小説木幡記:2007/11/19(月)加齢の賜
今朝は4時に起床。最近はイチゴジャムが食卓にのっているので、朝が快適。つまり、イチゴ一個一個が原形を保っているので食べ応えがある。さすがに、林檎ジャムともなると、スライスしたものになるが、西欧の賜、ジャムは好みだ。
最近木幡漫画博士から、立て続けに古い「美味しんぼ」を読むように言われた。彼は、余の心身を見計らって、ちょうどよい漫画を「これ、どうぞ」と言ってくれる。二週間ほど前には、ブラックラグーンの最新号だった。これは謎々してきてよかった。
「ヨルムンガンドは、まだかね」
「ええ、買っておりません」
つまり、ブラックラグーンは、今の余に似合っているが、ヨルムンガンドは今は読まなくてもよい、というご託宣だな。(こういうセリフは、一定年代の、一定マニア専用)
先日の美味しんぼは、総菜料理の極みだった。なかなか、ウンチクが深くてたのしめた。
少なくとも、この20年近くの余の漫画世界は、木幡漫画博士と江戸のエドルン君がレファレンス・ライブラリアンだった。ここ数年の、浦沢直樹世界は葛野漫画博士の手引きもあった。
ともに、記して感謝するところなり。
それで、華麗の、いや、鰈の、そうじゃなくて、加齢の賜(たまもの)話。
ひとにもよろうが、余は加齢と共に落ち着いてきた(失笑:つまり、昔をしらない君たち、昔はこんなもんじゃなかった!)。
日々安定し、よく睡れるし、怒りが爆発しても、「失せろ、辞めろ、消えろ!」の3言程度で、意識を別のレールに載せるようになった。たまに激怒、憎悪するようなことに出くわしても、相手をみて「ふん、こいつも、すぐにオシャカになるよ。馬鹿め」と、思えば、すっと気持がおさまった。
↑まだまだ、だね。こういう内奥の嵐が、瞬間でも吹き荒れるのは。
でも、十年、二十年前に比べると、凪のような心(水)面だ。
もちろん、自分よりも若い、特に学生達には、そういう言葉もでてこない、まるでマタリンにかまれた程度のことだよね。孫やひ孫を相手に喧嘩もできないよ。
さて、そこで。
昨日、近所の模型屋にでかけて、いろいろ見てきた。結局一万円弱を使ったのだが。その一万円の感覚を、今記しておこうと思った。なにを買ったかはあえて記さない。
少なくとも、30歳ころまでは、そういう買い物は気楽に出来なかった。そのころには子孫が二人もいたから、金銭的な困窮は激しかった。自分のほしい物は、すべて遠い世界に輝いていた。もちろんそんな時に、なんの役にたつかわからないPCを当時50万円もの分割払いで買ったのは、現在なら、ベンツとは言わないが、小さくて家族も乗せられない俊足のスポーツカーを買うような思い切りだった。
で、加齢の賜は。
現在だと、一万円弱で、ほしい物は買えるということ。その一万円を使っても、あんまり悲壮な思いにおそわれないということだ。手頃な店でのフレンチとかイタリアン程度だな。ガソリン代の一ヶ月分だな。携帯電話の二ヶ月分。広辞苑二冊分。教授会忘年会の会費だね(なんと、お安い!)
豊かになったとも言えるし、お金を使う場が極端に少なくなったということだろう。
そりゃそうだ。
電話も手紙も年に数回。木幡と葛野ルートを外れるのは、小一時間の近江ドライブ程度。
一体、余はどんな日々を過ごしているのか。
交際費がゼロに近い。
金のかからない仕事して(接待とかないからね)、昼寝して、夜寝して、そこそこのお総菜をいただいて、ときどき読書して、ときどき模型を造って、ときどき考える。
これも加齢のおかげじゃ~。
若ければ、……。想像すると厭になる。
若さを売り物にする人は、それでよいのだが、二度と繰り返したくないこれまでの道のりだ。おわりよければすべてよし(爆)。
そして、また、今、若い人達の将来を思うと、なぁ~。大変だろうね、しっかり生きれば、やがて極楽往生できますよ。
格言
若さは輝いているが、決してよいことばかりじゃない。
加齢はくすんでくるが、決して悪いことばかりじゃない。
それぞれの生を、味わい深く、楽しみましょう、ぞ。
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