小説木幡記:20070609(土)観世榮夫の死
観世榮夫(かんぜ・ひでお)さんが昨日8日、亡くなられた。大腸癌、79歳。
5月2日には、東京で運転中に、中央分離帯に衝突し、同乗のマネージャーが死亡という、痛ましい事故があった。
観世さんの居眠り運転だったろうと、記事にはあった。
ドライバーの責任は重いものだから、そういう事故は観世さんを苦しめたことと想像する。
余は、観世さんに、面識はない。
どのような方だったかも、まったく存じていない。
まったくの他人の死亡に心が騒いだ。
観世榮夫さんは能楽・観世宗家の次男坊だったから、余の精神世界の中では気になる人だった。
今朝、いくつかインターネット記事を読んで思ったのだが、さすがに世阿弥の子孫という表現はなかった。正確に観阿弥の子孫としるしてあった。もちろん、名家名流のことは途中で養子縁組などあるかも知れないので、よくわからない。ともかく、現在の観世家では際立って一般世間に知られた人だったと想像する。
余は二十代のころに観世さんの映画やTVにそれぞれほんの少し接して衝撃をうけた。指折り数えてみると、観世さんが40代前後のころのことだ。「ほんの少し」で衝撃を受けるというのは分かりにくいかも知れないが、それはピーター・オツールのアラビアのロレンスを茶の間で毎月、毎年みることは難しい、と同じような物で、一度観れば一生保つということなのだ。
当時、観世という姓にびっくりしたのは事実だ。すぐに、本当の観世宗家の縁者で、観世能を辞めた、という程度のことを耳にして、「家出の放蕩息子」かと思った(笑)。 今朝、記事をみていると、観世榮夫さんは50歳前後に観世能の世界に戻ったらしい。
今朝。瀬戸内さんが描いた世阿弥の晩年『秘花』と観世榮夫さんの晩年が、どこまで重なり、どこまで別の世界なのか、ぼんやり考えていた。重なるところもないようで、ある。そんな気がした。
世阿弥と、彼の息子の、後を継いだ元雅(もとまさ)か、出家した元能(もとよし)かと迷ったが、三者が重なった。観世榮夫さんは、演出家であることに気持を込めていたから、世阿弥の申楽談儀(さるがくだんぎ)を口述筆記した元能の雰囲気も強かった。ご本人を存じないのだから、無益な想像だが。
インターネットには沢山の記事があったが、余が読んで分かりやすい物を三点記録しておく。
能楽には門外漢だし、そして記事関係者の方とも無縁なので、トラックバックは止めて引用だけにしておく。三点とも、読んで小さな感動を覚えたのは事実だ。
(1) 大和には原点がある。エネルギーがある。(奈良県の川西町結崎(ゆいざき)での、観世榮夫のインタビュー記事)
能は「舞う」であり「踊る」ではないことの意味や、能ではシテ(主役)が演出も兼ねている話、大和が能の源流であること、伝統と継承の変成のことなど、大切なことが実に平易に記されている。
(2) 師 観世榮夫 ──『邯鄲』に託して。「国立能楽堂」(№277) 2006年9月
「四半世紀前の『邯鄲』の面影を追いながら、舞台にあることの自由について、観世榮夫という希有な先達の跡を追う「弟子」のひとりでありたいと、ひたすらに思いつづけている。」
この著者が実は最初分からなかった。サイトを探したら、多分「鴎座」の佐藤信という方らしい。能とは異なる役者からみた能楽師・観世榮夫の姿が印象に残った。
(3) 鴨東記:観世榮夫死去2007年6月 8日 (金)
「演出家としての観世は癇癪持ちでしょっちゅう怒っていた。ただ私が演技を教わっていた時には、観世はすでに70代で発音は明瞭さを失っており、怒っているのはわかるが、何を言っているのかよくわからないこともあった。」
本保弘人と言う方の日記である。京都の現代演劇関係者のようだ。
観世さんの言語不明瞭という所で目がとまった。そう。余が若い頃に映画かTVで衝撃を受けたことの一つが、当時も観世さんのセリフがそうだったからだ。そういう不思議な世界は、やはり、観世さんだから余にショックを与えたのだと、今、分かった。
追伸
観世榮夫さん。冥福を祈ります。
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