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2007年9月11日 (火)

小説木幡記:2007/09/11(火)眼は大切だ

 京都の今朝は空が晴れていて、秋空に近かった。もちろん京都の夕方は雨だった。

 その朝のこと。めっぽう景色がよく見えた。クリアに、遠くまで、気楽に見えた。
 最近はずっと人の顔が判別できなかった。ときどき滲んで見えた。
 それが、今朝は異変が起こったのか。

 人には五官があって、目・耳・鼻・舌・皮膚がそうらしい。五官に応じた視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚という感覚を五感というらしい。年齢やハンディや生い立ちによって、世界中の人がみんな同じではないと思う。日本の人は視覚が少し弱い。それは視力と言った方がよいのか、大体良い人で1.5前後だが、モンゴルやアラブの人には5くらいの視力のある人が多いらしい。草原や砂漠だと、その方が生きやすいからだと想像した。

 日本の人は比較的、味覚を味わう舌が発達しているのだろう。日本料理は、大抵繊細な味を基本にしているから。
 皮膚感覚は、男性よりも女性の方が優れていると想像する。根拠があってのことではない。
 理科の実験で、痛覚だったかな、ミリ単位で離し針を二本刺して(触った程度か)、痛み場所の分別を実験した記憶がある。

 ああ、話が飛んだ。
 つまり、うそかまことか、人間が外界から受け取る情報の80%は目を経由して得るそうだ。だから、目は疲れるのだろうか? 余程の騒音下とかガミガミと小うるさい◎生がそばにいない限り、耳が疲れた経験は少ない。鼻はすぐに慣れるらしい。でないと、公衆トイレには入れない。

 さて、その目のことだ。15年前から老眼になって、その時眼鏡を生まれて初めて新調した。プラス1と検眼表には載っていた。で、最近ずっと遠くの文字や顔を見るときは、それを付けないとまったく見えなかった。もちろんそばの本は読書眼鏡をつかないと読めない。

 それがなんとしたことか、今朝、+1の老眼鏡なしで遠くがはっきり見えた。
 うれしかった。
 しかし、考え深いMuは思ったのだ(笑)。これは一過性の現象にすぎないと。案の定、仕事して論文書いて帰宅したあと、相変わらず離れたTVは見えない、何も見えない、もとのまま。

 それで、推理した。
 おそらく、昨日は終日、メルを見るくらいでほとんどPCを見なかった、そういうことの結果だと思った。読書はしていたが、半分は心眼で想像して読んでいたから、目の負担はすくなかった。

 PCや電脳に40年近く世話になっているのに、原因をそれにするとは、まったく恩知らずだが、やはり現実はそうなのだろう。ディスプレイ注視は、目を痛める。数日使わずにぼんやりしていたら、きっと老眼も近眼も、だいぶよくなるのだろう。非科学的かな? 
 でも、しかたないよね。
 いや、余はいささかPCに耽溺しすぎかも知れない。
 多分、そうなんだろう。
 やめられないだろう。
 棺の中まで数台もちこむような、予感がする。

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