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2007年9月26日 (水)

卑弥呼の墓(005) 邪馬台国は古代大和を征服した/奥野正男

承前:卑弥呼の墓(004) 陸行水行/松本清張(小説)

邪馬台国は古代大和を征服した/奥野正男(表紙)
邪馬台国は古代大和を征服した/奥野正男(裏表紙)
 この冊子を見ると懐かしくなる。今より、もっと懐が淋しかった時代に一冊450円。80頁ほどしかないが、テーマについて過不足無く内容が詰まっていた。文庫や新書とは違って判型が大きい分、地図や写真は、章立ての一覧性があった。それをいま再読して、PART2 卑弥呼の死をめぐる謎「卑弥呼の骸(むくろ)はどこに葬られているか」をまとめてみた。

 以下奥野は、卑弥呼の墓を論証する尺度として、魏志倭人伝を中心においた。

1.卑弥呼の墓の条件
 「大いに冢を作る、径百余歩、葬に殉ずる者は奴婢が百余人」
 「その死は棺ありて槨(そとばこ)なし、土を封じて冢を作る」
という魏志倭人伝に照らして次の条件にかなうものを卑弥呼の墓とした。

 奥野は言う、
1.1 冢(ちょう)であること。それは盛り土のような塚であって、見上げるような高さの墳、つまり前方後円墳ではない。 
1.2 径とは円の差し渡しであり、前方後円墳などの全長ではない。
1.3 百余歩とは、「目分量」として百歩ほどの意味。歩数なら50~60m。
1.4 棺とは、弥生時代の甕棺、木棺、箱式石棺などをさす。
1.5 槨(かく)なしとあるから、棺が外箱に入ったものではない。
   (奥野説を良く読むと、いわゆる竪穴式石室自体が外箱になる、という考えだ)
   (すると、竪穴式石室を持つ一般的な前方後円墳は、卑弥呼の墓ではない、となる)
   (私は、槨とは、マトローシュカ人形的多重層棺桶という意味に取っていたのだが)
   (ツタンカーメンとか秦始皇帝などは、厳重に何層もの箱に入っていたようだ)
1.6 後漢式鏡の大量埋蔵が卑弥呼墓の条件

 以上の奥野の諸条件からすると、箸墓は外れるらしい。

2.卑弥呼の墓は、平原遺跡(ひらばる・いせき)
 奥野は糸島郡前原町の曽根丘陵にある平原遺跡を卑弥呼墓としている。
 一番大きな理由は、副葬品であろうか。勾玉、管玉、小玉がガラスやメノウ製で多数出土した。しかも、銅鏡が、国内最大級の大きさ(直径46.5センチ)を持つ内行花文鏡や、後漢鏡と国産鏡をあわせて42面出土していることである。

 たしかに前者は女王の装飾品を想像させ、巨大な鏡はトップクラスの副葬品と思える。
 墓は、割竹式木棺がそのまま埋めてあったようなので、外箱が無いと言える。

 この平原遺跡を卑弥呼墓とする話は、2007年3月放映のNHK「邪馬台国はどこか」でも、奈良県桜井市の箸墓と対応して、北九州の最有力箇所と見られていた。

3.平原遺跡の地図
 奥野説では、邪馬台国は筑後川北岸一帯となっている。別途『考古学から見た邪馬台国の東遷』(毎日新聞社、1982)には、東遷というスタイルで「小研究史」がまとめてあったが、詳細は省く。
 その、平原遺跡の現在地は、福岡県前原市大字曽根付近であろう。

 平原遺跡地図
 ↓以下の地図ポイントは、別の詳細地図では「平原歴史公園」とある。

感想
 この冊子は奥野正男・研究成果の分かりやすいまとめである。そこがよいと思った。
 ご自身の研究結果を、要点ごとにまとめ、必要最小限の先行研究図書をあげ、日曜邪馬台国作家にも分かりやすく書かれたものである。

 疑問点として、別途くりかえしたが、魏志倭人伝の内容を尺度にすることの妥当性がよくわからない。日本書紀ほどのしっかりした文章でも、潤色著しいという噂なのだから、細かなことは遠い昔話として曖昧に見えてしまう。だから、棺桶に外箱が無かったとかいう話も、つい疑ってしまう。また奥野が外箱を竪穴式石室ととらえたのも分かりにくかった。
 NHKの上述放映でみた平原遺跡出土の装飾品のかずかずは、美しいものだった。ここが女性の墓という推理はうなずけた。TVを見ていて思ったのだが、卑弥呼の宮殿と墓との位置関係をもう少し調べてみたくなった。

参考サイト
 伊都国歴史博物館公式HP
 同上の「内行花文鏡

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邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

こんにちは
せいじと申します。
検索からやってきました。
私は伊都国に興味がありサイトを運営して
おります。もちろん平原遺跡についてもです。
なぜ平原遺跡なのか?なぜ伊都国なのか?
についてまとめています。

「南至邪馬壱国女王之所都」を
従来とは違う読み方をするだけで簡単に
伊都国という結論にたどりつけます。

お暇な時に
「伊都国女王卑弥呼」に
お越しいただけると幸いです。

投稿: せいじ | 2007年9月26日 (水) 18時44分

せいじさん
 伊都国女王卑弥呼>平原遺跡

http://itokoku.jp/

 ざっと眺めました。だいたい、理解できました(笑)。なるほどと、思いましたよ。
 邪馬台(壱)国と女王卑弥呼の宮殿というか屋形とは、ちょっと別の視点が必要ですね。
 なるほど。

 さて、今後も平原遺跡とか伊都国とでてきたら、せいじさんのHPを参照し、異同を確認してから書くことにします。

 なお、Muはどうにも、こうにも、箸墓好みなので、別記事ではいろいろ異説を記すことになりますが、あしからず。

追伸
 平原遺跡の復元改修については御異論があるようですが、写真をみているかぎり、現代人にも(誤解しながら)概略がわかる雰囲気でした。あの、自販機は、ちょっと笑えました。

投稿: Mu→せいじ | 2007年9月26日 (水) 20時11分

平原遺跡

 一度は訪れてみたい遺跡です。昭和40年に発掘ですから大学に入学した頃ですね。39枚ですか、42枚ですか膨大な鏡の出土は驚きですね。

全ての鏡が割られていた事もミステリーですね。伊都国の大王の墳墓でしょうか。武器が出土しないのも不思議ですね、宗教の色が濃い遺跡だと思います。

 当時の倭という国はどうなんでしょうかね、北九州から朝鮮半島南部を含む海洋王国だった考えると面白いですね、その中心が伊都国であったと。

 発掘された原田氏は卑弥呼の墓とは考えておられなかったですよね。さて、どうなんでしょうか。

投稿: jo | 2007年9月29日 (土) 21時00分

JOさん、かゆいところに手の届くようなコメント、ありがとう御座いました。

1.原田大六さんの図書
 残念ながら押し入れの一番奥にあると知っていながら20年近くもそのままです。分厚い図書だったと思うのですが? この「卑弥呼の墓」シリーズが三桁になったなら、何が何でも取り出します。

2.鏡の破砕
 奥野さんは、上記章の前で、卑弥呼は魏の使い張政によって詰め腹を切らされた、つまり首のすげ替えをされたということを書いておられます。また松本清張さんの、卑弥呼は霊力を無くしクナコクとの戦に負けたので、まわりから女王位を剥奪されて殺された、という説を援用しています。

 だから、奥野さんは、推理として、卑弥呼は殺害されたので、鏡も副葬前にすべて割られて埋められたというような想像を書いておられます。
 墓に入れるとき、副葬品を壊すのは、甦りを封じ込めた意味があったのかも知れませんね。

 ともかく、この邪馬台国シリーズは、できるだけ多様な卑弥呼墓説を並べていこうと思っています。この平原遺跡は、箸墓説から遠い説の最右翼ですが、照応している点が興味深いです。
 もしかしたら、伊都国の女王の墓だったのではないかと、Muは考えております。現代のような統一国家とは異なりますから、そこら中に小連合国を率いた女王や男王がいたのかもしれません。そして、ヤマトには日巫女さんがおったのでしょう。

 まだまだ、謎が深まりそうです。

投稿: Mu→Jo | 2007年9月29日 (土) 21時51分

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