小説木幡記:2007/08/30(木)精勤の中で情報の火花が散る
今夜も木幡記を記しておこう。記す心身でもないのだが、生きている証。
さて、
朝がゆというものを、お店で頂いた経験は、多分ないのだろうが、記憶はあてにならないから断言はよそう。
昔、N先生が中国へ行かれたとき、「Mu先生、朝にいただくカユは、なかなか気持がよいものです」とおっしゃった。昼も夜も中華で責められると、同じ中華でも、朝がゆはのどごしがよいのだろう。
そういえば、ホテルの朝食などで朝がゆがでるところもあった。忘れたが。ただ記憶として、胃によい。
幼児期なれば、我らの貧しい時代もあって、病気のあとは大抵、おもゆ、だった。つまり米のジュースだな。そして徐々にお米のつぶつぶが多くなるお粥だった。
今なら、普通のお粥、大根千本の味噌汁、おつけものの盛り合わせ、温泉卵、一夜干しの焼き魚、お茶。
こういうセットであれば言うことないな。この規模(変な用法だ)を越えたら、朝がゆとしてはよくない。胃にもたれるような、おかずというより添え物が主人ずらするような朝食は、異国ではしらぬが、本朝では外道邪道と思う。またしかし、この規模がさらに縮小すると、まるで禅坊主みたいな、ちょっとすかした感じになって、これもよくない。原則として、食事に思想がはいるのは、これも外道邪道、魔道になる。
ということで、朝がゆのような男になりたい、と思うようになった。(失笑だね)
今日も終日夏期論文のデータ整理におわれていた。
脳は相当に疲労する。
そこで、ハッカがでてくる。
手のひらに吹き付けて、デコや首や肩に当てる。すぅ~と、してくる。
ここずっと、迷いは一杯ある。それは時間との戦いによって生じる夢魔なのか。
夏期論文だけじゃなくて、いくつかの期限がせまっている。
期限には、最後のトドメをさす時間が必ず含まれる。つまり、寝かせる時間。
どんな場合でも、それは浮遊思考ですら、特に書いた物は、寝かせる時間が必要だ。たとえば夏期論文だと説明しやすい。誰に? 余自身に。
締切の10日前には完了している必要がある。そして一週間は寝かせる。最後の三日間で、阿修羅になって再読校正、というか短時間に集中して見直す必要がある。それなくして、思考を定着したことにならない。誤植は直せばそれで終わりだ。もっと大切なことは、浮遊思考を定着思考として書ききるには、この再読推敲が必須である。
そう。迷いはそのことじゃなかったのだ。もっと大切なこと。
余生、死までの残り時間だな。
論文なんか書いていてよいのだろうか。余がしなくても誰でもできる責務なんて、そんなことに時間を使っていて良いのだろうか。……。それが、一番難しい問題となってしまう。
MuBlog書いたり、日曜作家していて、それでよいのだろうか。
夢魔に陥る。
で、部屋を暗くして、横臥して、薄闇にまどろむ。最初は「これでよいのだろうか」とぼんやり考えている。闇にまどろむことへの疑問ではない。責務を果たしたり、実験したり、マシン作ったり、倶楽部の面倒みたり、もろもろの現実の仕事をしていることへの疑問だな。やがて、「やりたいようにやればよいのだろう」と落ち着きを取り戻し、闇と脳とが融合する。思考が薄くなって空間にただよう。
すると。
楽になる。
というわけで、明日もまた、MuBlog書いて、読書して、夏期論文書いて、責務に励む。
人間は、おもしろい存在だ。自分でやっていることに疑念を持ち、そしてまた疑念をすりぬける、とびぬける、無視する。毎日。
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