小説木幡記:2007/10/20(土)暗闇の力
タイトルを最初「闇の力」にしたのだが、誤解が生じると思って、暗闇の力に直した。
木幡帰還後30分、食後も30分、部屋を暗黒にして横たわっていた。
使い慣れた言葉、なれた感性だが、闇は余に心地好い。
光は、闇の中でキラリとするイヤリングのようなものが最良だ。
太陽の子であった時よりも、闇の子であることに安心感がある。
闇は対峙するものではなく、溶け込む液体のように味わう。
闇海かもしれない。
すると脳と闇とが融け合って、気持が、自我が、穏やかに解放される。
闇を伝わって気持が外へ滲み出し、やがて闇全体が余になっていく。
密度が減った分だけ、薄まって、全ての緊張がほどけていく。
それは、心や精神のことだけじゃなくて、身体、肉体が融けて薄まって、疲れまで消えていく。
今日も葛野で宿題をしていた。一つは毎年の責務。なにかしら人身御供になって、毎年今頃ワープロを動かしている。なぜ? 何故、余の宿題になるのだろう、と五年間ほど考えてきた。
つまりは、余にとって無意味、無益なことをするのが、世のため人のためになることもあると、気がついたから。意味付けは人や回りがするのだろう。そういうことが、世間で生きていく上で、一つか二つはあってもよい、功徳、と思えるようになってきた。多分、そうなんだろう。そして、余の限られた生の中では、まったくもって価値がない。無いにもかかわらず、頭が動く、手が動く、プリンターが動く。
それが、生なのだろう。
もう一つは、懇意にしている葛野図書倶楽部2001の組織図造りだった。相手は人だからロボットのようにはいかない。脳がある、心がある、そして感性がある。図に描かれた線一本が組織を変える、駄目にする、活性化させる、騒乱が生じる、そして平和が生まれる。
組織図を造ることは、唯一の権限、叙任権を持つ余の最大の責務なり。
叙任権問題が、彼我歴史の節目だったことの深い意味を、今日の午後一人で思い返していた。人の世であるかぎり、予算掌握権よりも、生殺与奪権よりも、叙任権が上位になる。
本邦嚆矢は聖徳太子さんだったろうか。
組織にあることは忍苦であろう。組織を離れ孤立することはさらに辛苦である。別の世界に移っても、そこにも組織があって、いつのまにか自らが采配を振るうことになる。それを皮肉という。
人が歯車になることは否定的に言われ続けてきた。
しかし、歯車なしでは仕掛けは動かない。強靱で柔軟な歯車になればよい。歯車はいつでも取り替えられる。取り替えられることを理解した上で、なお組織に骨を埋める心映えこそ幸いなり。そうでなければ、どんな小さな組織、どんな大きな組織にあっても、無意味なオブジェでしかない。
無意味なオブジェに価値が生じるのを、芸術と言うのだろう。
残念ながら、芸術の世界にも組織があって、序列があって、苦しみもだえる。
だから、小さな組織を生き抜くのがよい、と思った。
充実とか、意味づけとか、価値があるのかどうかとか、おもしろいとかおもしろくないとかは、心の綾。
それが分かると、闇の子になる。
おもしろいと言えば、この世はなべておもしろい。
今日の木幡亭夕食は、ご飯、漬け物、小芋と油揚げの薄味噌仕立て汁(要するに味噌汁)、羊肉のローストわさび醤油で、デザートは柿。飲み物は発泡ワイン。煎茶。
この間、箸が動いている間は、闇も光もなかった、うまうま。
いま、嘘珈琲も飲んだ。上がりだな。
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