小説木幡記:2007/11/28(水)読書と難読症(ディスレキシア)
デルファイ法ってなんだったかな?
たしか月曜だったか、授業中に未来の予測(科目内容が、近未来の図書館)に言及したとき、手控え帳なしで「デルファイ法」による未来技術予測に言及してしまった。
最近、京都大学でのノーベル賞クラスといわれる「再生医学」の要点ともいえる卵子によらない多機能細胞の研究が発表されて、そういうSFのような話がどうなるのか興味を持ったせいだと思い返している。
さてしかし、授業は教科書やノートや手控え帳なしで語るのは思い違いもあって良いことではない。言ってしまってから、気になって手持ちの本や雑誌を眺めたが、どうにもはかばかしい出典がなくて、インターネットを調べてみた。すると、比較的安全な機関(笑)にデルファイ法の記事があって、内容は思った通りで安心した。
科学技術の未来をさぐる
要するに科学技術政策研究所(NISTP)の目的である「技術予測に関する調査研究」中に分かりやすく具体的に記してあった。
ところが、難読症
まあ、デルファイ法、それはよいのだ。
ここで人には伝えにくい摩訶不思議な連想が余の脳を駆けめぐりだし、ついちょっとNISTPのサイト内検索に用語を入れてしまった。「難読症」と。
なぜ、難読症と入れたかは聞かないで欲しい。つまり結局、ずっと気になっていたのだ。なにが?
昔から、難読症という概念はあったようだ。それを知ったのは、以前司書教諭に関する学校図書館関係の教科書を眺めていたときだ。たしかに、腑に落ちる。しかし、教科書ではそういう症例があるという言及だけで、それ以上は分からなかった。
読書は特殊な技能?
余は、読書家といえるかどうかは知らないが、比較的図書を深く読み込む性癖だった。幼少期から、あまり多くには手を出さないが何度も同じ図書を読み返して楽しんできた。それを意識したのは、自分の子供達が小学校にあがってからだった。つまり、二人の子供の読みっぷりが激しくて、なにかしら余の脳を刺激しだした。一冊の図書をざらに十回くらいは読み返す子が眼前にいた。
で、気がついた。
余の幼少期と同じだったのだ。
そこから話が飛ぶ。
余は息を吸うように読書していた時代があった。お菓子を食べるように読んでいた。大抵は同じ図書を数回づつ読んでいた。それで当たり前だった。
しかし当時、青年時から、まったく読書しない友人も多数いた。
で、今ははっきり気付いている。
要するに、読書は特殊技能の一つなのだ。たまたま、余は他の能力の欠落を補うように、読書が得意だったようだ。
なんどもいう、余にとって読書はご飯を食べたり、息するのと同じレベルだった。
で、いよいよ結論。
本を読まないのか、読めないのか
学生は本を読まない人が多い。
図書館学(司書)を担当しているにもかかわらず、読まない青年がめだって多い。
◎読書は時間を取る。余でも新書本の精読には半日かかる。最近の長いミステリだとまるまる1日使う。
まして専門書だと、精読の場合は日本語でも数週間から一ヶ月かかる。
漫画でも、この前計ったら30~60分かかった(要するにしつこく読むからだろうな)。
まず、青年はそういう時間を取ることができないようだ。学業に忙しい(笑)のか、デートなのか、アルバイトなのか?
◎読書は根気がいる。余でも30分とか一時間単位で意味もなくトイレに行ったり、茶を飲んだり、葛野だと研究室前の廊下を無意味に散歩する。
◎読書は対象世界の枠組みを知っていないと疲れる。余も必要に応じて法律や他の分野を読んだり、あるいは会議資料を読むときは、投げ出したくなる。理由は、頭にすぽんすぽんと入ってこないからである。
そして、難読症(ディスレキシア)
余は難読症ではない。快楽読症とでもいうのだろう。古典的には活字中毒と言えば分かりやすい。
しかし、教師だから、あまりに読書をしない学生が目立つと、注意深く考える。
教師は一度に多数の若者を相手にするから、「この世には、本当に、いろいろな青年がおる」という、経験則が身にしみている。
つまり、自分自身を尺度にすると、とんでもない間違いを犯す。
だから、頭の片隅に残っていた「難読症」という単語を、科学技術政策研究所のHPをみながら、検索窓にいれてみた。もしかしたら、未来の予測話として、話題にあるかもしれないという、実に曖昧な気持からだった。
あった! 3件あった。
[特集1]読み書きのみの学習困難 (ディスレキシア)への対応策
ライフサイエンス・医療ユニット 石井 加代子
感想
上記石井氏の論を読んで、感動した。
つまり、科学というのは、余のような素人のちょっとした疑問であっても、実に深く論究するという事実と、そして、やはり、もしかしたら難読症に悩む学生が、どこの大学にもいるのかもしれない、という新たな予測に感動したのである。
もし、もしもたった一人でもそういう学生がいるならば、「読書」という司書の根本に横たわる営為について、手当していく必要がある。
対処法は、すぐには、余にも分からない。
ただ、余は「読書」についても、これまで訓練として指導することが多かった。事実、慣れないと、読書は実にしんどいことなのだ。余にはそれほどしんどいことではなかった。しかしそれが多くの人には辛いことだと気がついたとき、周りが違って見えた。
だから、それ以来ずっと「読書の練習をしないさい」と言ってきたつもりだ。
が、まだ終わってはいなかった。この世には、まだ原因はわからないが、文字を読むことに本人の意志に関わりなく、難渋する人もいるという事実があった。
それを今夜、石井氏の論文を読んで得心した。
さあ、読書の秋もそろそろ12月、冬に入る。
読書という人間の持つ能力について、いろいろ考えてみよう。
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コメント
読書の魅力を先生の言葉で
難読症と快楽読症では対極ですね。
石井加代子さんの論文、チラッと見てみましたがよう分かりまへん。
読書の魅力って何なんでしょうね。
せんせ、分かりよ~に、おせ~て下さい。
おいしいものを食べるように本を読んだ、とは伺いましたが。
投稿: ふうてん | 2007年11月29日 (木) 00時01分
ふうてんさん
読書のことは、貴兄こそまっとうな読書人、読書手練れの漢(オトコ)と、ずっと考えてきました。
私は限られた図書を飽きることなく読んできただけで、魅力のなんのと言う前に、読まないと身が持たない、なんとなく強迫観念に襲われて、頁をくってきた想いがします。
眠らないと、食べないと、息をしないと、読書しないと「死ぬ」という恐怖感があったのでしょう。(今は全方位的工作に熱中しているので、ちょっと違いますがね)
体系的読書でもないし、乱読でもないし、気に入った図書を何度も舐めるように読んできました。
あらためて読書の「魅力」について考察するなら(笑)、役者が役に没頭して何人もの生を味わうように、私はその世界に没頭して多様な生や冒険を味わえた、それが魅力だったのでしょうね。
科学系を読んでいるときは、マッドサイエンティストになった気分で。吸血鬼ものを読んでいるときは、自分で重い石棺蓋を開けて夜の闇に溶け込む気分で。時代小説を読むときは、自分が山本勘助になったり、継体天皇になった気分で。
省察するなら、えっへん、私は騙されやすいオトコだから、作者の世界観に違和感なく嵌りこんでしまう性質なんですなぁ。
自分がないから、どんな人にでも、どんな怪物にでも、どんな冒険者や天才にでも、すっと入り込んでしまう。
ものすごく燃費がいいというか、お安く人生を生きられるようです。現実に海外旅行しなくても、すぐにジェームス・ボンドになった気分でトルコの闇市をさまよえるわけですから。
うまれながらヴァーチャル男。
だから、本がなくなったら、とても困ります。
投稿: Mu→ふうてん | 2007年11月29日 (木) 04時33分
燃費最高ですね!!
ありがとうございます、ようわかりました。
(私はその世界に没頭して多様な生や冒険を味わえた)
なるほど、なるほど、それで今までいろいろ伺ってきた大兄の読書歴の謎が氷解しますです。
フィクションの値打ちはそれかもしれませんねえ。
映画やなんかもそういうところがありますね。
昔、永六輔が、映画館から出たとき、ジェームス・ディーンのような歩き方をしている自分に気づいた、と書いてましたなあ。
投稿: ふうてん | 2007年11月29日 (木) 09時50分
ふうてんさん、ちょっと追伸
1.フィクションとは限りません。学術図書でもノンフィクションでも、著者や登場人物に容易に乗り移ります。大先生の著書を読んでいるときは、大先生になったつもりで考えます(だから、専門図書はスピードがものすごく遅くなる)
2.ジェームス三木じゃなくて、ディーンさんですね。はいはい、映画のパンフレットが数種類押し入れの底にあるはずです。エデンの東でしたっけ。
永六輔さん的体験は、一番激しいのはアラビアのロレンスでしょうね。まるで、ピーター・オツールになった気分でしたなぁ~(爆笑)
顔まで苦悩にみたされていた記憶。
投稿: Mu→ふうてん | 2007年11月29日 (木) 14時49分
世はインターネット時代になって、
人は本に向かうよりも、
四角い玉手箱なるパソコンに向かう時間のほうが
ずっと長いのかもしれません。
ネットは今や貴重な情報源。
老若男女に多少の差はあったとしても、
世界に張り巡らされた蜘蛛の巣から得られる情報は、
その量の多さと、利便性と即効性において、
もはや、パピルスの古きからの歴史を持つ
書籍を凌駕してしまった観もあります。
万人の日常の傍らに浸透して、良くも悪くも、
現代人の流行や主張のソースになっているインターネット。
かく言う私も、何かを調べる時には、
辞書・辞典を手に取ったり、足をと図書館に向けるより前に、
まずネットをググってみるというクセが、しっかりついてしまっております。
今後、ネットと書籍は、
人々の豊かな知的生活に貢献するアイテムとして、
たがいに補い合って、
共存してゆけるのでしょうか。
ネット情報の精度はまだまだ純度が低く、
いわば玉石混合の状態でもあり・・・・
だからこそ個々人の、取捨選択の眼力というものが
求められているように思えます。
いかなるネット情報時代になろうとも、
精度の高い精製された情報を得るためには、
読み手の側のスキルが必要とされます。
それを習得するには、
原点に戻って書物を手に取ること、
書物と格闘してきた脳細胞の歴史というものが
不可欠のように思えてなりません。
例えていうならば、
ネット情報はサラサラと飲むもの。
されど、書籍情報は、
しっかりと食べて腹でこなさねばならぬもの。
そんな感じがしてなりません。
投稿: 伽羅 | 2007年11月29日 (木) 20時27分
まいど、伽羅さん
このたびは「本格」コメントをいただき、ありがとう御座います。
されば、Muも忌憚なく本心を披瀝いたします。
常に例外はありますが、インターネット情報は全体・背景・コンテクスト(文脈)を失った「断片情報」ですので、使う時は不正確な辞書程度のものと見切っております。ただし、不正確ではあっても参照情報としては「こういうことを考える人がいる」「だれかが、こういう種子をもっている」という点では最高に強力な情報源であります。
そこで。
主に知識体系全体をほぼ確実に充分に会得できるのは、形を持った印刷図書だと思います。
人間は生物的な制限もあって、ディジタル処理のように、一度で高速に情報の脱落なく、全体を扱うことはできません。
図書ですと行きつ戻りつ、そして「達成感」「ここまで読んだ」「頁数の残り」「書き込み」など、さまざまな付加価値を総動員して、比較的短時間で、対象全体を咀嚼できる、と考えております。
マシン使用はその点、一般に光を長時間見つめる(図書は柔らかな反射光です)、断片的、疎外的、融通のなさ、リンク多用による迷子現象、スクローリングの遅さ(指先で頁をぱっとめくる器用さは難しい)、枚挙にいとまなき欠点が多いです。
手で持てる図書一冊を読めば、なにがしかの知識体系をまるごと味わえるという、「達成感」「到達感」こういう人間らしい不明瞭な感性によって、人は未知の知識を消化しやすいのでしょう。
マシンは、紙の質感を与えてくれません。マシンだけで育った人間なら、紙の質感なしで知識を包括的に吸収する力をえるとも思いますが、幼少期に小学校など、紙の教科書を触った経験を持つと、紙に変わるものをマシンで充当するのは難しいでしょう。
ここでは、知識が紙に代用された歴史がありますね。
人間は、1+1→2を嫌う時間が人生の半分ほどあるように思います。マシンは、どう工夫しても、1+1→2に帰結します。そして現代人は、そういうものとしてマシンを観ています。マシン、ソフトが勝手なことをすると、大抵の人は激怒します。ソフトウェア・バグと、大騒ぎします。
読書とは、おそらく、1+1→2を求めるものではないのだろう、という憶測が今、Muにはあります。
と、ここらで止めます。
投稿: Mu→伽羅 | 2007年11月29日 (木) 22時46分
紙の質感、紙の重み、紙の手触り、
そういった身体性を伴った書籍経験が、
人間の知識をはぐくんでいく上で、
不可欠のものかもしれませんね。
伽羅はカイロスとは別のブログに、
インターネットと時代の霊性についても書いています。
もしよろしければお読み下さい。
投稿: 伽羅 | 2007年12月 1日 (土) 04時39分
身体性を伴った読書とか、身体性をともなった霊性というのは、分かりやすいです。
話は変わりますが、森博嗣という作家は、作品の中で、インターネット空間でのスピリチュアルな世界を「四季」という見えない人物に任せています。
精神性というものは、うさんくさいものでもあり、逃げられないものでもあります。そして精神性というのは、身体性も持つし、ネット上でも生きます。
なかなか奥深い話ですね。
投稿: Mu→伽羅 | 2007年12月 1日 (土) 07時11分