小説葛野記:2007/10/22(月)流れゆく秋
昨日日曜日の午後、夕風呂あがりにカレンダーが目に入った。「今秋も、あっというまだな」と思った。
心理的に、年齢による時間経過速度感覚の変化は知っているが、「あっ」という気持ちは、理屈にかかわらずより深くなってきている。
今秋こそは、紅葉をカメラにおさめたいと毎朝考えているが、来月なんだろうな。平年は、嵐山の紅葉は11月の10日~20日ころがよいらしい。夏が酷暑だと、それも遅れると耳にした。だが、12月、初冬の紅葉は季節感からずれている。なんとか、11月に入ったら紅葉を見ておきたい。
と、忘れそうだったから、昨夕風呂のあと「あっ」と思ったのだろう。
本日は午前中に二つの講義を終えた。毎年同じことを話していても、毎年少しずつ変化がある。それは受講生には分からない。
以前東京の大学のことだが、十年、二十年前の古いノートを眠るがごとく毎年使って講義する教授のことを、世間や学生が叩いていた。その先生がどんな事情でそうしていたのか、実態は分からないのだが、真理・学説の大きな変動は、分野にもよるが10年、20年の経年変化に左右はされないだろうとも言える。
ノートが古くてすり切れているから、教授が加齢で元気がなくなっていたから、批判をあびたのだろうか。ちかごろの大学はそうでもないが、以前の大学は定年制もあってなきがごときだったから、比較的高齢の教授がたくさんいたよし。
すり切れたノートの代わりにDVD投影や、パワーポイント紙芝居にしたところで(余は最近そうしている)、伝える内容に変化はないなぁ。
余の本心はね、どんなメディアからだって、どんな眠るがごとき話からだって、必要なものを必要な時に探して持ってくる、そういう「力」があればよいのだよ。そして、それは転機をまつよりしかたない、という諦念もあるな。「必要だ」という気持ちがわいてこないことには。むつかしい。
今、余は「紅葉」が必要なんだ。紅葉まんじゅうというよりも、鮮やかな紅葉を見ておきたいのだ。だから、こわれかけの安物のデジカメを出してきて、そろそろ「充電、まだできるかな」と確かめなくては。
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