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2007年5月19日 (土)

秘花/瀬戸内寂聴 著 <感想:世阿弥の佐渡島>

秘花/瀬戸内寂聴

秘花/瀬戸内寂聴 (カバー写真)
 それで、さっき読み終わった。何も考えず、一息だった。世阿弥が最後に残そうとした能の台本名を知ったとき、私は破顔し天井を眺め、さらに末期の言葉を聞いたとき、複雑に深くうなずいた。巻措いて、大きめの活字で246頁、そして横尾忠則の装幀・題字、心の贅を尽くした図書だと微笑した。「文学」とはこうでなくては、と独り言を言ってしまった。身内からわき上がる快感だった。

 瀬戸内は小説『秘花』で、世阿弥(観世元清)の生涯、そしてその晩年、佐渡での日々を物語った。
 七十二歳で表だった理由もなく、時の将軍足利義教(よしのり)のたった一枚の仕置書で、京都から一千里以上も離れた佐渡島へ流され、そして八十歳あまりまで穏やかな余生を送った男を、これ以上ないほどに、鮮明に描いた。

 瀬戸内の文体は像をくっきりと表し、瞬時にそれを反転させ、ネガを見せた。

たしかに漆(うるし)のような闇の中に螺鈿(らでん)を鏤(ちりば)めたような満開の桜を見上げた杳(とお)い記憶があるような気がしてきた。

 世阿弥の、時期、それぞれの時分の様子が、瞼に浮かんだ。
 大樹と呼ばれた義満将軍に十二歳で見そめられ、世の嫉妬と蔑視に耐えた日々。摂政関白、知性と雅びを兼ね備えた准后(じゅごう)・二条良基の教育を受け、一世を風靡した日々。義満の宴でかいま見た白拍子、椿。彼女との長く深い契り。二十二歳で父観阿弥を失い、一座を背負った苦難の始まり。甥の音阿弥・観世元重(もとしげ)に次々と座の基盤を奪い取られていく鬱屈。頼みとした実子元雅(もとまさ)の死。将軍義教からの突然の遠島申しわたし。

 世阿弥は島流しにあった佐渡で、晩年穏やかだったのだろうか。
 島でずっとそばに居たのは、40歳年下の沙江(さえ)という女性だった。第四章は沙江の目で見た世阿弥の日常が描かれていた。すでに世阿弥の耳も目も塞がれていた。

もしかしたら、この人こそ鬼ではないのか。
 そんな想いにとらわれていると、いつものとちがう声がかけられた。よく話される「花」のある声であった。花とは一口にいえば何なのでしょうと訊いた時に、
「色気だ。惚れさせる魅力だ」
 とお答えになった。「幽玄」とは、とつづけて問うと、
「洗練された心と、品のある色気」
 と答えられた。
 花と幽玄をたたえた声音で誘われて、断れる女がいるであろうか。わたくしは言われた通り、着ていたものをすべて脱ぎ捨て、素肌に柔かないい香のたきしめられた若草色の絹の着物をまとい、その人のそばにすり寄っていた。

 読み終わった後、作品をうしろからまえにたぐり寄せたくなるような、そんな想いにさせたのが『秘花』だった。なぜ秘花なのか。答はつまり、秘すれば花なのだ。肝要なのは、秘すれば花という詞章がそのまま放たれているのではなく、秘すれば花であるということを作品全体で表しているところに、この図書の名が生きてくる。なぜ、そうなったのか。だから私は、後ろから前に物語を巻き戻そうとした。

 幽玄も、花も、秘すれば花も、時分の花も、そして夢幻能も。
 瀬戸内は、それらの字句を解説するのではなく、世阿弥の所作や、日常や、彼の歴史の中で解き明かしてくれている。
 序章で、作者自身とおぼしき言葉で、鵺(ぬえ)という怪物に犯され尽くさぬ安堵と不満を語りながらも、「鵺」を作能した能聖・世阿弥の闇に迫りたいと吐息もらし、三年かけたと言う、そこから四章巻末まで、淡々と、世阿弥の肉も心も闇も卑賤も、ひたすらに淡々と描き尽くした。これほど艶ある文体、十二歳の夜、大樹との交わり、豊乳の高橋殿に沈み込む忘我、若き藤若を限りなく艶々しくなめるように筆を進めながらも、それでもなお淡々と、世阿弥の最期の佐渡を描ききった。
 読み終えた時、花も幽玄も、世阿弥に重なった。

 なぜ、瀬戸内は三年かけたのか。私の想像が残った。
 世阿弥を描く者には、困難な点が二つあった。
 一つは。私の知る限り、世阿弥の晩年は誰にも分からないはずだ。京都に帰ったという説もある。
 一つは。花も幽玄も、書きやすく分かり易いことではない。

 最初の問題は、この世界で何か書状や伝書が新たに発見されたのか、どうか。それは知らないし、読者の私が知る必要はない。ただ。瀬戸内が佐渡の歴史を深く調べた痕跡は、作品のそこここにある。だから時間がかかったのだろう。

 次の問題は、文藝の深いところに関わることだ。
 『秘花』は、まったくもって能の解説書ではない。そして世阿弥の描いた芸は稽古にあるのだろう。稽古に熱中している者に能の解説書は役に立たない。
 世阿弥はしきりに、彼がそれまで深くは描けなかった「子に先立たれた逆縁」の苦をもらしている。また、本当は分かっていなかった配所の月を仰ぎ見る。配所に流された者の苦や不安を漏らしている。しかしこれをして、経験なくばなにごとも分からぬと、言っているのではない。逆縁も、配所の月も、衆生にもわかる瀬戸内の吐息と味わった。
 本当に描ききらねばならぬのは、世阿弥の花や幽玄だったのだ。

 逆縁の苦も、配所に流された者の悲哀も、他に類例はあまたある。だから、それは作者として、吐息のように描けばそれで伝わる。しかし、花も幽玄も、前人未踏の言葉なのだ。世阿弥の舞に詞章に、彼の全生涯によって表されたものが「秘すれば花」であり「幽玄」なのだろう。しかしそれを描かなければ、作品として成り立たない。
 説明して、知識小説として終わるものを瀬戸内寂聴が、書くはずはない。

 瀬戸内寂聴は、世阿弥とともに三年過ごすことで、はじめて「秘花」を描き尽くすことができた。
 簡明に、あっけなく言い切るならば、作者瀬戸内は、観世元清という男に恋して惚れぬいて、身体を震わせ寄り添って、『秘花』を上梓したにちがいない。三年間の月日は、その逢瀬、閨の長さであったとも言えよう。
 世阿弥。
 それほどの男だったと私は得心した。それが、この『秘花』についての結論である。

参考
  小説木幡記:20070505(土)秘花/瀬戸内寂聴と、世阿弥 [MuBlog]

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