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2007年5月 6日 (日)

金印偽造事件:「漢委奴國王」のまぼろし/三浦佑之

金印偽造事件:「漢委奴國王」のまぼろし/三浦佑之 (カバー)
 図書内容について、まず図書自身に語らせる。カバーの裏に次のような惹句があった。

帯情報
「一七八四年、志賀島(現在、福岡県)の農民・甚兵衛(じんべえ)が田んぼの脇の水路から発見したとされ、日本史の教科書にも掲載されているあまりに有名な「金印」。これは、建武中元二年(五七年)に後漢の光武帝が同地にあった小国家の君主に与えた「漢委奴國王印」と同定されたが、じつは江戸時代の半ばに偽造された真っ赤な偽物だった。では、誰が、何の目的で造ったのか? 鑑定人・亀井南冥(かめい・なんめい)を中心に、本居宣長(もとおり・のりなが)、上田秋成(うえだ・あきなり)など多くの歴史上の文化人の動向を検証し、スリリングに謎を解き明かす。」

 印象では、この惹句(私は「帯情報」の一種とした)に誤りはないのだが、本居宣長や上田秋成という当時の著名な国学者、作家が中心を占めているわけではない。甚兵衛なる農民の実在が疑われ、そして亀井南冥こそが中心人物となっている。

 現・国宝指定の金印がニセモノとなるとその影響は計り知れない。古代史の一部が多少曖昧になる可能性もある。五世紀に作られた『後漢書』の「東夷伝」に、西暦57年、時の光武帝が(日本の)倭奴国から訪ねてきた人達への返礼として、金印とそれをぶら下げる紫の紐(金印紫綬)を与えたらしい。その金印が江戸時代に九州の志賀島で土中から出てきたのだから、史書と話が合って「確かに、倭奴国が当時あって、西暦57年に中国まで行った」という蓋然性が保証されていたのだが、ニセモノ、贋作となるとそれが壊れる。

 それと、現代ならそれほどキツイ話にはならないだろうが、国がニセモノを掴まされて国宝にしていたとなると、その関係者は当然窮地に追い込まれる(多分、当時の文化財保護審議委員の殆どは物故者だろうが)。昔、永仁の壷という贋作騒ぎがあって、国宝ではなかったが、不幸な結果をもたらしたこともある。

 だから、江戸時代にあっても、福岡藩が一旦受け入れた金印なのだから、関係者(亀井南冥等)の通報によって、宣長や秋成という多くのインテリが知ってしまった物が、ニセモノとなると、体面だけではなく、幕府との関係もキツイことになったろう。だから、福岡藩はずっと金印に関して無口になってしまったと、著者・三浦祐之は状況証拠の一つに数える。

 さて。図書の内容を要約したblogがすでにあった。詳細はその記事「金印偽造事件(なみうさぎ)」を参照されたい。

 私は二つ、この図書によって目から鱗が落ちた気分になったことを記録しておく。

1.紙に朱で、判子を押すのではない
 宮崎市定を引用し、漢代の印は朱を塗って紙に判子を押す現代の物と考えてはならない。粘土で封をした所に、印を押しつけて「封泥(ふうでい)」とするわけだ。(p116)
 それから見ると、この金印が後漢時代のものとは考えにくい。彫った溝にV字形が多く、これは薬研彫(やげんぼり)と言って、後代のデザインが強い。つまり、直角に彫らないと(箱彫)、粘土に写された文字の山がとんがって、うまくない。
 これは、私にもよく分かった。メソポタミアの円筒印章で粘土板にサインする事例を別の所で見たことがあった。それにメディア伝搬から三浦や宮崎の話を考えてみると、後漢の57年当時は、紙も普及していなかった。紙が大々的に普及し始めたのは、西暦100年ころからだった。まして日本に紙らしき物が伝搬されたのは後世、7世紀初頭のことだ。
 要するに、現代の判子と後漢時代の判子は別と考えた方がよい。

2.関係者全員が知り合いで、専門が決まっていた
 発見者は実は正確にはわからない。しかし、金印として認定した関係者が全員知り合いだとは驚いた。発見者(架空かもしれない)甚兵衛の相談相手「米屋才蔵」は、金印の由来を短期間に後漢書東夷伝を事例にして解き明かした「亀井南冥」のパトロンのような立場。そしてその話を藩に受け入れさせた窓口の郡代・津田も知人。つまり、トライアングルという書き方を三浦はしていた。
 さらに、関西の知人、高芙蓉は、古印に造詣が深くしばしば中国古印の模刻(篆書で模造印を彫る)をしたというし、また藤貞幹(とうていかん)は名うての贋作学者だったらしい。少なくとも、三浦の論理を読み切る限り、状況証拠はそろっている。金印贋作の役者が全部そろったことになる。
 
 以上、1と2からみても、金印を再度科学的に調査しなければならない、と私は思った。それよりも、実は。卑弥呼と呼ばれた女王の「親魏倭王」金印が出土されたら、どうなるのか、その心配が先立った。まず、トンデモ贋作とみてかからないと、酷い目にあうだろう。

附録
目次情報
金印偽造事件「漢委奴國王」のまぼろし/目次
はじめに
  七〇〇兆分の一/わき上がる疑惑/二百数十年前の出来事

第一章 金印発光す
  漢委奴國王金印發光之處/
  甚兵衛(じんべい)の「口上書」/
  金印出現の経緯/
  なぜ無傷なのか/
  役所に提出するまで/
  市中風説/
  もう一人の発見者/
  叶の崎という場所/
  志賀島というところ

第二章 金印を鑑定する
  米屋才蔵/
  郡宰・豪商と先人/
  買以効於郡庁/
  亀井南冥の鑑定/
  修猷館(しゅうゆうかん)の学者の鑑定/
  今までの状況を整理する/
  もう一つの可能性/
  志賀島へは行ったのか/
  田中弘之の解釈/
  福岡藩庫への収蔵/
  黒田家の記録

第三章 亀井南冥の活躍
  亀井南冥という人物/
  神風襲来/
  修猷館と甘棠館(かんとうかん)/
 「金印弁」の執筆/
  希代の珍宝/
  筑州興学の初年/
  一問一答/
  倭奴国と委奴国/
  鋳潰し論の台頭/
  迅速な保存活動

第四章 金印の解読 鈕と印文
  金印に対する反応/
  螭(みずち:ち)鈕について/
 「螭(ち)」はだれからの情報か/
  貞幹・秋成以後の金印論/
  本居家所蔵の印影/
  蛇鈕について/
  漢委奴國王をどう読むか/
 「国」字について/
  委奴国とは/
  なぜ志賀島にあったのか/
  漢の委の奴の国王/
  家宝から国宝へ/
  福岡のものは福岡へ

第五章 真贋論争と中国の金印
  最初の「贋作」疑惑/
  宮崎市定の発言/
  二つの金印/
  いくつもの真贋論争/
  高芙蓉/
  蛇鈕金印の発掘--滇王之印(てんおうのいん)/
  違いすぎる蛇鈕/
  継承されない意匠/
  同一工房作品の発見-―一廣陵王璽/
  鈴木勉の実験的分析/
  疑惑は消えたのか/
  金印の測定データ/
  願望が独走する/
  九十五パーセントの純度/
  二・三四七センチメートルの意味/
  コロンブスの卵

第六章 亀井南冥の失脚
  真印は証明できるか/
  発見者と発見地への疑惑/
  謎のトライアングル/
  亀井南冥の廃黜(はいちゅつ)/
  金印疑騙(ぎへん)工作と失脚/
  事実とフィクションの狭間/
  失脚の真相/
  島田藍泉への手紙
  甘棠館の廃校/
  顕彰される南冥

第七章 金印を発光させる
  疑うことから始めたい/
  鋳造--金印の作り方(1)/
  篆刻--金印の作り方(2)/
  蛇鈕と亀鈕/
  金の入手--金印の作り方(3)/
  五文字--金印情報の入手(1)/
  なぜ「委」の字を用いたのか--金印情報の入手(2)/
  蛇鈕--金印情報の入手(3)/
  贋作を作る人びと/
  古印コレクター

第八章 だれが金印を作ったのか
  従来の「贋作」疑惑の誤り/
  動機を解明しなければならない/
  だれが金印を作らせたか/
  なぜ金印を作らせたか/
  米屋才蔵の企み/
  亀井南冥の野望/
  信じ込ませる方法/
  語られる疑惑のパターン/
  蛇鈕と南冥の模写/
  なぜ表沙汰にならなかったか/
  証明しきれないもどかしさ/
  藤貞幹のいかがわしさ/
  京から福岡へという疑惑/
  解明への期待

あとがき
参考文献
亀井南冥「年譜」および金印関係年表

参考記事
  「本居宣長記念館」の「3.志賀島の金印発見 その五」に金印の「印影」写真がある。これは、本記事図書のp94~で著者三浦が言及している。ようするに、金印自体のレプリカ印影が宣長に送られてきたのか。(あるいは他に謎があるのか)

  福岡市博物館・金印

  金印偽造事件(なみうさぎ)  

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コメント

状況証拠だけやね

 やはり中国の漢代の専門家と科学的に金印に含まれている不純物を分析できないのですかね?古墳から出土する銅剣などは原材料の採掘地が特定されていますよね。

 銅剣は確か鉛を調べていると記憶しています。金の場合は製造プロセスで不純物が入る事が無いのでしょうか。けど、鉱物が中国原産と認定されても多分、中国産の金を日本で使用して贋作を作ったと言う人がいるでしょうね。

 江戸時代の金の素材の入手は簡単だったのですかね?実際に江戸時代に贋作したなら、工人は誰か、工房は何処か、等々を証明しないと駄目ですね。

投稿: jo | 2007年5月 7日 (月) 10時57分

 状況証拠ばかりと言われれば、そうですね、と言わざるをえません。むつかしいところです。現代なら贋金造りの工房に踏み込んで現行犯逮捕できるところですが。

 ただし、当時は金細工、篆書、そういう職人は福岡にも関西にもようけ、いたようです(Muは江戸時代に住んでいないからわからない)

 こうも言えましょう。ならば国宝認定した当の金印が、たしかに志賀島の特定地点の、地下何センチのところから、どういう状況で出たのか、その確証はあるのか。
 そもそも、その百姓の出土状況を示した口上書の中身を三浦さんは不審に思って、筆を進めているのです。

 江戸時代の、曖昧な私文書に近い紙切れで
、明治期に国宝に認定されたのも、状況証拠でそうしたとも言えそうです。

 三浦さんは、金印の出所が不定であると書いておりました。やはり遺物の場合、なんらかの関連遺物との組み合わせで、実証したと言えるのですから、その単品が石の間に転がっていたという記録だけでは、ちょっと、現代なら誰も信用しないでしょうね。

 メソポタミアでは、井戸の底に投げ捨てられた、ライオンに襲われた黒人少年の像が、昔見つかったようです。それは最後のアッシリア時代のものとなったようです。が、その井戸は、私は未調査ですが、きっとその時代の井戸と認定されていたのでしょうね(よい事例がすぐに分かりません)。

 つまり、状況証拠で国宝認定されたものだから、その状況証拠を切り崩した、というのが、三浦さんの図書の内容のようでした。

 あの印は、金ではあるけど、美術的価値は高く無いでしょう。蛇鈕はへちゃけているし。文字は、篆書だから、あの印だけではないし。だから、美術品として国宝になったのではないと思います(要調査)。

 国宝に認定されたのは、後漢のもので日本国の古代史に関係が深いと、江戸時代から伝承されてきたからだと思います。

 ところが、肝心の断域(出地)も断代(年代)も、当時の江戸時代の検証に頼っているわけです。
 明治期や、戦後の新制国宝認定期に、もし正確な断域、断代がなされていたなら、三浦さんの図書は出版されなかったのじゃなかろうか、と思った次第です。

 物質の成分分析には、ポータブルのX線分析装置が、非破壊で、遺跡物とか、犯罪捜査に使われ出したようですね。福岡の金印は金含有率95.1%程度で、ある程度までは分かっているようですが。

 要は、比較する物がないと、単独ではその断代や断域はできないのでしょうか(ね)。 三浦さんが危惧していたことの一つに、比較できそうな中国の金印の一つが、これまた出所が多少怪しいようです。詳細はお読みください(笑)。

可搬型蛍光X線分析装置
http://www.jst.go.jp/pr/report/report41/details.html
ポータブル蛍光X線分析計
http://www.shiei.co.jp/japanese/en_portable_x.shtml

============================
最後に、トンデモない私の真意。
 国民が、福岡県民が、あの金印を国宝として、光武帝から倭奴國王に下賜されたものと、思っていたいなら、国宝でもよいと思います。
 少なくとも、明治期国宝制定から約百年、大多数の国史を学んだ少年少女は、そう思ってきたのだから、彼等彼女らの念によって、国宝というイメージはもう形成されているのです。

 私は、ある点でリアリストたる自認がありますので、もう、その「念」だけで充分に国宝の値うちはあると思っています。いまさら、嘘だと言われても、それは知ったことじゃないのです。

 ただし。真っ赤な嘘っぱち金印だったと、もし、精密に考証され実証されたなら、金印国宝説は、次の代の特定日本人にとっては、信仰の領域に入ることでしょう。それはそれで大事なことであります。

 Joさんのコメントを読んで、吾は、斯様に考えた次第なり。

投稿: Mu→Jo | 2007年5月 7日 (月) 22時07分

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