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2007年8月26日 (日)

神々の乱心/松本清張<感想文 その1:上品な吉屋特高係長>

神々の乱心/松本清張

神々の乱心/松本清張
 この長編小説は未完である。著者松本清張が82歳(1992・平成四年八月)で亡くなる直前まで週刊文春に掲載していた。図書として上下刊行されたのが五年後1997年の一月なので、現在(2007・平成十九年八月)から数えると十年以前に読んだものである。週刊誌連載中はときどきタイトルだけ眼にしたがあえて読まなかった。図書となったときに一気にまとめ読みをしたかったからである。
 未完だから、なかなか本にはならないと諦めていたのだが、時がすぎて十年前の正月明けの書店で眼にしたときは狂喜した記憶がある。

 この度は「上」を再読したので、忘れぬまに感想を記しておく。
 まず、付帯情報から整理する。

1.帯情報 上下
<上>
宮中に何事か画策する謎の新興宗教
昭和8年。東京近郊。梅広町の「月辰会研究所」から出てきたところを尋問された若い女官が自殺した。自責の念と不審から「月辰会研究所」をマークする特高課第一係長・吉屋謙介。やがて渡良瀬遊水池から、2つの死体が……
巨匠松本清張が渾身の力を揮った絶筆1700枚。

<下>
満洲に暗躍していた教祖の野望とは
自殺した女官の兄から、月に北斗七星の紋章が入った通行証を見せられた華族の次男坊・萩園泰之。「『く』の字文様の半月形の鏡」とは何か? 事件の背後に見え隠れする十数年前の「大連阿片事件」の影。「月辰会研究所」の謎を追って、物語は大正時代の満洲へ遡る。

登場人物(上下)
・北村幸子
 宮内省皇后宮職員。深町女官に使える下級女官。「月辰会研究所」を出たあと尋問され、郷里の吉野へ帰って谷川に身を投げる。
・吉屋謙介
 埼玉県特高課第一係長。幸子を尋問したことから「月辰会研究所」に関心を持ち、独自の捜査をすすめる。
・足利千代子
 年老いた元女官で、源氏名は喜連川典侍。ときどき喜連庵を訪れる吉屋に宮中の思い出話を語ってくれる。
・北村友一
 幸子の兄。深町女官の代理で葬儀に参列してくれた萩園泰之に遺品などを見せて、自殺の真相を調査してくれるように依頼する。
・萩園泰之
 萩園子爵の弟にして深町女官の弟。幸子の遺品の「通行証」は深町女官の使いで行った先のものと推理して、情報収集を始める。
・川崎春子
 広島県三次の旅館「月江山荘」の女将。大連阿片事件の被告となった大連の役人(嘉善堂戒煙部長)川崎友次の未亡人。
・津島久吉
 紀州の農園主。大連阿片事件の被告となった元阿片特売人の一人。渡良瀬遊水池から他殺体で発見される。
・島田平蔵
 嬉野で茶園を経営。元阿片特売人の一人。数ヶ月前、商用で旅行に出たきり、行方不明になっている。
・秋元伍一
 川崎友次配下の阿片密偵だったが、油断のならないところがあるので、川崎から遠ざけられるようになった。
・伏小路為良
 萩園泰之の親友で、華族の次男坊。情報通で、華族界の噂や怪文書を泰之のもとへ持ち込んでくる。

2.関係地図
渡良瀬遊水池(わたらせ・ゆうすいち)

 渡良瀬遊水池は、清張が描いた昭和初期の姿と現代とでは相当に違いがあるようだ。二つの死体が発見された場所はそれぞれに作品中から特定できるが、ここではあえて著名な「渡良瀬遊水池谷中村跡」付近をポイントしておく。現代の住所は、おおよそ栃木県下都賀郡藤岡町大字内野付近となっている。

 作品に描かれた渡良瀬遊水池は果ても見えないほど茫漠とした水の世界だった。その背景には足尾銅山鉱毒問題や、谷中村の水没など、昔の日本の政治や利権に絡んだ様々な問題が見え隠れするのだが、それよりも、巨大な遊水池の背高い葦の陰に捨てられた遺体の無惨さに目がいき、そして遊水池を眺める登場人物達の視線が印象に強く残った。

 作品に現れる地名はここだけではなく、自殺した女官の実家(神社)のある奈良県吉野、「月江山荘」のある広島県三次、とそれぞれに郷愁を抱かせる土地が大きく登場するが、私はまったく想像もつかないこの「渡良瀬遊水池」にはるかな異国を味わい、ここに記録した。関西から一歩も出ない者には、このあたりの水、空、風景、空気、それらが想像もつかない「異国の空」に思えるのだ。

 遊水池は当時も現代も、群馬、栃木、埼玉、茨城の入り組んだ所に位置する。関東といえば、最近はようやく千葉県を太平洋に面した海洋国と認識しだしたが、群馬、栃木、埼玉、茨城といえば、どこがどこなのか全く未だに不明である。同業の故・原田勝先生には若い頃、「あなたには、関東のことは何度教えても、わからないようだから、もう説明しません」と笑われた。昔、先生が教授就任なさった筑波大学が何県なのか今も分からないとか、あのあたりの言葉が理解できないとか(電車の中で、オジサン達の話言葉が喧嘩に聞こえたので、不安になって原田先生をつついたことがあった。それが笑いぐさになってしまった)。そんなこんなで、この渡良瀬遊水池、いつの日か登場人物達と同じ目でぜひ見ておきたいと、茫漠とした思いにおそわれた次第。

参考サイト
  渡良瀬遊水池[ヨシの原が写真にあります]
  瀬遊水地の役割と……

3.吉屋謙介(よしや・けんすけ)特高係長
 話のあらすじは、事前公開されている帯状情報にまかせることにする。推理小説を銘打っているのだから、どんなことが「ネタバレ」になるか分からない。読者の資質によっては「一言」だけで腹をたてる事例も大いにある。
 古ネタ繰り返しになるが、私は以前京極堂ファンに、てっきり読了すみと思って「うぶめのなつ」のネタバレをしてしまい、未だに寝汗をかくことがある。どんな仕返しが百年後にあるのかという、恐怖からだ。

 さて、埼玉県特高課第一係長吉屋謙介についていくつか感想を記し、上巻の感想とする。なお、上巻の終わりかたは実に印象的だった。つまり、そこで初めて憲兵隊が登場するわけだ。当時の職制、縄張りは今以上にしっかりしていて、刑事課の動き、特高課の動き、そして憲兵隊の動きで事の成り行きが非常に鮮明に分かる仕組みになっている。
 このあたりのことは、松本清張の努力と才能の成果だと、痛切に味わう。

 現代だと、刑事課と公安と、そこに自衛隊の諜報機関が現れる様相に近いが、この昭和初期ほどには区別がつかない。後者の現代自衛隊の諜報機関と言っても、そういう厳しさが味わえないのが現実だ。機密情報は垂れ流しに近い。若い奥さんがアジア系の人で、そこから、わが国の同盟国の虎の子情報が、ハードディスク単位で易々と漏れるとは、まるっきり素人の世界というか、普通の企業情報が漏れる事例よりも、さらにぼろぼろである。多分、防衛省には「機密」はないのだろう。

 特高といえば、現代日本史では悪名高い戦前警察権力として知られている。法を超越した拷問警察と思っている人も多いことだろう。知り合いの故・お父さんなんかの話を人伝えに聞くと、戦前特高警察官だったそのお父さんは、世間体を気にして戦後相当に努力して身を潜めたようだ。秘密警察というと、違法拷問無茶苦茶権力濫用の鑑(笑)と見られている。

 事実そういう側面はあったのだと思う。しかもそれを描く作者、松本清張が権力の内幕を曝露する、社会正義派作家の筆頭なのだから、人によっては、読む前から『神々の乱心』を教条的作品と鼻じらむこともあるだろう。

 ところが、これは「点と線」や「時間の習俗」で登場した東京警視庁三原警部補や、福岡署鳥飼刑事という戦後の警察官を描いた筆致と大きな差がない。少なくとも上巻にあっては、私は吉屋に身を添わせ、同じ目で各地を回り事件を分析推理し、読み終わった。

 「特高課係長」の名刺がどれほどの威力を当時もっていたか。
 私服だから名刺と手帳しか身分を明かすものはない。紙切れ一枚で、世間が庶民が怯え立ちすくむ様子がよく描かれていた。しかし、吉屋は偉ぶったところがなく、物静かな、30代後半の「紳士」として行動する。非常に丁寧な物言い、物腰、生真面目な中年である。肩書きを半ば見せ、半ば見せられない立場の特高警察官が非常にリアルだった。そのリアルさの中に、拷問自白強要などとはほど遠い順法精神にあつい警察官の姿がくっきりとあった。

 ふと思い出した。帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)の『逃亡』の主人公は憲兵だった。彼も清廉潔白の人だったが、戦後帰国し、日本各地を逃亡した。捕まれば重度の戦犯として死刑は免れない立場だった。国家権力の走狗、特高、憲兵。そういう共通性を思い出した。

 吉屋はふとしたことで、若い女性を尋問する。
 単に彼女がでてきた建物が新興宗教らしい研究所だったからにすぎない。大本教事件などが以前にあって、特高課員は当時の新興宗教に神経をとがらせていた。尋問と言っても、丁寧に持ち物を見せてもらうだけのことだった。しかし彼女は、自分が宮内省に勤務する者であることを言わざるを得なくなり、かつ、持ち物を見られてしまった。たったの、お札(ふだ)一枚である。吉屋は相手が女官である事実を知り、愕然とする。当時の宮内省は、特高警察の権威権力が及ばない至高聖地だったのだ。
 尋問と言っても、それだけのことだった。が、女官は後日、実家の吉野で自殺する。吉屋は懊悩した。単身吉野での葬儀に私人として参列した。

 中堅の特高係長と云えども、自分の職責を果たすための常日頃の注意は怠らない。
 吉屋は特高警察官用の薄いが極秘の「捜査教則本」をときどき読む。管轄内の思想犯、国家反逆の違法組織を取り締まる為である。そこに描かれるのは、松本清張の面白さというか、強靱さと思った。日本共産党の事例をもとに、捜査官がどのように振る舞い、法の枠内で取り締まるかについて、事細かに注意事項がある。不用意な自白強要は、必ずあとで法廷闘争に持ち込まれるから、絶対にやってはならないとある。日本は、当時も法治国家であることが分かる。

 と、こういう清張の描く吉屋特高係長の生真面目さ、穏やかさ、まともな人間像に私は感心した。別の世界ではやはり拷問があったのだろう。それは戦後の警察でもあるのだろう。現代も冤罪、自白強要、公権濫用は新聞によく出る。
 しかし、そういう権力描写のワンパターンから、ちょっとずれた別の現実をリアルに描くところに松本清張の偉大さがあると思った。特高課員は人格を含めた上で当時のエリートだったのだ。清張は、体制や権力を外からだけ見て叩く単純な社会正義派ではなかった、と思う。体制内で、真の職責を自覚したエリートとして生きる人間も描く力量があった。

 上巻のことは、最後に憲兵が登場するところで終わりだが、さてどうなるのだろう。十年前に読んだので、もう忘れている。続きが楽しみだ。

追補1
 松本清張研究で著名な『松本清張事典決定版/郷原宏(角川書店)』で件の吉屋謙介の項目をみていて、言及しておくことにした。そこでは末尾に吉屋のことを「新興宗教と昭和史の闇という年来のテーマを追求するために作られた人物だが、人間的な魅力に乏しい」とあった。私は、そういう風に見る人も多数いると思う。逆に、吉屋的な人物とは対極にあるだろう、歯切れの良い積極的なあるいは卑劣なあるいは暗い、要するにもっとダイナミックな人物が、人間的に魅力あると思う人も多いと想像する。そのあたりのことは、十人十色と痛切に味わった。
 私がもし、清張と知り合いで、今もお若く元気なら「センセ、今度の吉屋は最高です。ああいう人物を待っていました」「今時の、アクのつよい、個性ぎんぎんのキャラには、飽き飽きしておったんです」と、臆面もなく云うことだろう。
 それでよいと思っている。

追補2
 未完であることについて。これは下巻の感想文で記す予定だが、あらかじめ。
 作品の種明かしとか、全体結構における末尾とかについては、全く問題を感じていない。あればあったで、別の感興を抱くかも知れないが、私は、この未完と云われる『神々の乱心』を秀と採点しているので、どちらでも良い。もし復刊する予定があるなら、未完という文字は不要だと思っている。

その2→

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コメント

 この推理小説・感想文をだしたとたんに、いささか場違いな探偵社のトラックバックがありました。

 今時、どんな人が探偵なんでしょうか。先祖伝来の稼業とか、警備警察自衛隊の退職者とか、その筋のひととか、想像するとわくわくします。

 あまりに興味が湧いたので、異例ですが、場違いトラックバック、一つ公開しました。

以上、Mu談

投稿: Mu談 | 2007年8月26日 (日) 12時48分

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承前:神々の乱心/松本清張<感想文 その1:上品な吉屋特高係長> 4.下巻の構成:三つの警察機構  上巻の末尾は憲兵隊の登場で終わっていた。憲兵は、当時の警察(特高も含む)でもないし、皇宮警察でもなく、内務省管轄警察とは仲が悪かった。憲兵隊とは、軍内部の警察と考えて良いだろう。  憲兵隊は現在の自衛隊では警務隊に相当し、軍内部の治安・規律維持がもともとの組織目的だった。だが、大正から昭和にかけて、... [続きを読む]

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