛鳥の石舞台よりも大きいのだから、秦氏とは想像を絶する富豪、資産家だったようだ。
 蜂ヶ丘中学の同級生で、「ぼくは秦河勝(聖徳太子の財政支援者)の子孫なのだ」と言っていた友人をふと思い出した。たしかに広隆寺と木嶋神社の中間に生家があるのだから、信じてもよかろう。あははは。

 なおJoBlog庵主と二人で大笑いしたのだが、今回の魔界京都巡礼の旅のお友は、次の図書だった。これは私は刊行時(2005)にすでに入手していたが、最近入手されたJo庵主には黙っていた。ネタ本が同じでは、気恥ずかしい。
 『京都魔界巡礼/丘眞奈美』PHP文庫、2005.10

追加情報
 元糺の杜 京都魔界巡礼 By JoBlog(2007.12.31)

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コメント

Muの旦那はん お疲れ様でした

 本日午後、横浜に帰還しました、京都では大変お世話になりました。元糺の杜、蛇塚古墳の旅は格別の思いでありました。

 Muさんが青春時代を過ごされた太秦は重要な場所である事が今回の旅で十分に認識出来ました。

 秦氏を調べる事はこれからも重要ですね、次回の京都魔界巡礼を楽しみにしています。

ところで、手袋を車に忘れたようですが、来年の年末の頃に寒くなった頃残っていれば、又、使わせて貰います。

投稿: jo | 2007年12月31日 (月) 17時31分

JOさん
 秦氏のことは全古代史に関係してくるようで、難しいことですね。
 蛇塚のことは、Muは来年の一週目くらいになりそうです。好きなところだから、余計に時間がかかりそうです。
 来年まで手袋をまたずとも、年明けには送りましょうか。それか早い時期に、信楽宮や木津川のクニ宮や、行かないとぉ。お伴しますよ。

よいお年を。
再見

投稿: Mu→Jo | 2007年12月31日 (月) 18時57分

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承前:私の京都:木嶋神社の三柱鳥居:魔界巡礼秦氏の謎 蛇塚古墳全景  昨年末、畏友JoBlog庵主さんと、太秦(うづまさ)の木嶋(このしま)神社への参詣の後、余勢をかって自動車を帷子ノ辻(かたびらのつじ)に向け、松竹撮影所の近所で南に向かいました。  ここで二点。  ともかく、太秦、木嶋といい帷子ノ辻といい、私は昔、幼稚園から就職して1年目まではこのあたり(車折:くるまざき!)に住んでいましたので... [続きを読む]

受信: 2008年1月15日 (火) 15時04分

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