瀬島龍三の死
瀬島龍三さんが亡くなられた。今日、2007/09/04の午前一時ころらしい。享年95歳、老衰とのこと。
毀誉褒貶のある方らしいが、私は知らない。
瀬島神話という言葉があるくらいだから、日本の戦後に相当な影響力を持った方だと想像する。
それも、私は知らない。
しかし、ここに記事を載せたのだから、私が相当な関心を持ってきた人物なのは、事実だ。
一つは、東京裁判での正面写真だ。新聞にも転載されていたが、スーツのボタンをきっちり掛けて若々しい瀬島氏がそこにいた。
一つは、彼の経歴だ。要するに瀬島氏は、30代半ばで実質的に大東亜戦争(対米国)の作戦要綱を組み立てていた人なのだ。
この二つだけで、瀬島氏は日本の歴史に残る人物だと、私は考えている。いずれも論理的なものではなく、感性的なものだ。写真写りが良いとか悪いとかの問題ではなくて、覚悟している、確信犯としての凛々しい顔つきだった。大東亜戦争を「悪」としてとらえる人が国民の大多数だろうが、負けるべくして負けた戦争を、どこまで踏ん張って作戦を立てたのか、そういう観点で当時の彼の重圧を想像し、心に残った。
特に後者は、当時の軍人が全員発狂し、血迷って、戦争していたと想像する方がよほどおかしい。瀬島氏のような超エリートがどのような思いで作戦を練っていたのか、そこを知っておきたい。彼は徴兵ではなくて、プロとして育てられた職業軍人なのだ。今の自衛隊や防衛省に、瀬島氏レベルの参謀要員はいるのだろうか、それも興味がある。
経歴を検証することなく新聞記事だけで眺めてみた。
1.陸軍士官学校を次席、陸軍大学校を首席卒業とのこと。
当時のこの種学校は旧帝國大学以上の秀才が集まる所らしいから、エリートの頂点と言ってよかろう。
2.昭和14年大本営陸軍参謀、後日・大本営海軍参謀・兼務
3.関東軍参謀へ移動
4.シベリア抑留、11年間
5.昭和33年伊藤忠商事入社
6.中曽根内閣ブレーン(参謀だろう)
7.以後、いろいろ
8.平成19年9月4日死去 95歳
歴史とは戦史と言って良いほど戦争が数珠つなぎになっている。敗北すれば亡国、植民地化、民族が消滅した事例もある。勝っても次の世代に文明の終わりを迎えることもある。昨日、今日の話ではない。人類史5千年の目ではそうなる。
繁栄も貧困も戦争を招く。正義も戦争を招く。戦争で儲ける人も多い。国内政治経済を立て直すために戦争する人も国もある。なんとか、頃合いの現実感を取り戻せば、戦争に至らない事例も数ある。しかし、戦争は巻き込まれたら、受けて立つしかない。
と、私は日々考える。
瀬島氏は、晩年、どう考えていたのだろう。(2007/09/04 火曜日に記す)
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