神々の乱心/松本清張<感想文 その2:明瞭な小説視点>
承前:神々の乱心/松本清張<感想文 その1:上品な吉屋特高係長>
4.下巻の構成:三つの警察機構
上巻の末尾は憲兵隊の登場で終わっていた。憲兵は、当時の警察(特高も含む)でもないし、皇宮警察でもなく、内務省管轄警察とは仲が悪かった。憲兵隊とは、軍内部の警察と考えて良いだろう。
憲兵隊は現在の自衛隊では警務隊に相当し、軍内部の治安・規律維持がもともとの組織目的だった。だが、大正から昭和にかけて、思想犯取締に力を注ぎ、民間人に対する抑圧機関として悪名が残った。
現代の米軍のMP(ミリタリーポリス)や自衛隊の警務隊は、軍組織の規律維持という点では相似だが、戦前の憲兵は、敗戦という経緯もあってか、国民抑圧機構としての印象が色濃く、戦犯として処刑された人達も多いようだ。「その1」で言及した小説『逃亡』にはそのあたりの事情が詳細に描かれていた。
他方、大正12年関東大震災(1923年9月1日)の後、戒厳令下の帝都で、憲兵大尉甘粕正彦(あまかす・まさひこ)はアナキスト・大杉栄、同甥、同愛人伊藤野枝の三名を麹町憲兵分隊に拉致し殺害後、古井戸に投げ捨てた。甘粕は刑に服したあと大赦を受け、後日満州に渡り諜報に暗躍し、満州帝国・建国に参加し、そして映画会社(満映)の理事長となった。この甘粕憲兵大尉の満州での動きは、映画「ラストエンペラー」で坂本龍一が演じている。
当時、実説はいろいろあるようだが、甘粕事件は、憲兵隊が軍内部だけではなく、民間人に対しても取締の対象として扱っていた様子がよくわかる事件だった。ただし、戒厳令というのは、これはこれで軍が国民の基本的人権を停止し、国の治安を一手に引き受けるという現代日本では想像しがたいことなので、憲兵隊=民間思想犯虐殺という式は、関東大震災・戒厳令下における異常な状態での特殊事例かもしれない。
ともあれ憲兵隊とは軍内部の警察機構で、防諜や機密保持に関連したことから、当然一般軍人にとっては、内部監察以上のもので、同じ「軍人」であっても性格が異なったと考えられる。それは、法治国家の中での警察組織にあっても、特別高等警察(特高)が特殊な扱いを受けたことと似ている。
日本の憲兵は、その成り立ちの経緯は異なるが、ナチスにおける党組織警察機構として発足したドイツの親衛隊(SS)が、当時の国軍つまりドイツ正規軍と拮抗するだけの武装親衛隊に変わっていった過程で、正規軍と様々な軋轢が生じた事実と、相似であろうか。SSの中にゲシュタポ(秘密国家警察)が含まれていたのだから、巨大な組織内部の監察機能というのは、どこかで似通ったところが現れる。
『神々の乱心』では、憲兵が登場することで、それまでの特高主導の事件が「新しい展開」になったと感じさせるところがあった。当時の実体とは異なる面もあろうが、現代の読者にとっては、特高とは庶民・民間人を思想犯、不敬という観点から取り締まる秘密警察であり、憲兵とは軍内部の機密を保ち、軍規律を守る組織として思い描いてしまう。ただし、軍組織に思想的汚染があっても、特高はそこに手が出せないだろうとは、想像できる。
小説の中では、宮城警備の近衛(このえ)連隊が、このころ皇居内で事件に遭遇したが、その解決を皇宮警察にまわさずに、憲兵隊に調査を依頼したことになっている。
下巻がはじまってすぐに、吉屋特高係長が活動する時代の十年前、大正時代末の満州に場面が一挙に飛ぶ。当然、満州といえば、関東軍や馬賊や、そして特務機関が登場する。いずれも「軍」と密接に関わり、十年後の事件に憲兵が登場したならば、そこに現役将官が関わるかも知れないという、想像を喚起する。
憲兵が、この作品構成でどこまで重要な役割を果たしたかどうかは、問わない。
松本清張の論理からみて、刑事課が扱った事件、それを奇縁によって特高係長が関与してしまった事件、その結末は「憲兵」が関与せざるを得ないだろうという、推測がなりたつ。
当時の現実の大本教事件には現役将官も関与していたが、特高が事案を扱った。そこに表向き憲兵の登場はなかった。ただし、この作品には大本教事件が盛んに言及されるが、「月辰会研究所」がそのモデルではない。
私は、この小説の構造の一面を、このように、刑事警察、特高警察、憲兵隊という当時のいわゆる「警察」組織によって読み取れば、より明瞭な小説意図が分かると思った。テーマ、ターゲットは当然、新興宗教による皇室不敬、すなわち赤化思想とは異なる大逆「国家転覆事件」となろうか。もちろん、根底には「月辰会」という新宗教による営利の実体があるのだが、行き着くところは、当時の国家神道とは別の宗教政治確立のプロセスを描いた作品である。ただし、作品内でのその「実現」については問わない。
5.三種の小説視点
小説が誰の眼で描かれているのかを、私は注意して読むことがある。書く立場になると、これは「注意」を越えてその「眼」に専念し、「誰の眼」かを詳細に描く。たとえば、拙作「小泉佐保シリーズ」(当画面左側の小説関連サイト)では、ヒロインの司書小泉佐保の視点でしか、回りを、世間を、世界を観ないようにしている。だから、佐保が得る情報は、直接話した相手か、書物か、自分で見たものしかない。
小説作法としては佐保自身の内面に若干触れることもあるが、深層にまで立ち入らないのはシリーズの全体構成として、可能な限り「ほのぼのとした情景」を表現したいからである。どのような主人公であれ、深層に入り込めば、眼にしたくない、想像したくない、ケダモノと人と、そして神との間を行き来することになり、そういう世界は「純粋小説」で描けばよいと考えている。
佐保は一個の眼、耳になって世界と関係を持つ。この意図は、現実の人間がそうだから、そう選んだと仮に記しておく。どんな現実の人間でも、他人の心や、どんな風に見えているかまでの確証はもてない。
一般的に小説は、作者が神になって登場人物すべてのセリフや行動や内面を制御して話を進めていく。だからあらゆる登場人物の内面も外面も、すべてを知るのは作者という神になる。それでは、『神々の乱心』ではどのような「視点の方法」を松本清張はとったのか。
おおよそ三人の眼で作品を描き分けている。この三人という頃合いが作品の見通しを良くしている。それはもちろん、推理小説としての謎解きが分かりやすいという意味ではない。読者として、それぞれの登場人物に違和感なく、乗り移れるという作用がある。
読了後に気がついたのだが、その三名とも、普通の凡人とはいわないが、ごく一般的な能力の高い人物である。粗野でも野卑でもない、物腰の柔らかな、一見まっとうに見える人物である。まかりまちがって私がそのどなたかに転成しても、「厭だ」と大声で叫ぶような人物ではない。後述する三番目の人物であっても、「ひどい」と感じたのはたった一カ所、丁寧な心付けでもらった弁当を、後刻ホテルのゴミ箱に捨てた場面だけだった。「せっかく気持を込めて作ってくれたのに、意外に残忍な性格なんだな」と、思っただけだ。
私だって、忙しさにかまけて大切な書類をついゴミ箱に捨てることだってあるから、まあ、それくらいは一瞬に「厭だな」と感じた程度だが。
実際に、詳細にテキストにあたってみれば、その三人の眼は決して「佐保シリーズ」のような単眼ではないはずだが、読了後のイメージとしては、たとえば吉屋特高係長の眼になって、私は遊水池を眺め、吉野の神社で人に出会っていた。そして捜査途上での疑問点は、吉屋と同じ目線で「うん、わからないな、どういうことだろう」と、彼と一心同体になって物語を読み進んでいた。そこには、作者の横やりもなく、他視点のかき回しもなく、落ち着いて吉屋と同心になれた。
他の二人は、華族の次男坊、萩園子爵の弟「萩園泰之(はぎぞの・やすゆき)」と、大正末の満州で銃器店を始めた横倉健児である。
吉屋については「その1」で述べた。ここでは、しかし萩園泰之や横倉健児が、どういう眼で昭和8年の事件や、十年前の満州の風景を見たかについては、読者の読了にまかせる。
ただ、三者の視点が交差するところに、この作品の結末があるというのは事実である。それは昭和8年当時の関東に収束する。
6.未完のまとめ
承知のように、この作品は松本清張の死によって未完となった。死後五年目に単行書として刊行されたことは先述の通りである。
おそらく作者が病床についた時期と思うのだが、最終章の「月辰会の犯罪」には、遊水池や横穴で発見された殺人事件のあらましが描かれていた。筆致に乱れはないのだが、ところどころに、作家のノートのような形式で事件が「説明」されている。このことで、いわゆる推理小説としての種明かしはほとんどなされている。あと数頁で事件の大団円を描けば、「いささか、結末を急がれた作品」として、完成品としてあり得る。
おそらく推理小説愛好家としては、不満は残るだろう。いくつかの疑問が残っている。だが私は、この作品を「疑問解決作品」としてよりも、現代とは大いに異なる世界の中での、ごく普通の人の勤勉な日常での職務遂行の世界として読み終わった。悪事にしても善事にしても、ごく普通の、しかし才能に恵まれ一定の立場にある人が、どんな風に異様な事件に対処していくのか、という観点から、その描写の一々に感動した。
関東、吉野、広島三次、そして未知の満州。旅情にあふれ、細部が精密で、登場人物の会話、考え方に安心して溶け込むことができた。
だがしかし、背景にある満州帝国、特務機関、シャーマニズム、戦前の宮中、特高、憲兵、近衛連隊、……それらは、上述したような日常性とははるかに異なり、その異色さは、そういう世界に比較的近しい読者であっても、感服するところが大きいだろう。松本清張は、厖大な調査、経験から細部を十全に練り込み、壮大な物語を作ったと、私は思った。
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