NHK風林火山(30)海と鉄砲
承前:NHK風林火山(29)武田晴信の「人は城」
越後の長尾景虎、甲斐の武田晴信、駿河の今川義元にそれぞれの軍師が見えた。宇佐見、山本、雪斎。このうちガクトと宇佐見軍師はまだ仇同士だから未完成。宇佐見はやがて後の上杉謙信を補佐する。軍師間の陣取り合戦になっていくのだろうか。
今夜は、はじめからガクトが登場した。ガクトの長髪やメークや着物や、女性嫌いらしい風情が妖しい、というのはもう当たり前だから言及はさけよう。「義」をとなえ、毘沙門天に胡麻を焼くすがたが瞼にこびりつきだした。関東管領上杉憲正(のりまさ)が、景虎は信用のおける人物と部下に言われて「今時、正義を唱えるものがどこにいようか」という様なセリフをはいた。もしも「義」に従った伝説の通りならば、長尾景虎は当時にしてもそうとうに変人あつかい、底の見えない武将に見られていたのかも知れない。
ガクトがそばで「欲」を唾棄するので、義元の西への欲望や、晴信の海への欲望が対照的にくっきり浮かんできた。勘助は晴信に、越後の海と、駿河の海とを刺し貫けば天下最強の国になりまする、と進言する。敵に塩を贈る故事にもあるように、甲斐は山があっても山梨県だから、海への気持は深いものだったのだろう。そういえば山に囲まれた信州や諏訪あたりには、「海」の付く地名が多い。山梨県の煮貝というアワビの醤油で煮詰めたような味わいが懐かしい。保存食に長けていたのだろうか。
勘助と晴信の一致した意見は、まず「海」。
海に気付かされたのは、勘助が和歌山県根来寺まで鉄砲買い付けに出掛けた先での話。「鉄砲を百丁も運ぶには船がいる。港の用意はできるのか?」と問われて勘助は「なんとか」と、内心、駿河か相模を想定していたのだろう。
鉄砲と海とがあれば武田晴信は上京できる。将来仏門にはいり「信玄」と改名するくらいだから、都で「仏法」「王法」にもとずいたマツリゴトをしてみたいと、勘助に言う。すでに、聖徳太子伝説が普及していたのだろうか。
長尾景虎も武田晴信も今川義元も、仏教に帰依した武将だった。勘助は寺に入るのを拒否して諸国を放浪した。このころは、ややこしくなると仏門に入る。そして、外から見ると簡単に還俗している。仏門は出入り自由な世界だったのだろうか。もしかしたら、還俗するときは莫大な慰謝料みたいな布施がふりこまれたのかもしれない、と想像。
海と鉄砲にもどる。
海は塩であり、出入口、そして交易の要地だった。だから、今夜の勘助の進言は実に分かりやすかった。越後と駿河。たしかにこの二つを押さえれば、都への道、北陸道と東海道とを押さえることにもなる。すごい戦略と言えよう。そこに「鉄砲」というハイテクが備わる。
勘助と晴信とが、天下を視野に入れるのも無理はなかった。
その後の歴史は言うまい語るまい。
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コメント
今回はドラマのテーマとか、景虎の人物像を分かりやすく説明してくれたと思います。時々こういう回がないと分かりにくくなってしまうと思うので、親切ですね。
Gacktと内野さんと市川さんの人物像とドラマの人物が、どこかで重なる感じもしています。
勘助の天下を目指すプランは突飛だと思いましたが、それぞれの国がそれぞれのやり方で天下への道を模索していた時代だったのでしょう。信長の統一は、時代を俯瞰できたというより、「時の運」も大きかったような気がしています。
投稿: なったん3211 | 2007年7月30日 (月) 10時52分
なったん3211さん
御記事の、ガクトのアイメークについては爆笑。デーモン小暮とか、宝塚とか、なかなか、そういうもんなんですね。
しかしなお、前代未聞というか、こういう謙信をみたのは命・冥利につきまする。長生きはするもんですねぇ。
こんごガクトがますます健勝というか、途中降板しないことを祈念。それにしても、勘助さん、きっと会ったら口をあんぐりあけるかな(そういうひょうきんさがあると、おもしろい)
海を目指すのは、北海の熊さんも、近代以来なにがなんでも千島樺太までおりてこないと、おちつかない様子と似ておりますね。
山国の閉塞を打ち破るのは海への道。そういう自然なものとMuは味わいました。
信長の時の運については。
たしかに。しかし、柵で騎馬を遮り、何段にも編成した数千丁の鉄砲を使った信長は、当時としては狂気に近い武将だったのでしょう。信長は謙信や信玄を恐れましたが、尾張から京、甲斐から京、越後から京、この距離を考えると信長に地の利がありましたね。
京から名古屋は居眠りもできません。
京から甲府は、途中静岡あたりで下車して、とろとろと在来線。
京から越後は、夜汽車でお尻がいたくなるほどかかります。
兵站からみて、この戦国末期戦、やはり信長に利があったようですね。
投稿: Mu→なったん3211 | 2007年7月30日 (月) 18時02分