小説木幡記:2007/08/16(木)夕景と夕顔
木幡の夕景 2007/08/16(木)午後7時
ふと、早朝から一歩も外に出ていないことに気がついた。
サンダル履きで玄関をあけて、西をみたら、もう夕景になっていた。あわててカメラを持ちだして数葉うつしてみた。
木幡の夕景は、余にとって至宝だ。
イメージは西方浄土が言葉として浮かぶが、もっと原始的な快感を味わう。余が大抵機嫌良く数十年くらしてきたのは、多分こんな夕景に満足してきたからだと思った。
木幡の夕顔
しかし眼前にあって、暗い中に大輪の花を咲かせていた。
不思議な花だと、さっき写真をみていて思った。大抵の花は太陽に向かって咲くそうだが、なぜ夕顔や夜顔は陽の落ちた後、ひっそりと咲き誇るのだろう。少年期の理科少年の疑問が一杯わいてきたが、結局花は花で咲きたい季節時間に咲くのでしょう、と得心した。
こうして時々木幡にべったり居着いて、夕方の風呂やシャワーをつかって、部屋を暗くして小一時間薄目をあけていると、生きているなあ、と味わえる。余は、おそらく今後の十年も、二十年も、同じことを繰り返していくのだろう。
日曜作家。辛さも多いが、完成したときの喜びは大きい。今回は連載するだけで十ヶ月かかった。そこにいたるまでに、何十倍もの時がかかっている。そして、完成した今の今、この瞬間はもう次のことを考えている。なにかしら、作ることが楽しいのであって、享受することに薄い人生かもしれない。
これは、昨今MuBlogを賑わしていた涼夏2007PCも同じだ。涼夏には悪いが(笑)、完成したらそれはツールになってしまう。心は次の、何年か後の自作PCに心が翔けている。
しかし、とここで考えた。涼夏は充分に数年間、余の役にたってくれるが、さて、日曜作家はどうなんだろう。読み返しもしないのだから、はなはだ立場が霞んでしまう。とはいうものの、MuBlogのリストには永久登録されるのだから、それでよいだろう。
今日のこの日、2007/08/16(木)は、記念すべき日になった。よい「木幡の夕景」が、『夜麻登志宇流波斯』をことほいでくれたのだろう。そう、思った。
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