卑弥呼の墓(002)箸墓古墳の被葬者/和田萃(わだあつむ)
承前:卑弥呼の墓(001) 『邪馬台国への道』
箸墓古墳の被葬者
産経新聞「大和時空散歩 14(2007/05/09)」
1.和田萃の考え
和田は、モモソヒメでもなく、また邪馬台国女王卑弥呼の墓でもないと続ける。結論は、卑弥呼の若い親族女性トヨと推定する。その根拠は、箸墓周辺(前方部北端)から多量の土器類が出土し、それが「布留0式(ふる・ゼロしき)」のものなので、寺沢薫の判定「280~300年頃」を援用し、箸墓が卑弥呼の死亡時期(240~248年)とは開きが有りすぎると、まとめている。
2.Mu自身のための課題
和田は箸墓周辺から出土した土器の年代によって箸墓の年代を判断した(あくまで、この記事では)。
平成6年12月~7年3月の発掘調査(橿原考古学研究所による、箸墓北の大池)の結果を「古墳築造に従事した人たちが日常的に使用していた土器類」と述べているが、これはMuも正確に見る必要がある。つまり、箸墓築造時に使われて埋められた土器かどうかの判断をするには、もう少し詳細な記録を見ないとMuには解らない。つまりこれは、発掘を担当した寺沢薫の考えを詳細に見る必要がある。
3.年代判定のわかりにくさ
この考え方はMuがいつも思い浮かべることだ。
つまり、Muが古い土器を一杯集めて(博物館なんかの裏庭に放置されたような~)、ある夜、箸墓の近所に夜陰に紛れて埋めて(笑)、それを五千年後の考古学者が発掘したとき、どう考えるかの問題だ。もとより、専門家集団の調査と結論だから、そんなバカなことはあり得ないだろうが、得心する必要はある。
なぜ「箸墓築造時に従事した者達の日常的使用土器」と判定されたのかを、知っておきたい。
(築造後、数十年たって土が壊れて修理したのかもしれない、数パーセントの確率)
*.まとめ・結論
和田萃によれば、当該記事の範囲で、
卑弥呼の墓→ 箸墓を卑弥呼の墓とする見解を否定している。つまり、明示せず。
その理由→ 当記事の全体文脈からみて、纒向遺跡にある箸墓は邪馬台国に深い関連があるとの主調だが、箸墓が西暦280~300年頃築造されたとみなし、卑弥呼の推定没年240~248からみて、箸墓の被葬者は後代の人物、つまり卑弥呼宗女(親戚の娘か)台与(とよ)の可能性が高いことを示した。
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コメント
箸墓に関連して、「年代判定のわかりにくさ」を問題にしていられるMuさんに、私の発見について、感想を聞かせていただければと思い、書き込ませていただきます。
箸墓後円部中心と根本中堂鬼門の経度は、どちらも東経135度50分28秒(端数切捨て)になっています。
この事実を知ったとき、根本中堂を建立した最澄は、箸墓の位置を意識していたのだろうかと疑ってみる人はいるかもしれませんが、その逆を考える人はいません。
無論ほとんどの人は、二点が離れすぎているので、そのようなことは一切考えず、単なる偶然に過ぎないと割り切ってしまうことでしょう。
ところが、5世紀の倭の5王の誰かを葬った墓といわれる仁徳天皇陵の中心軸(方位角30度)をどんどん延長して根本中堂に行き当たると、おやと思うはずです。
それだけではありません、国土地理院の「電子国土」で座標を求めて計算すると、下記のような位置関係が判明したのです。
もしも、このような事柄が、偶然のいたずらによるものでなければ、著名ないくつかの巨大古墳の成立時期は、10世紀後半以降となります。
考古学者が年代を推定する根拠について何も知らない私は、自分の確率計算の方を重視しするのですが、Muさんは、いかがでしょうか。
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「根本中堂鬼門→箸墓後円部中心」 方位角180度1分
「紀貫之墓→崇神天皇陵後円部中心」 方位角180度2分
「紀貫之墓→景行天皇陵後円部中心」 方位角180度3分
「根本中堂鬼門→仁徳天皇陵後円部中心」 方位角210度3分
(参考)「履中天皇陵後円部中心→根本中堂鬼門」 方位角30度2分
(参考)「吉田山→成務天皇陵後円部中心」 方位角179度59分
(参考)「吉田山→称徳天皇陵後円部中心」 方位角179度55分
(参考)「紀貫之墓→継体天皇陵後円部中心」 方位角225度45分
(参考)「根本中堂鬼門→紀貫之墓」 方位角134度48分
(参考)「根本中堂鬼門→吉田山」 方位角225度34分
(参考)「根本中堂鬼門→崇道天皇陵」 方位角179度58分
投稿: angouyamanoue | 2007年10月12日 (金) 17時11分
angouyamanoue さん
コメントありがとうございます。
昨日、御記事を確認し、一晩考えてみました。それよりも、御記事が非常に美しく整理されていることに、感服いたしました。
さて。
レイラインというか聖なる線とか、太陽の線とかいう、地図上の方角問題をあつかったテーマはかねてより、興味を持っていました。Muも河内と柳本近辺の古墳の、「線」を確認したことがあります。
しかし。
たとえば、100キロ離れた著名事跡に線を引いたなら、その間に、約50m四方程度の事跡旧跡なら、必ず数件から数十件点在すると思います。
その一つ一つの位置に意味付けをするのは、よほど傍証がないと難しいと思っています。
傍証がないかぎり、偶然と考えるのがMuの最近の方法論です。
ですから、ご研究の深さを十分認識した上で、なお、根本中堂と箸墓の方位の意味は、傍証がないかぎり、「そうかもしれない」という推測が立つだけだと思います。
その推測から秘められた意味を探し出すのが学問だと思うのですが、その意味は、常に他の観点からの固めがないかぎり、不定だと考えます。
おそらく、当時の人の書き付けとか、やや後生であっても、角度や線引きについて「意図的におこなった」という記録があれば、さらに考究が深まると思量いたします。
以上です
投稿: Mu | 2007年10月13日 (土) 18時14分
ご返事ありがとうございました。大いに参考にさせていただきます。
ところで、Muさんが宇治市の木幡に住んでおられるので、何かの因縁ということで、もう一度、「宇治上神社の盛砂」(ぐぐって下さい)にお付き合いいただけないでしょうか。m(_ _)m
投稿: angouyamanoue | 2007年10月14日 (日) 00時27分
宇治ですねぇ~
さて、再度、興味はあります。
もし、このような暗号を用いて長編伝奇小説が書かれたなら、Muは真っ先に購入し、MuBlogに感想を記します。
ただ、自分自身への自戒として(というのは、過去何度もこういう説を自分でも組み立てて、そして挫折)貴兄の研究方向に、感想を記します。
つまり。
基本的に、自然や人為の意図とは何なのか、です。意図なるものがあるのかどうか。
学者や好奇心の強い人は、自然や人為のパターンをみて、さまざまな解釈を施します。しかし、解釈の妥当性は、他からの傍証なくしては、多様な解釈の一つに過ぎません。不定であって、確定ではないわけです。
で、貴兄のサイトから感じたのは、まだ解釈をほどこしておられないという感想でした。
桓武天皇陵―菟道稚郎子皇子墓 ― 王仁塚
この間に、どうだから、どうだという解釈を見せていただくと、人文系のMuにも、もうすこし分かりやすく思えるのです。
たとえば、普通の考えでは、桓武さんの陵は確か京都市内から桃山に移されたようです。宇治天皇の墓は古代のものでしょうが、古墳の中心をどこに置くかで誤差も生じます。王仁塚は幾分後世の人が伝承で作ったようです。
これらの位置に、方位距離的な「意図」をパターンとして読み取ることは可能であっても、それが暗号だというだけでは、Muには理解できないわけです。
地磁気の相とか、中華的風水説とか、いろいろ考えられもしますが、よく分かりません。一般に時代が異なる対象を、位置パターンから意味付けするのは、余程の「理論」がないと、屁理屈に堕します。
Muは、物語なんかではそう言うパターンを使いたくなるし、今後もそういう図書を読みたく思いますが、学説としては、まだまだ無理があると自戒しています。
ピラミッドや、酒船石や、益田岩船や、いろいろ好奇心は充分ありますが、どれもこれも「わからないなぁ」と、日々思っております(笑)。
なにか、分かりやすい、暗号の解を、平文に解き明かされたときは、ぜひご一報下さい。楽しみにしております。
投稿: Mu | 2007年10月14日 (日) 09時29分
再度、ご感想をお聞かせ頂き、ありがとうございます。
私は、この後、「完全に空振りだった重大発表=甘すぎた期待」と題する文章を書かねばならないと思っています。
これは、前回ご覧頂いた事柄を公表(「歴史を偽装」でぐぐって下さい)すれば、話題になるだろうと思っていたのが、誰からも問題にされなかったからです。
ただし、Muさんは、完全無視ではなく、私の指摘が認められない理由を書いて下さいました。これは、大いに参考になりました。
そこで、目次の「歴史を偽装するために造られた巨大古墳」に、「考古学者のご批判期待しています」と付記していたのを、早速、「納得できない理由をお教え下さい」と改めました。
また、データの表を載せていたのを、位置関係が一目で分かる図に置き換えました。
すると、今回また、三角定規の斜辺で表される宇治上神社がらみの図に関連して、納得できない理由をいくつも挙げて下さったので、若干お答えさせていただきます。
>自然や人為の意図とは何なのか、意図なるものがあるのかどうか。
自然を利用している例では、暗号を匂わすように、「かきつばた」を読み込んだ折句がある伊勢物語9段の、「富士山は比叡山の20倍」(ぐぐって下さい)という表現です。
これは、両山を相似な三角形で表した場合の面積の比較とすれば、相対誤差が200分の1という高精度の表現になります。
しかし、その数値は海抜によるものです。伊勢物語の書かれた時代に、富士山や比叡山の高さが海抜で測られていただろうかという疑問が、現在につながっているのです。
したがって、私は、暗号と呼ぶに相応しい人為が、古典の中に潜んでいると感じていますが、自然そのものに、暗号に加担する意図があると考えたことはありません。
暗号が存在する理由は、初代神武天皇即位の年をBC660年とし、倭王の存在を表面上は抹殺している日本書紀の真意(ぐぐって下さい「日本書紀の年代復元」)を伝えるためです。
>「桓武天皇陵―菟道稚郎子皇子墓 ― 王仁塚」この間に、どうだから、どうだという解釈をほどこしておられない。
確かに、その通りです。ただし、当方のHPのサイズは、現在36.8MBになっていますが、ご覧頂いた70916.htmは、その2628分の1の14.0KBです。
そこだけご覧になって、私の暗号の受け止め方を判断されるのは、ちょっと悲しいです。
70916.htmの場合は、データの終わりに、参照 「天智天皇陵の位置に秘められた謎」と注記し、そこからは、<「奇跡のどんでん返し」とその後>、<大神神社境内の標記について>、に進めるようにしています。
もしそれらをご覧頂いていれば、今回のご返事の内容は、少し変わっていたはずです。
>分かりやすい、暗号の解を、平文に解き明かされたときは、ぜひご一報下さい。
次の「いろは歌」には、暗号として「山上憶良」の名が組み込まれています。
見よ小鳥らも 風邪を引く みよことりらも かせをひく
夕寒き尾根 春何辺 ゆふさむきおね はるゐつへ
目当て色 歌字母 知恵の めあていろ うたしほ ちゑの
絵図に謎 間抜け我哉 えすになそ まぬけわれや
これだけは、自信を持って断言できます。なぜなら、これは、和田光平氏が、<「いろは歌」の暗号 >と題して紹介して下さっている本のために、私が作ったものだからです。
当方のHPには、その本の全文を掲載していますが、「文芸春秋は、儲かると思ってこんな本を出版したのだろか」と、友人がいうので、お奨めではありません。
長くなりましたが、ご海容のほどを。
投稿: angouyamanoue | 2007年10月15日 (月) 07時54分