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2007年8月22日 (水)

卑弥呼の墓(003)邪馬台国への道/安本美典

承前:卑弥呼の墓(002)箸墓古墳の被葬者/和田萃

邪馬台国への道

新考 邪馬台国への道/安本美典(やすもと びてん)
 安本美典には多数の邪馬台国関係論文・図書がある。この中で、手元にあった1冊を中心にヒミコ(旧称・卑弥呼)の被葬地を探してみた。図書は『新考 邪馬台国への道--科学が解いた古代の謎』筑摩書房、1977年6月刊行のものである。

 多岐にわたり複雑な論なので結論を先に記す。同書のpp251-260を参考にした。

1.卑弥呼の墓
 読み切れなかった。北九州甘木近くの「岩屋」と云われるような墳墓、という雰囲気で記してあった。
 理由は、安本は卑弥呼=天照大御神説だから、岩屋戸に隠れた(入った)のが日食(西暦248年)=「死亡」という類推による。

2.卑弥呼の墓の位置
 おおよそ現代の「福岡県朝倉郡筑前町大塚」である。
 Google地図
 理由は、当地の地勢からみて、邪馬台国の中心地と想定する馬田近辺の「大塚」が、魏志倭人伝の「卑弥呼以死、大作冢、径百余歩」に相当するとのことだった。

3.邪馬台国の位置

 おおよそ現代の「福岡県朝倉市馬田(まだ)」
 理由は、甘木や馬田の地勢からみて橿原畝傍相当の位置だから。

*.平塚川添遺跡への注目
 「邪馬台国機内説」を撃破する

「邪馬台国機内説」を撃破する/安本美典(やすもと・びてん)
『「邪馬台国畿内説」を撃破する』宝島社新書、2001年1月、によれば現代の「福岡県朝倉市平塚」で1992年に発掘された平塚川添遺跡が、吉野ヶ里遺跡を凌駕するものであり、邪馬台国を示唆している。

 以上のことから、1977年および2001年段階での安本美典による、卑弥呼の被葬地、特定古墳の指定はなかった。現在(2007年)の安本による論考は未調査。

注記
 安本が『邪馬台国への道』を著した頃には、論に甘木市が頻出したが、市町村合併の変化によるものなのか、現代の地図では、いずれも朝倉市に変わっていた。

感想
 上述の論点基本にあるのは、北九州の朝倉・甘木付近の地名と、奈良県桜井・橿原付近の地名や位置関係が驚くほど相似形を示していることにある。この相似性には感嘆し、納得した。安本はそこから、北九州にあった邪馬台国が、奈良県へ移動し大和を作ったという論を展開をする。そういう考えもありうると、思った。(参考サイトに相似形の地図がある)
 また、卑弥呼を天照大御神に比定したのは、王位年代を十年と推計し、そこから計ると神武天皇の五代前に相当するのがアマテラスであり、この年代が3世紀中頃に一致するという推論による。そういう考えもありうると、思った。
 ただ、安本が現代の纒向遺跡をどう考えているのか、それが解らなかった。というよりも、手元にないので未調査。安本がホケノ山古墳を邪馬台国関係古墳とみることに、大いに反発した事実は、第2に上げた新書によって明かである。
 その論評を、今はできない。

参考サイト
 「わが地こそ邪馬台国なり」(甘木朝倉・観光案内オフィシャルページ) 

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邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

甘木 朝倉の宮

 美典さんの説は卑弥呼=アマテラス、高天原=九州、素戔嗚命=狗奴国という図式ですよね。

何回も西から関西方面に人々が移動したのでしょうね、神武東征神話は事実だと思います。一回ではなくて、何回もおこなわれたのでしょうね。

 問題は三世紀の魏志倭人伝の日本列島をどう捉えるかですね。古墳時代、あの前方後円墳が始まった時期が美典さんの頃は4世紀から5世紀と考えられていた時代ですよね。

 3世紀に既に前方後円墳が開始されていた事実が確かであれば、関西に既に強大な連邦国家が出来ていた事になります。

甘木、朝倉の宮は大和朝廷にとりゆかりが深いと思います。筑紫の乱、斉明天皇の朝鮮遠征拠点であり何らかの過去の伝承があったのでしょうね。

投稿: jo | 2007年8月24日 (金) 08時34分

Joさんおはよう。
 安本さんの神武東征とかいう新書は20代の半ばに何度も読んで、凝りに懲りました(笑)。

 数理的な文献処理についても、ものすご安本さんの図書で独学しました。数理科学とかいう専門に近い雑誌に連載されていたのを、複写して読んだ記憶があります。

 安本先生には、ファンレター一通送ったわけでもなく、お会いしたこともないのですが、20~30代、あの方のなさったことを模倣してトレースしていました。

 という個人的因縁話があります。

 古代史などは、時代の制約も強いので、安本先生の時代は、前方後円墳が4~5世紀という通説だったので、今現在、どうお考えになっているのかは解りません。

 さて。JOさんの新説はどうなっていくのか、遠望しておきます。

投稿: Mu | 2007年8月24日 (金) 08時48分

『魏志倭人伝(通称)』に記載は、
【矛圏】卑弥呼(物部氏)の「邪馬壹国・筑紫平野」側。
不彌国(吉野ヶ里)の、ガラス管と剣が副葬されていた「1002号墳」が、
径百歩の卑弥呼(難升米)の墓。

投馬国(とぅまや← 「やまと(邪馬臺)」の倒語)・【有明海を水行二十日南下の、
トカラ列島の宝島】が、西暦248年に成立した、
【鏡圏】臺与(蘇我氏)の「邪馬臺国(の宮)」側。

投稿: 銀河 秋彩 | 2011年2月 4日 (金) 19時40分

① 安本氏の天照=卑弥呼説には年代的にも同調できますが、私見では天の岩戸伝説は卑弥呼の死ではなく、女王共立の時期と考えた方がよいと思います。卑弥呼の死亡年齢を80~90歳とすれば生誕はAC160年代、40歳位で女王になったと考えます。素戔嗚尊の追放は倭国大乱の終息とみるべきでしょう。卑弥呼はそれ以前から邪馬壱国を統治していたのです。倭人伝の記すところは、卑弥呼は「倭の女王」であり、邪馬壱国は「女王之所都」です。
つまり、卑弥呼は邪馬壱国に居て、伊都国の一大卒の男弟が倭ー特に邪馬壱国以北の統治を佐けていたのです。
男弟は難升米である可能性は極めて高いと思います。月読命をこれに擬することも否定できないでしょう。

② 安本氏の邪馬台国=甘木・朝倉説には同調できません。伊都国=糸島、奴国=博多湾岸を前提にしているからです。末蘆国=唐津なら、伊都国は唐津の東南陸行五百里でなければならず、奴国もまた伊都国の東南百里でなければなりません。しかし、筑前前原は唐津の東北東3百里、博多は前原の東北東3百里なのです。
又、末蘆・伊都・奴・不弥・投馬の5か国は邪馬壱国の北になければなりません。
更に、倭人伝の「郡より女王国に至る萬二千余里」からすれば、末蘆国=唐津からは二千里余。甘木・朝倉は高々
千三百里ばかりにすぎません。倭人伝の記述を正確にたどれば、唐津の東南五百里は佐賀、その東南百里は大川になります、投馬国はその南、その南に邪馬壱国があるはずです。

③ 邪馬壱国は果たして「ヤマタイ国」=ヤマトなのでしょうか? 倭人伝は壹≒壱と臺≒台とは明確に区別しています。終章の壱与朝貢は「台に詣で」となっています。また、邪はヤと読むべきでしょうか? 漢和辞典はヤは
疑問の時に限るとしていますし、伊邪那岐がイザナギならザですし、漢音はシェです。

④水行十日陸行一月の出発点はどこか? 郡から末蘆国までの水行1万里は水行日数で計ったに違いありません。
狗邪韓国から対海国、対海国から一大国、一大国から末蘆国がすべて千余里となっているのも一日で到達する距離だからです。つまり、郡から末蘆国までが水行十日、末蘆国から陸行一月と読むべきでしょう。倭人伝の言う「草木茂盛行不見前人」という道、一日百里・実働20日なら丁度二千里です。

とまれ、倭人伝の記述に即して素直に読み直すことが必要ではないでしょうか?

投稿: 天網島 | 2011年10月23日 (日) 01時33分

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