昭和の鉄道模型をつくる(07) カーブレールC140(180°セット)その2回目
承前:昭和の鉄道模型をつくる(06) カーブレールC140(180°セット)
07:ここまで完成(~7号) →同じレール(6号と同一)がまた増えました。
先回の6号と同じレール・パターンでした。6,7号分を合わせて真円になるのですが、このシリーズでは真円にはしないので、そのまま置いてあります。
07:部品と工作
部品は先号と全く同一。工作はありません。
07:AtoZ:卓上運転を楽しむ:ローカル線・路面電車編
これまで作ってきたジオラマは、完成しても縦45センチ、横60センチですから、机上にきっちり載ります。そういう小さなシステムの基本になるレールが、「ミニカーブレール」と呼ばれているわけです。(最小セットだと一周面積が32x46cm)
他方、標準的なNゲージの場合だと、縦60センチ、横120センチほどのレール面積を使います。周辺をいろいろ組み込むと、畳一枚の大きさになって、趣味室を持った人以外は設置しにくいことでしょう。
逆に、ミニカーブレールの間ならいつでも鉄道模型世界から逃げられるが、標準ジオラマを作ったが最後、この世界から足を抜けなくなる、そういう怖さもありますね。
ただし、ミニカーブレールには独特の風情(超精密な、凝縮感)と、技術的制約(カーブがキツイから脱線しやすい)を切り抜けることに快感を持つ上級者も多いようです。
うむうむ、なんとなくワクワクしてきますねぇ~。
(注)一般にレイアウトは模型電車や汽車が動くものを指し、ジオラマは静的な景観模型をさすようですが、このシリーズでは、ジオラマという言葉を、動く鉄道模型を含めたものとして使っています。しかし、時々区別して、鉄道模型本来の「レイアウト」という用語も使われます。
07:昭和の鉄道模型を作る
一説にコレクターには男性が多いと聞きますが、こういう方の実例を見るとうなずけますね。特徴としては、実際の列車は少なくて、大抵は諸外国の酒造関係者が洒落で、贈り物や記念品用に少数作っているようです。だから、この世にはない独自デザインの世界です。
そこで気がついたのは、こういう諸外国の作品を集めるのは余程の執心がなければ出来ないこと。
そして、諸外国では、こういう模型列車のモデルをお客さんに配布するほどに、おそらく、鉄道模型が日本以上に普及している国が多いだろう、という推測ですね。
今週の<ヒット商品博物館>は、昭和32年発売の、ダイハツ「ミゼット」という小型三輪車の写真や解説でした。このころの仕様が、空冷2サイクル249cc、8馬力エンジン! 時速60キロで、300キロ積載とのこと。私は、このバタバタ・ミゼットは、TV「やりくりアパート」で、大村崑(こん)さんのミゼット連呼で、よく覚えております。ダイハツは今も、たしかトヨタ系として、よい車をだしていますね。
このことは、畏友ふうてんさんの過去記事を参照願います。
ミゼット(1957年タイプ)、そして現代の超小型スポーツカー(原題は、ふうてん老人日記:2007・10・21 cooper? coper? それとも?? 篇)
↓以下は、図書好き、司書マニア、図書館マニア用ですので、一般の鉄道模型愛好者には、おすすめできません(笑)
07:未来の図書館、過去の図書館
私は、この自作シリーズを終えたなら、近未来に造るジオラマ、その景観模型の中心に、「図書館」を設置するつもりです。
それは。
未来、ないし近未来の図書館という言葉に私の気持ちを、こめたつもりなのです。つまり将来も「図書館」はある、という考えです。
ある意味で伝統継承の思考に近いです。
言葉を記すことによって、実体を保証しようと意図しているわけです。
そして近未来、ジオラマに図書館風景を溶け込ませることで、図書館の継承を意図しようとしているわけです。
もちろん一方で、無くてもよいものは消えるに任せる。時代の趨勢に合わなくなった考えや物や基盤は無くなっても当然、という考え方があります。人類史の中では、ある時期当然の状態だった「奴隷制」や「人権抑圧」は、少なくなってきているし、「消えるのが当たり前」ではないでしょうか。また、蒸気機関車など、石炭を燃料とした動力機関は見かけられなくなってきています。石炭は昔の鉄道、船などの主流だったようですが。極端な性差別も、人類史の中では消えていくでしょう。
「電子図書館」を考え、研究者達・N先生と電子図書館モデルを造っていたとき、常に上記の後者の「考え」も考えていました。
最近考え込んだ身近な事例として、「書道」というもの、さらに「ペン習字」、「筆記」というもの、それを参考にしてみますと、どうでしょうか。必要があるからこれらは残っているし、また教育の中に組み込まれてもいるし、社会でも必要なこととしての「価値」をまだ持っています。
しかし、コンピュータ、ワープロ、PCが日常になっている現代と、それが無かった時代、過去の生活での様子とを比較してみると、手で字を書くという古典的なスタイルは昔ほどの「力」を持ってはいません。
意識的に私の1日を調べたところ、文字に囲まれた教育・研究者生活であるにも関わらず、ボールペンで出席簿に○×をつける、原稿校正にわずかな量の赤線や赤字を書く。ほんの稀に、黒板に自分の名前や、キーワードを書き殴る、ごく稀に会議文書に締切日を書き入れる。年間スケジュール表に稀な追加修正(一行)を手書きする。来客予定日が数週間先の場合、カレンダー手帳に相手の姓を書き込む。
手書きテガミ、手書き文書をほとんど書かなくなって確実に20年を経過しています。
これが実情です。
今の私に、筆硯、大量のインクと万年筆、数十本の鉛筆など、筆記具そして筆写素材(紙や粘土、竹や板など)、そして「文字の書き方練習」は必須でしょうか?
ここに「未来の図書館」の課題や問題がイメージされてくるのです。
追伸
論途中なので、もし若い人達に誤解を生じさせると困るので、以下明言しておきます。
私は、建物・景観としての実体ある図書館、そして紙に書かれた図書、これらの存続を期待し、擁護する意味で書いています。
「小説」の付かないMuBlog本文は、いたずらに興味をひかせようとするレトリックや、一般的文章トリックや、虚実皮膜の曖昧さや、虚飾や、嘘を書かないようにしているのです。
逆に「小説」とタイトルにあると、その記事内容のほぼ全部が、作話、つまり嘘です。
| 固定リンク
「自作鉄道模型」カテゴリの記事
- 小説木幡記:鉄道模型世界の近況(2011.07.10)
- ハイブリッド・HONZ-G構想: HO、N、Zゲージ(2011.02.10)
- HO:16.5mmゲージのレール・レイアウトと鉄道模型(2011.02.02)
- 机中のカシオペア号:図書館ジオラマ(2010.10.16)
- 南筑軌道石油発動車/アルモデル(2)完成したヤマタイのブタ(2010.06.19)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
手書き文字はどうなるのでしょうねえ
パソコンで文章を書くようになりましたね。
手書きで書くと文字が震えます。
アルコール中毒になっても震えるそうですが・・・。
5年くらい前でしたか、必要があって立川の(富士見別荘)へ通うようになりました。
富士山がよく見える駅ビル8階の喫茶店なのですが、小さなノートと良く書けるペンを持って通いました。
パソコンのないところでノートに書きつけるのですから手書きですわね。
そのことを半年、1年続けるうちに、少し手書きの能力を取り戻しました。
言葉に関しての(オーラル)と(リテラル)つまり(声)と(文字)の問題は尽きせぬ興味を覚えますね。
文字として漢字を選ばざるを得なかった日本人は、やはり漢字を手書きで学び続ける、必要があるのではないかと当方は思います。
文字は手書きで覚えるのでしょうね。
以前、アルファベット圏の人はみんなタイプライター使っていると思ってました。
しかしアチラでもタイプライター打てる人は、ごくマレだそうです。
従ってアチラでは(アルファベットを手書き)で学び始める、ハズです。
10年ほど前にそんな話を聴きました。
投稿: ふうてん | 2007年11月 2日 (金) 20時36分
ふうてんさん
「文字」「漢字」の取り扱いとか習得については、ふうてんさんと全く同一の感覚でして、自分自身の結論は分かっています。
人間の四肢と脳、そして心は、直結しているというのがMuの持論ですね。もちろん脳も四肢もサイボーグみたいに機械仕掛けになる世界も100年後には出現するでしょうが、そうであっても、脳が一人で電気信号? パルス? を虚空に放出しても、世界はなにも変化は生じないでしょう。四肢があって、動いて動かして接触して、やっと人間の脳として自律すると思います。
漢字かな、という象形文字由来の文字を手で書くことは素晴らしいことだし、そのことで人間の脳、つまり中国文明を中心とした漢字文明国の人達は、アルファベット系とは異なった進化をとげていると、かねがね考えております。
手で書かないと、絶対に漢字を覚えられないでしようね。脳が記憶するのじゃなくて、手が記憶すると思っています。
漢字かな文字を手で書いて覚えないと、文字は読めないと信じています(信仰ではないけど)。読めなきゃ書けない。書けなきゃ、少なくとも委細をつくした曰く言い難い表現や、抽象的表現は無理だと信じております(信仰じゃないけど)。
で。
Muが漢字かなを書けないのに読めるのは、そしてワープロで文章を書けるのは、小学校頃から約30年間、ひたすら文字を手で書き、読む世界(仕事とか趣味)に住んでいたからです。大抵の日本人はそうだと思います。
……
話のその先はもっとじっくり、書いていきますよ。
話の持って行きようは、紙(紙的なものも含む)とペンを、もし人類が捨てたなら、その次の世代に文明は消滅、滅びるという論立てなのです。
マシン命であるMuははっきり「MUの予言」をMuBlogに書きとどめる算段(笑)。
マシン命だからこそ、マシン、表示装置の脆弱性、脳破壊性を最近、分かったつもりなのです。
粘土板であれ、石板であれ、紙印刷であれ、人間は触って掴んで歩く、四肢によって人間であり、キーボード入力とか脳信号入力とか、あるいはディスプレイ情報受容とか、脳直接情報採取とかは、可能だし便利だけど、人間の脳を弱くする、という新説ですよ~。
まだ気がつかない脳天気な現代人が多くなってきましたがね。
また、おりおりに記していきます。
投稿: Mu→ふうてん | 2007年11月 2日 (金) 21時19分