応神天皇陵と二ツ塚古墳の関係
記事の主調は古墳をとりまく二重濠がはっきりするような外濠と外堤が東側にも見つかったという点にある。これで応神天皇陵の規模がさらに拡大したことになる。
記事では周濠の年代については言及がなかったが、以前に森浩一は「古墳の周濠は、~略~農耕用の溜め池」(参考1)の可能性があるから注意深く考えよ、と述べていた。つまり後世、近辺の農家が濠や堤に手を入れたかもしれないという注意である。
可能性として全くの周濠新造もあり得ようが、この応神天皇陵の場合は知らない。むしろ濠を埋めて田畑にしていたというのが実情なのかもしれない。
その上で。
もう一つ注目すべきことが記事にあった。東側に隣接する陪墳(ばいふん)の「二ツ塚古墳」の特殊性を、白石太一郎(奈良大学教授)の解説を交えて指摘していたのだ。応神天皇陵および周濠・堤が、全長110メートルほどの前方後円墳(応神天皇陵よりも30~50年早く築造?)二ツ塚の位置を相当に配慮して築造された可能性を示唆していた。
飛鳥の石舞台(多分蘇我馬子の墓)の周りには潰された古墳がいくつかある。普通は、後の古墳を作る人達は、じゃまな小墳は破壊するようだ。それが、この場合には、応神天皇陵全体が二ツ塚古墳を避けて、湾曲しているのが明瞭だという話だった。
私はさっそく白石教授の図書を広げて見たのだが、残念ながら一般書(参考2)のせいか、誉田御廟山(応神天皇陵)の詳細や陪塚の二ツ塚古墳に関する箇所は見付けられなかった。
ところで応神天皇陵の被葬者は応神天皇であると、安本美典(参考3)が書いていたので、私もそう思っておく。
応神天皇時代に、応神天皇ないし後継者(仁徳天皇?)が応神天皇との関係をおもんぱかって、110メートルの古墳を潰さずに、応神天皇陵を湾曲させた被葬者はだれなのだろう?
女性なのか男性なのか。有名人なのか無名の人なのか? 無関係なのか。
考え出すと謎が深く、重くのしかかって来た。
文献的には記紀を詳細に読んだり、伝説をさがしてみたら、分かるのかも知れない。
大王の権威を曲げて作られた陪塚、二ツ塚古墳の被葬者、また新しい謎が気になりだした。
参考1:古代日本と古墳文化/森浩一 講談社学術文庫966
参考2:近畿の古墳と古代史/白石太一郎 学生社、2007.5
参考3:巨大古墳の主がわかった/安本美典 JICC(ジック)、1991.10
応神天皇陵東側の二ツ塚古墳:Googleの地図(写真)
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コメント
ここで陪墳とか陪塚という言葉について、後日に調べておく必要がある。メモ。
これまでのイメージでは主となる大規模古墳があって、その関係者とか、その主・被葬者を支えた人などが、陪塚に同時期か後世に眠っておられる、と想像してきた。つまり、おそばに葬られた、という想像である。
しかし、主たる古墳より以前に調えられた間近な古墳は、これを陪塚と呼ぶのだろうか?
主たる古墳とまるっきり無関係なら、壊されていた可能性があるし。
逆転して、その小さな古墳を守るために、後の主が近所にでっかい前方後円墳を築いたとも考えられる。
昔の人の考えは良く分からない脳(笑)
投稿: Mu | 2007年11月17日 (土) 08時44分
誉田御廟山古墳
ニュースはネットでも読めましたが、二ッ塚古墳というのは変ですね、塚も古墳も同じ意味ですから・・・。
明らかに、二ッ塚は誉田御廟山古墳よ古いのですね。であれば、陪塚とは呼べないでしょうね。でも二ッ塚以外にも陪塚は何個も存在していますね。
大仙古墳は最近では仁徳さんではなく、履中さんだと言う意見が多いようで、何分、陵墓指定地は発掘出来ないので何だか判りません。
明らかな事はこの河内の海岸沿いに4世紀末から5世紀にかけて巨大古墳を建造し、瀬戸内海航路を支配し大和を制圧し朝鮮半島に進出し百済と提携し、高句麗の広開土王と激戦した大王がいた事は確かですね。
誉田御廟山古墳が本当にに応神大王の墓ならば、ヤマトタケルでも不思議はないのではないでせうか。
ともかく、羽曳野まで白鳥は飛んで行ったといいますからね。
投稿: jo | 2007年11月17日 (土) 16時17分
Joさん
ちょっと本記事は、Muの無意識の落とし穴つきなのです。落ちるのはMuですけどね。
自分で掘った穴に落ちることで、きっちり目が覚めるということでしょう。そして、あれこれさらに深く考え出すという、しかけ。
結論
新聞記事のどこにも、陪塚とか陪墳とか、書いてありません。記者も、当然ですが、専門家の白石教授も、ひと言もそんな言葉をつかってはいません。
しかしMuはそれを意識しながらも、明確に陪塚とか記しました。そしてしばらく後で、自家コメントを入れておいたのです。
そうでもしなければ。
Muはいつまで経っても、特に前方後円墳の巨大写真をみながら、そのそばにある小さな古墳をみると、ずっと「陪塚」と呟いていることでしょう。
陪塚を、主塚と比較しての年代を外し、位置情報としてだけ読むならば、大きい古墳のそばの小古墳はすべて陪塚と読んでもよいでしょう。しかし、主塚の関係者、部下、近親者と考えるなら、一般に陪塚は主塚よりも新しくないと、意味上の矛盾をきたします。
ところが。
ここに問題があって、古墳の年代測定は、前後に数十年のズレがあるらしいです。幅で半世紀、50年程度の長さですね。場合によっては、前後50年であわせて100年くらいになるかもしれませんなぁ。
出土したもので測定したり、意匠で判定するようですが、……。あてになりません(笑)。
そもそも、仁徳天皇陵も応神天皇陵も、一年や二年では出来ませんよね。どっかの異国のなんとかファミリのように数百年かかるとはおもわないけど、10年程度はざらにかかるでしょう。
となると、大きいのと小さいのとでは、同時に造っても、小さいのが先にできますね。
そういう幅の重なりを、たとえばエクセルなんかで横棒にして示すと、まるで工程表。
さて、陪塚とか、古墳の年代とか、最先端の研究者達は、どんな工夫をしているのでしょう。
そうそう。古市のヤマトタケルさんですね。安本センセは、違う、と引用文献で言い切っていました。意匠のうえで、古市のは6世紀古墳スタイルンのようです。ヤマトタケルさんは多分4世紀末頃の方でしょう?
その代わり、三重県亀山市の能褒野王塚古墳は、ヤマトタケルさんが眠っておられると、言い切ってはりました。Muも素直にそう、思っておきます。
それと、塚と古墳ですね。多分ね、どこの地元でも墓らしいものは昔から「塚」と名付けて読んでいたのでしょうね。古墳の「墳」は、でっかいものを指すようです。だから、卑弥呼の墓は魏志倭人伝では、塚(冢)と書いてあるから、でっかい前方後円墳ではないと、いうてはるセンセもおられました。
結論として、塚までが地名で固有名詞、古墳は「でっかい墓」という普通名詞ですね。
(ほんまかな? あははは)
投稿: Mu→Jo | 2007年11月17日 (土) 18時59分
Joさん、ひつこいけど、本論書くのわすれてた。
Muの新説
局地的な範囲では、前方後円墳の被葬者は、日本書紀の現代図書の頁数の多寡で、前方後円墳の全長を見て、判定できる。
以下は私のもっている、だれにも読める翻訳日本書紀です。
応神天皇→15頁(神功皇后内も加算して増加)
仁徳天皇→26頁
履中天皇→ 8頁
反正天皇→ 1頁
允恭天皇→14頁
してみると、仁徳天皇さんは世界最大の仁徳陵でよろし。その次というかほぼ同一の応神天皇陵もそれでよろし。
すると、履中天皇さんは、ちょっと小さくなるでしょう(仁徳陵と比べての話ですよ)。むしろ、允恭さんの方が大きいと思いますで。
このMu新説の注意点は、局地的にみないと誤ります。
投稿: Mu→JO | 2007年11月17日 (土) 19時16分
伝説っぽい応神天皇ですが、
みささぎがあるということは、
実在の、生身の人間だったということですよね?
誉田別尊(ホンダワケノミコト)と
応神天皇は同一なんでしょうか?・・
石清水八幡宮も主神は誉田別尊ですが、
どこまでが神話伝説で、
どこからが史実なんでしょうね。
世界各国、神話と歴史の境目は曖昧で、
そこにはいつも為政者の思惑が絡んでいるようで・・・・・
投稿: 伽羅 | 2007年11月17日 (土) 22時16分
日曜歴史家としてお答えします。
1.応神天皇は、比較的実在性の高い人のようです。それまでの天皇は奈良県に住まいしていた人が多く、応神さんから河内に住まいする人が増えます。なにかあったんでしょうかね。
2.普通に知っている天皇さんの名前は平安時代初期に後世の人が漢風につけたものです。本人にだれも「応神さん」とは言っておりません。ホムタ(わけ)ノスメラミコトは和風で、実名なのでしょうね。同一人です。
3.実在性は一般に10代の崇神天皇さんから信じられています。しかし、Muは初代神武天皇から実在と考えております。それ以前は完全な神話でしょうね。ヤマタノオロチが本当にいたら、怖いですからね。
4.為政者の思惑は当然でしょうね。ただし、民人にも土着の神話伝承があって、為政者はこれらを無視できません。勝手に為政者が別神話を押しつけると暴動が起こります。天津神(あまつかみ)と国津神(くにつかみ)の対立融合でしょう。
というわけです。
Muは、実は、応神さんは比較的新しい人と感じています。もっと、昔が好みですね(笑)。
みなさんは、大抵やっきになって、為政者の造った神話、嘘話と過去を否定されますが、Muなんか現代でも神話とも物語とも言えない日々を送っているので、なんで躍起になって、脳内イメージをみんなして貶すのか、不思議ですよ。
死んでしまえば、うつつも幻も、なくなるというのに~。うけけ。
投稿: Mu→伽羅 | 2007年11月17日 (土) 23時02分
はじめてまして。この議論に参加させてください。
この二ツ塚古墳についてですが、応神天皇の妃の誰かなんて推測もしたいのですが、応神天皇の妃の陵墓って他に確定されているのでしょうか?少し調べてみたら、他に陵墓が確定されている妃もいるみたいですが...
あと、私も崇神天皇以前の天皇の実在を信じています。そして、その秘密は、火明命の後胤である尾張氏・海部氏が握っているのでは?と思っています。そういうふうに考えた場合、神武天皇以前の神話の部分、少なくとも皇室の事実上の最初の父方の先祖である天忍穂耳命からは実在したのでは?と思っています。(古事記や日本書紀の神代の部分では、この天忍穂耳命とその前である天照大神の間には区切りがあると思う。)
投稿: himiko | 2007年11月18日 (日) 01時33分
himikoさん
1.二ツ塚古墳の被葬者
応神天皇陵が二ツ塚古墳を避けて造られた形態は、それらしく見えるので、時代は古いのでしょうね。
もしおっしゃるように、妃の一人なら、若い頃の方か、あるいは神功皇后時代の方かもしれません。
神功皇后さんは、現代の書紀で22頁も使っておられます。応神さんはその後半部から皇太子として登場しますから、まるで母親天皇=神功天皇に見えますね。
で、説の通りなら応神陵よりも半世紀前の二ツ塚古墳ですから、もしかしたら、神功皇后時代の関係者かも。
2.神武さん以前の話
尾張氏とか海部氏とかになると、物部さんのご先祖、ニギハヤヒさんがかんできて、難しいことですな(笑)
日曜歴史家としては、この程度が、資料なしで書ける限界です。議論にならなくてすみません。
(白石太一郎先生の古墳関係本は、すぐに話が邪馬台国に関係してくるので、さらに難しくて、……)
投稿: Mu→Himiko | 2007年11月18日 (日) 02時52分
Muさん、ご返信、ありがとう。
そうですしね。もしかしたら、神功皇后の時代ぐらいかも。誰でしょうかね...
一方、神武天皇以前の話ですが、確かに、尾張氏、海部氏の話をしだしたら、物部氏やニギハヤヒの話が出てきて、ややこしくなりますよねw
一般的には、火明命=ニギハヤヒを唱えているのは物部氏だけであって、皇室・尾張氏・海部氏は火明命≠ニギハヤヒ、物部氏=天神≠天孫という認識をしていたみたいですが...
ただ、いずれにせよ、この話は重要で、神武東征とは何だったのか?という話になる。軍事専門家から見たら、神武東征戦争は有り得ない戦争で、また、神武軍の完全な負け戦らしいです。で、ボロボロになりながら、和歌山のほうの裏手から周って大和へ侵入している。この戦争の主役って、本当に神武軍なのか?
その後、神武はイワレヒコといって、大和に居を構えたが、その後、崇神天皇の時代まで記紀の記載が少ない。(ただし、記載が全くゼロというわけではない。)この辺の系図をめぐって、皇室と海部氏の間に一悶着があったみたいで。しかも、その間には卑弥呼と噂される百襲媛命(孝霊天皇の皇女)が登場する。魏志倭人伝の「倭国は元々は一人の男王がいたが、やがて歴年争って、女王を共立することによって治まった」ってあたりの話になる。
とまあ、これ以上は、これについては話をしません。
が、最後に、海部氏系図関連の参考書籍を書いておきます。
・古代海部氏の系図 金久与市 (著)
・『神道大系古典編13』
投稿: himiko | 2007年11月18日 (日) 04時49分
盛り上がっていますね
話は変わりますが、昨夜、不思議発見という番組でブルガリアの先住民族の話が展開していました。ゲルマン移動前のゴート人が侵入する前のトラキア人の話でした。
最近、巨大な土饅頭というか墳墓から素晴らしい金細工の見事な埋葬品がザクザク出土してるという話です。
ギリシャ彫刻を凌ぐような金で出来た作品がでているのです。紀元前の話で、遊牧民だそうです。
そういえば、鉄を発明したのはヒッタイトという遊牧民であるという話を聞きましたね、金属加工に優れた民族が何故遊牧民からでたのが、私の謎なのです。
メソアメリカの民族もそういえば、金の加工と素晴らしい作品を残していましたね。彼らも確かモンゴル系統の遊牧民かわが先祖の航海民である縄文人の可能性がありますね。
不思議は尽きませんね。
投稿: jo | 2007年11月18日 (日) 17時54分
himikoさん
神武さんの大和入りは、正規軍では敗れたので、ゲリラ軍に変わったのでしょうね。
その後、崇神さんまで記紀に明瞭に残らなかったのは、神武さんがニギハヤヒ(物部)の三輪・大物主に同化してしまって、記紀本流思想から外れた時代が続いたからでしょうね。この時代が邪馬台国だったのかも。
ものすご難しい話ですね。
よく答えられません。
私も参考図書を上げておきます
日本の神々:先代旧事本紀の復権/上田正昭、鎌田純一(大和書房、2004)
追補
海部氏のことは、親友がよく知っているのですが~。
投稿: Mu→HImiko | 2007年11月18日 (日) 22時02分
JOさん
舞台が急にヨーロッパやメキシコに飛んでも、ついていけないですよ。
しかし、メキシコについては、かねがね思うところがあるので、後日落ち着いたらじっくりご相談いたします。
「黄金」それは人類史にとって、どういう意味があったのでしょうね。
投稿: Mu→Jo | 2007年11月18日 (日) 22時05分
Muさん、ご返信、ありがとう。
また時間があれば、その書籍「日本の神々:先代旧事本紀の復権/上田正昭、鎌田純一(大和書房、2004)」も参考にしたいと思います。
私は、ニギハヤヒ=火明命なのかは、現時点では判断できませんね。物部氏はそういうふうに主張していたみたいですが...尾張氏、海部氏、皇室は、それを否定していたみたいですね...
神武東征に関してですが、この戦争のメインは、あくまでも畿内王権内部の戦争で、神武軍というのは、それに加勢したに過ぎないと思うんですよね...どうでしょうか...
で、大和王朝の真の創業者は、火明命(尾張氏・海部氏の先祖)で、その火明命の兄弟で日向に派遣されていたのが神武の先祖だったと思うんですよね。
実際に、播磨国風土記にそのような記載がある。出雲から政権を奪ったのは火明命だったのでは?と。
大己貴神と火明命~播磨国風土記記載
http://www.ffortune.net/calen/izumo/sinwa/sinwa17.htm
海部氏系図では、火明命の正妃は出雲の大国主の娘だったみたいですしね。火明命は嫁さんのお父さん一家から天下を奪った。
そういうふうに考えたら、出雲の国譲りを達成したのは、火明命のほうで、少なくとも大和王権の初期は、この家系が大和王朝の祭祀を握っていたように思うんです。
・古代海部氏の系図 金久与市 (著)
この書籍を書いた金久さんは、あまり自分の主義主張をしてなくて、淡々と海部氏系図について解説されているのですが...最後に、数少ない主張として、火明命の子孫が祭祀を担当し、火瓊瓊杵尊の子孫(神武皇統)が政事を担当したのでは?と推測されています。
投稿: himiko | 2007年11月19日 (月) 17時39分