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2007年10月17日 (水)

卑弥呼の墓(006) 邪馬台国がみえてきた/武光誠

承前:卑弥呼の墓(005) 邪馬台国は古代大和を征服した/奥野正男

2000.10:邪馬台国がみえてきた/武光誠

邪馬台国がみえてきた/武光誠(たけみつ・まこと)
 武光誠がまとめた『邪馬台国がみえてきた』の結論を理解するには、中国の江南という言葉に、最低限の理解が必要となる。江南と言う言葉自体の持つ意味は重層的で、日本の過去を知るには、研究図書を何冊も読む必要があるが、ここでは、ショートカットで、一体どのあたりのことか、それだけを前提知識として記しておく。

 中国の「江南」を具体的に指す地域は、時代によって微妙に違うようだ。ともかく黄河ではなくて、長江の下流(海より)の南部一帯をさすが、現代都市の名前としては、上海、杭州あたりが海に面していて、以下に話すことに都合が良い(笑)。もちろん、もっと南の福州あたりも江南なのだろう。

 まず、現代の上海市をGoogle地図で示しておく。すると、真東へ約800kmほどのところに鹿児島がある。そこは日本だ。しかし大昔の中国の江南の人が、どんな航路で日本に渡海したかは、また別の専門書を調べねばならない。それも今日は省略。

 日本の縄文・弥生時代を通して、朝鮮や中国からおそらく何千もの小集団が日本に来たと思う。あまりに時間の幅が長いから、もともと地理上の日本に大昔から居た人達(仮に縄文人とする)との関係は、融け合って、区別はつかなくなっていたのだろう。一時にどのくらいの集団できたかはケースによって異なる。当時、たとえば西暦一世紀ころだと、まだまだ船も船団も小さくかったろうから、決して万、千のオーダーではなく、数十人から数百人の集団が多かったと想像する。
 武光は、その中でも弥生時代前期から中期にかけて、江南文化の影響が強く日本に現れたと説く。時代を補足するなら、西暦で一世紀ころ、中国では前漢と後漢王朝の境目ころだろうか。充分な幅があると思うが。
 以上のような、私のおぼろげな推測の上に、武光誠の邪馬台国結論を記しておく。

1.武光誠の著書の結論部

 邪馬台国の時代の約半世紀前(Mu注:難しいが、仮に西暦200年前後とする)に、江南の航海民の一部は、瀬戸内海を東進(Mu注:なんとなく神武東遷)していた。彼らは宗像(むなかた)と、北九州の瀬戸内海側にある宇佐とを出発点として広まっていった。そして、その中の最も有力な集団が、卑弥呼と同時代に奈良県桜井市纒向遺跡をつくる。そこの首長は、まもなく大和朝廷をひらいて水軍を用いた征服活動をはじめる。邪馬台国は、四世紀初頭に、宇佐、宗像の水軍と結んだ大和朝廷に滅ぼされたと思われる。(同書p212)

 武光は「邪馬台国は筑後川流域(筑紫平野)にあった」と、いわゆる九州説なのだから、上記引用から明らかなように、現天皇家のご先祖であろう当時の大和朝廷と、邪馬台国とは、そこに断絶を認めている。「大和朝廷は江南からきた小軍によってひらかれたことになる。」という、分かりやすい説となっている。もちろん、邪馬台国の人達も、もっと昔に江南の、水軍にたくみな人達と交易していた融合民だったのだろう。

2.邪馬台国はどこか:武光説

 私は、邪馬台国は福岡県大川(おおかわ)市から柳川(やながわ)市に至る地域にあった可能性が高いとみている。(同書p208)

 武光は吉野ヶ里が近く(Mu注:大川市の北・十数キロに吉野ヶ里公園がある)、そこの集団と関係のある人達が邪馬台国を興したとする。吉野ヶ里の衰退期が邪馬台国の勃興期にあたり、吉野ヶ里の遺産を継いだ、という論調だった。

3.卑弥呼の墓
 本書ではよくわからなかった。
 卑弥呼の宮殿も墓も、本書の性格上、武光は書く必要がないと考えたのかも知れない。つまり、非常におおらかで、魏志倭人伝をそのまま読むと邪馬台国は九州でも大和でもよろし、となる。それよりも、古代の日中関係史(Mu注:江南の民と倭国の関係を含むのだろう)を重視している。
 九州でも、大和でもよいという雰囲気にも関わらず、筑紫平野を邪馬台国に比定したのは、武光が江南から渡海してきた優秀な一団が活躍するには、筑後川流域が地政的に最適と考えたのだろう。そして、吉野ヶ里遺跡との関係も、なんとなく私にもわかったような気がした。

感想
 いろいろ自分にも考えはあるのだが、未だ披瀝するほどではない。やはり日曜邪馬台国作家としては、邪馬台国が九州か大和かよりも(Mu注:大和に決まっておる!)、個々の吉野ヶ里遺跡とか纒向遺跡の関連が分かりにくい。そして、実は邪馬台国と大和朝廷の連続性や断絶についても、当時の人間ではないので、よくわからない。
 私の基本は、魏志倭人伝は史官小説とし、嘘嘘しいと誹られてきた潤色多き記紀を信用する立場なので、神武東遷と崇神天皇と卑弥呼との関係などが、いまだにしっくりしない。
 だからこそ、武光誠のこの図書は、私には一種の明快な、清涼剤のような味わいをもたらしてくれた。とくに、1.で引用したイメージは、爽快である。なんだか、いつのまにか邪馬台国、吉野ヶ里ご近所説に傾いてしまう自分に気がつく。
 それでよいのだろう。
 結論はでている。それまで、一杯道草して、滋養のある考えを身につけ、消化していこう。この度は、歴史哲学的観点による邪馬台国問題という、御馳走をいただいた。

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コメント

読みましたよ

 卑弥呼の国は九州という説ですね、現在まで続く大和王権に滅ぼされたという説ですね。どうも記紀とは違いますね。

しかし、大雑把に捉えると中国長江下流域からの流民が何派にも渡り九州を始め日本に押し寄せて来たのは事実でしょう。

 ベトナムと日本の飛行機での旅をしてる時に、画面上に現在飛行機がどの位置をいどの方向に飛んでいるか、CGで表示されるのですが、ホンマ近いものです。

魏志倭人伝も正しい、記紀も正しい、偽書と呼ばれるものも正しい、神社の伝承も正しい、民話も正しい、全て前向きに捉えるように最近はなりました。

 

投稿: jo | 2007年10月17日 (水) 12時02分

Joさん、ありがと。
風邪で脳が動かないので、大兄が帰国する日までにはじっくり考えてコメント返しいたしますで。

http://akatonbo-jo.cocolog-nifty.com/jo/2007/10/post_0b6c.html
↑この御記事も重厚なので、脳がもどったら、記します。再見、お達者で。

投稿: Mu→Jo | 2007年10月17日 (水) 21時27分

卑弥呼の墓発掘プロジェクトを計画してます。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/keizibann/Project-H.html

投稿: 曲学の徒 | 2009年1月12日 (月) 19時54分

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