小説葛野記:2007/08/17(金)教員の自動仕事
今日は早朝からさっき夕方まで、葛野で成績評価をしていた。今頃? と思うかもしれないが、講評原稿を書いていた。
楽しさと辛さとが相半ばしたような、それでも終日かかる重い職責だ。ただし、6割程度は過去を振り返りそれとの比較をして書いているから、その点はオートマタ、自動評価ロボット教員になりきっている。
人は、特に若い人は比較されることを極端に嫌う。よくある親子げんかはたいてい兄弟姉妹の比較にはじまるくらいだ。「お兄ちゃんは、ちゃんと大学いったのに、おまえは2浪もしている」とか。「お姉ちゃんはさっさとお金持ちに嫁いだのに、おまえのおつきあいしているあの人は、プータローじゃないの」とか、あれこれ。
こういう事例は時に、殺傷沙汰になるくらい激しいものだ。
余も酒の席なら許すが、安易に余を他人と比較などしたなら、相手をはり倒すか、日曜作家で、特別にキャラを急遽作り上げ、過酷な死を遂げさせる(日曜作家の徳用)。うけけ。
ところが。話はそれで終わらない。
教育においては、まずもって比較から始まる。絶対評価はまれにしかない。100人いる。その100人の成果を順番に並べあげるところに教育の本質がある。
だから、教育は成功もし、失敗もする。全体の中でどこに位置しているかを知ってこそ、人はそれを客観的な評価としてとらえる。しかしなお、学友が、自分がノートを見せた学友が100点をとって、みずからは50点などとろうものなら、それこそ心が凶器になる。
さらに。だがしかし。
社会とか組織にあるから相対評価が必要なのであって、仙人なれば、絶対評価だけでよかろう。われ、かく思う、故にかのように生きる。そういうのりだな。
教育でも、まれに絶対評価が生じる。そういうのは、まれなことだから、まれなことに一喜一憂してもしようがない。就職面接などは、相対と絶対評価が、評価者によって変わる。
余が若き日に、くれぐれもしてはならぬこととして上司から教えられたのは、「抜擢人事」だった。そして、皮肉は、その上司は万難を排して、余を抜擢してくれた。あらゆる余に対する毀誉褒貶を切り捨てて、余を抜擢してくれた。未だにその情景を思い浮かべれば、涙ぐむ。
人生の解は一つでは無い。
これからも、しっかり評価していこう。
しない人は大抵卑怯者、怯懦(きょうだ)な者だな。歴史が証明しておる。
厳密な評価なくして、教育は成立しない。
難しくはない。ルールを、精密なルールを作ることだ。
だが、しかし、あと何年かすれば、そういう「よしなしごと」ともおさらばする。
そういうことだ。
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