小説木幡記:2007/09/18(火)終わりは始まり
昨日葛野で2007夏期論文の初稿を完成した。2稿を出すのが余自身の決まりなので、しばらく寝かせ、提出前に二日間掛けて一気呵成に仕上げる。ということはまだ98%完成なのだが、昨夕は激しい脱力感に襲われた。体中がだるくなって、帰還したときは目眩さえした。
初稿で実は完成品なので(書いている間なんども行きつ戻りつ読んでいるから)、これで終わりにしても良いのだが、そこは習慣というか、毒を食らわば皿まで(変なたとえ)というか、あと二日フルタイムで他人の目で見直すのも、精神衛生上、よいよい。
そう、昨日は敬老の日、さすがにキャンパスは無人だったし、さすがに日の高いうちに葛野をでた。
と、こういうことの意味や意義は考えないようにしている。この為に、毎年夏期の二ヶ月を修行僧みたいな難行苦行に身をさらせているが、それも人生。本当は屋久島を見てみたいとか、東北の温泉につかりたいとか、最速CPUを欲しいとか、数十億円あったらでっかい土地を買って難攻不落の基地というか、砥石城みたいな山城を造りたいとか、武士団造って騎馬武者親衛隊を育てたいとか(大奥はいらぬ)、欲望には限りがない。ぜんぶ葛野の夢も、夢のまた夢、何一つ達成することもなく、明日か十年先か三十年先かにおさらばするのだ、という覚悟のもとに、毎夏すごしてきた。
そして今夏も完了した、よしよし、の気持だな。
(ところで、隠遁している気分の割には、ほしい物がどんどん出てくる、あはは)
あと残るお楽しみは、明日のそれこそ永劫回帰というか、マハーバーラタ、サンサーラの世界にたっぷり小一時間ひたる責務が残っておる。そのほか、来週には葛野図書倶楽部2001と授業の最終調整にはいるとか、ああ、貧乏暇無し、終わったと思ったら、次が始まる。
しかし一般世間から考えると、大学は異常事が続出しても、フレーム(枠組み)は、前年度に決まっていることが多いので、強固なシステムともいえる。たとえば一年先の何月何日何曜日にどの会議があって、そこでは、こういう話がでるだろうな、とまで予測がつく。もちろん、授業内容もそうだ。そういう意味では明日をもしれぬ動的な世間とは様相が異なる。
ただ、それを何十年も繰り返し繰り返し繰り返し、少しずつ改良し相を変え、ときどきの学生や世間に対応していくのは、ちょっと気力や技術が必要だ。投機性、冒険性、芸術性の強い人には大学は地獄の面もあろうて。
大学は変わらなければならない、とよく話を聞く。
「そうですね」と、うなずいている。
時には膝を打って「そうです」と、言う。
うけけ。
だが、余の深奥は違う。「変わらないから大学なのだ。人間の、学に対する全人的対応、方法論や感性や思考は、歴史始まって以来、変わらない。なぜ、みんなそれに気がつかない。なぜみんな、流行を追う」と。
もちろんそういう深奥は絶対に漏らさない。目も見せない。バレルから(爆笑)
じゃなぜ? 木幡記に書いているじゃないの?
あはは。
先般もうしたように、小説木幡記じゃからな。これは、小説=虚構、なんだ。
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