小説木幡記:2007/12/12(水)料理と工作
料理も工作も人に誇れはしないが好きなことだ。
似ているところはたくさんあるが異なりも大きい。
素材あつめ
昨夕の食卓にぶりの造りがでた。切りノリもついていて数切れ、うまうまといただいた。脂ののりがことのほかよく、満足だった。店ではなくて木幡だから、厚さもそれなりにある。近所の食堂で寒ブリだと、薄く数きれで500円近くするから、自製はよい。
あらかじめ、レアレアな肉に比定して、海苔もふりかけてあるので、頃合いの舌触りだった。
昨夕の寒ブリのような上質な食材が廉価に手に出来る店が京都にあるのだろうか、いやあった。
昨夕阪急電車をおりて、不意に思い出し河原町を北上した。でっかいカラオケビルが見えるところで左にまがり、新京極通りまで行かずに、途中でロフトと表記されたビルに入った。若い人で一杯だった。カップルよりも、若い女性が「一体、何をそんなに買い物するの?」と、思うくらいに沢山いた。
五階の文具店でアクリル絵の具や、粘土や、ポスターカラーや幅広のマスキングテープや、大型のジェッソや、なんとかメディウム? やら分けの分からないものを沢山買い込んだ。6千円も差し出したのだから、相当に重くなってふらついた。絵を描くつもりじゃなくて、工作の材料だ。
画材屋さんが他にも、あちこちにあるのは木幡で聞いたが、結局行きやすいロフトにした。
調理
こんにゃくとか野菜の煮たのとか、寒ブリとの取り合わせとか、漬け物とか、見た目良くて美味しく仕上げるには年季が必要だが、「食べたい」という気持がないと、うまく行かないのだろう。
素材や道具をいくら揃えても、作ってみたい、工作してみたいという気持がわいてこないと、パーツも死んでしまう、粘土も無駄に固まってしまう。
頂きます
いただいてもいただいても、また翌日になるといただきたくなる。人の燃費はとても悪い。
しかし美味しいイメージがないと、いただきたくもなくなり、大きな楽しみが一つ消え、食事を想像するだけでげっそりする人もいることだろう。
作っても作っても完成してしまうと、「ぼく作る人」と呟いて、どれほど工作している時間が至福だったかを思い出す。で、また作り出す。活字中毒はよく聞くが、この世には工作中毒もいるようだ。
そう言うわけで今朝も始まった。
また葛野へ出掛けて、授業前の急ぎ働きを一つ。明日中に間に合わすべき書類があって、今日は授業と会議と会議と会議で、夕方になればゾンビーになるので、朝のうちに済ませておこう。
授業しても授業しても、会議しても会議しても、話が尽きない、終わりのない物語。
ひがのぼりひがしずむ。
きりもなく。
日々じゃねぇ~。
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