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2007年4月14日 (土)

最古の前方後円墳(邪馬台国?)東田大塚古墳、矢塚古墳

承前:邪馬台国はどこか/NHK歴史の選択

地図:東田大塚古墳(ひがいだ・おおつか・こふん)

 2007年4月13(金)の産経新聞朝刊に、ひっそりと「最古級の前方後円墳判明:奈良の東田大塚古墳、矢塚古墳」という記事があった。他の新聞記事もネットにあがったものを今朝(14日)確認したが、ともかくめだたない小記事だった。
 結論から言うと、奈良県桜井市の、纒向遺跡(まきむく・いせき)とよばれる付近一帯の古墳がほとんどすべて最古級、3世紀中頃~後半の前方後円墳だったことが、再確認されたということだ。
 
 古墳は、長い間に荒れ果て、砦や城になり、田畑になり、人家が建ち、鉄道に分断され、原型をとどめる物は珍しいといえる。特に、纒向遺跡一帯の古墳は、箸墓のように280mもの大きさで明確に前方後円墳と分かるものは別にして、円墳部分だけが森や小丘のように残っているだけで、明確でない古墳があった。今回の東田(ひがいだ)大塚古墳や、矢塚古墳は、やっと前方後円墳として確認されたわけだ。

(1) 矢塚古墳は、後円部・直径が64mというのは以前の調査でわかり、3世紀中頃。推定全長が96mで、今回は前方部の15m分が確認された。とすると、96-64-15=17mとなり、17m分程度の前方部が地中にあるか、こわされたか、なくなったのだろうか?
 あるいは、その17m分はすでに分かっていて、最近15m分が確認できたのか? 新聞記事では分かりにくい。
(2) 東田大塚古墳は、後円部・直径が68mで、3世紀後半。今回は前方部40mが確認できたので、推定全長が108mとなる。
(3) 参考:箸墓は、後円部・直径が115mで、前方部が125m、合計全長280mの大規模前方後円墳で、3世紀後半。

纒向遺跡関連古墳地図

纒向遺跡関連古墳地図
 私が好む記事は大抵遺跡とか寺社仏閣とか、場所に関係する物が多く、地図がないと最初はわからない。これまで箸墓はじっくり何度も眺めたが他の纒向古墳群は未見ないし通りすがりが多いので、今回は地図に並べてみた。
 JR奈良線の奈良から、天理をすぎてしばらくで巻向(まきむく)駅があって、下車して南へ行けば箸墓、西へ歩けば県道50号線をまたいで、矢塚古墳や東田大塚古墳にいける。
 そう、北九州ネイティブの方には無念だろうが(失笑)、このあたり一帯が邪馬台国、大和の祖地、「日本最初の都市・纒向」(寺沢、p255)なのである。

↓図版・邪馬台国と卑弥呼の宮都/苅谷俊介

邪馬台国と卑弥呼の宮都/苅谷俊介
 苅谷さんの図書は以前MuBlogで案内した(MuBlog:まほろばの歌がきこえる/苅谷俊介)。素晴らしい研究図書だと今でも思っている。箸墓が当初円墳だったと論証して、卑弥呼の墓だと論じられている。魏志倭人伝に、径百余歩というような記事があるから円墳の方が理解しやすいし、また短期間に280m級の前方後円墳を築造するのが無理だから、円墳+方墳→前方後円墳の箸墓と、書かれていた。
 私は、円墳でなくてもよかったと思っている。古代の中国の人の大げさなおおざっぱな言い方は、黒くても白くても猫なんだから(笑)、結局四角でも円と書かれたかも知れない。(いや、円墳でもよいのだが)
 もともと、箸墓は三世紀後半と言われ出したのだから、時間かけて、なおかつ超特急で前方後円墳を造ったと思えば納得できる。
 すでにホケノ山、勝山、矢塚古墳などで邪馬台国には前方後円墳築造のノウハウが蓄積されていたのだろう。エジプト王墓の様に生前から大部分造られていたかも知れないし、日本書紀にあれだけ箸墓を、他に類なく特筆して書いているのだから、残りを超特急で造ったのだろう。
 それよりも、石塚古墳が円墳として聖壇だったという説に魅力を感じた。箸墓のことも大切だが、三輪山との位置関係からみて石塚こそが邪馬台国首都纒向のシンボルだったのだと考える。
 ああ、話が逸れた。苅谷さんの想像による邪馬台国纒向の全貌が、この絵にある。素晴らしい。

↓図版・纒向遺跡の全貌/寺沢薫

纒向遺跡の全貌/寺沢薫
 この「王権誕生」は多くの歴史好きの人や、関係者が読んでいると思う。寺沢さんは、箸墓の主は卑弥呼ではなくて、卑弥呼の縁戚少女台与(トヨのことか?)の後に立った男王の墓としている。
 この纒向全貌図も、とても気に入っている。考古学関係者は、特にカメラがなかった昔はエジプト、メソポタミア関係など手書きのスケッチが残っているが、現代でも想像図になるとこうした手書きが一番なのかもしれない。CADはある程度以上に細かくデータが必要なので(そのデータの信憑性は不明のまま、確定として扱う)、想像図を手書きで描く方が、遊び(余裕)があってよいのだろう。石塚古墳の前方部は確かに三輪山に向かって開いていた。

 さて、肝心の東田大塚古墳や矢塚古墳が、邪馬台国とどういう関係だったのかは、私は何も言えない。ただ、これでほぼ確実に、元祖・前方後円墳は、日本において纒向古墳群であると、胸張って言えるようになった、とそう思って記事にした。

参考
 桜井市・文化財情報
  産経新聞情報では、2007年4月13(金)~5月11(金)まで、
  桜井市芝の市立埋蔵文化財センターで、パネル展示があるようだ。

引用
 まほろばの歌がきこえる:現れた邪馬台国の都/苅谷俊介.H&I、1999.3 
 王権誕生/寺沢薫.講談社、2000.12 

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コメント

Muの旦那の独壇場ですね

 纒向は先ずヤマト生誕の場所でしょうね。苅谷さんの真面目な発掘の本を読みましたね。彼はここで実際に発掘作業をされたんですね。

土器分類の知識は専門家顔負けではないでしょうか。

私、最近、前方後円墳がヒミコはんの海外戦略ではなかったか?という、仮説に燃えているんです。

 巨大な中華帝国と渡り合うには、中国人が一番神聖視した東海にある蓬莱山ではないか。神仙思想を逆手にとったのでは?

箸墓古墳を横から眺めると、まさに海に浮かぶ蓬莱山です。

投稿: jo | 2007年4月14日 (土) 22時27分

Joさん
 夕方に古いビデオで、1996年NHKの堂々日本史、古代ロマン(1)のヒミコ問題というか、邪馬台国を見ていました。

 池上曽根遺跡の井戸造り(直径2mくらいの木をくりぬく)と、纒向を飛び越えた8世紀平城京の井戸造りがそっくりだったことから、二つに強い関連があり、その間を結ぶものが、近畿・纒向の邪馬台国→大和政権、だったという、流れでした。
http://asajihara.air-nifty.com/mu/2004/07/post_15.html
(↑MuBlog:弥生博物館見聞記です)

 TVでは、ヒミコの墓は、完全に箸墓説でしたな。箸墓の円墳説は当時の橿原考古学研究所の河上先生が説明していました。箸墓の前方部が、構造的に後円部とは異なることをスケッチ交えて言うてはりました。
 その上、年輪測定もしっかり他の先生が説明していました。
 なかなかよいNHK-TV(1996)でしたよ(笑)。

さて、「箸墓実は蓬莱山-JO説」、これはハノJoさんらしい、珍説ですよ。

 まず、箸墓が現在水に映っている、その環濠は、3世紀にどうだったのか。あったのかどうか。これはむしろ、奈良盆地・湖説の年代と照合させて言わないと、おかしい。

 次に、当時の箸墓は、苅谷図書にもイメージがあったけど、五色塚みたいに、化粧石で覆われていて、「山」というよりも輝くピラミッドの風情だったのではなかろうか。
http://asajihara.air-nifty.com/mu/2004/03/post_22.html
(↑MuBlog:五色塚見聞記)

 だから、ハノJo説を全うさせるには、そうだね、「大和に眠る太陽の都/渡辺豊和」
http://asajihara.air-nifty.com/mu/2004/03/post_34.html
(↑MuBlog:読書感想文)
 渡辺説をもちいないと、現実的じゃないなぁ~。

 ただ。ヒミコが生前から前方後円墳という、非常に特殊なデザインを外交政策に用いたという考えは、なかなか優れものですね(笑)

追伸
 Joさん、相談だけどね、Muは原点にもどって、恥も外聞もなく、邪馬台国について今後マジメに考えようと思い出した。さっき小汚い部屋を見回したら、そこら中に転がっている、あるいは押し入れに突っ込んである本が、どれもこれも、40年~20年前の邪馬台国モノなんだね。数十冊は視認できました。
 要するに、Muは相当に若年時、入れ込んでいたようです。それを、いつのまにか、忘れていた! 内容も思い出せない。
 それで、いろいろ、相談にのっておくれやすな。
再見

投稿: Mu→Jo | 2007年4月14日 (土) 23時12分

邪馬台国は永遠の夢やね お互い!

 是非、過去数十年の心の旅を纏める時が来たのではないですか?

joもグローバルな視点で邪馬台国を捉えてゆきたいと思います。

 蓬莱山ですが、神仙思想ではどのようなイメージだったのか?多分、桂林のような石灰岩の白い、光る石の山ではなかったか?

ヒミコは何故、鏡を欲しがったのか?太陽信仰ではないか?長江下流域の世界観に通じます。

当時の東アジア全体で邪馬台国を捉えないと、真理は見えてこないと考えています。

 公孫氏が魏に滅ぼされた翌年にヒミコは魏に使者を出している。外交戦略としては凄いものを感じますがね~~。

これから未だ、先は長いですので海外方面の調査はjo君が頑張ります。

 

投稿: jo | 2007年4月14日 (土) 23時51分

 Joさん、そうでした。
 神仙思想とか、蓬莱山のイメージを見ておかないと、箸墓がどんなふうに、見られたか、正解をえられません。

 Muはてっきり、Joさんも、世間でも、湖水か海中にそそり立つ、木の多い山と考えていると、思っていました。

 蓬莱という漢字が、くさかんむりが重なっているから、植物のイメージがつよかったです。

 なんとか、別の蓬莱山をイメージしてみます。

投稿: Mu→Jo | 2007年4月15日 (日) 07時33分

Muさん、初めまして。
古代史に関する蘊蓄の深さには尊敬いたしますが、客観的かつ科学性に欠けています。現在の考古学は、集学的な学問領域。10年一昔と言いますが、現在は1年前の事象も古くなっています。少なくとも原則、10年前の本は廃棄しては如何でしょうか。「邪馬台国」は北部九州の何処かです。間違っていたら即、訂正します。信念とか思いこみは無いつもりです。NHK番組で九州の人が携帯を
乗取ったなど、Muさんらしくない発言は止めましょう。これだけのBLOGを掲載する人の品格が疑われます。Muさんの今後のご検討を期待いたします。

投稿: ごみちゃん | 2007年4月16日 (月) 09時20分

こんにちは 「ごみちゃん」
>客観的かつ科学性に欠けています。
 もうしわけないことです。あまりに戦後(大東亜戦争終了後)の日本の歴史が、客観的でなく、思想的迷信にあふれているので、もしかしたらそういうのが今の時代の流儀かとおもいまして、Muもついついながされてしまったのでしょう。反省。

>現在の考古学は、集学的な学問領域。10年一昔と言いますが、現在は1年前の事象も古くなっています。
 ごみちゃんは、そういう世界の先生か学徒さんでしょうか。古いものに味わいを感じるMuなので、古びた考えもまたおつなもの。学問も、終局は、えも言えぬ香りがあるかどうかに尽きます。もし学徒さんなら、この言葉、いつか思い出してください。

>10年前の本は廃棄しては如何でしょうか。
 それはちと、ごむたいなもうされよう。さすれば、記紀も万葉も全部焚書坑儒の憂き目。Muは、図書館の世界の者なので、それは無理です。

>「邪馬台国」は北部九州の何処かです。
 それはもしかして、古代中国の人が幻想に記された国名でしょうか。ヤマトはあったとしても邪馬台国が当時あったのかどうか、はて? だから、邪馬台国なる幻想の國が、北九州だろうが四国だろうが、マキムクだろうが、千葉だろうが、それはそれでよろしいわけです。間違いという考えは、ないでしょうね。蓋然性はのこるかも。

>NHK番組で九州の人が携帯を乗取ったなど、Muさんらしくない発言は止めましょう。これだけのBLOGを掲載する人の品格が疑われます。

 いやはや。これって、冗談なんですよぉ〜。こまるなぁ。
 いくら熱血北九州たって、携帯つかって番組の偏向を助長するなんて、あるわけないでしょう(笑)。もしかして、北九州の村おこし邪馬台国の村長さんなんかなぁ。そんなに怒気をはっするところをみると。ええ、よいですよ、北九州に当時幻想の「邪馬台国」があってもおかしくない。
 「Muの品格」これって、一人でうけていました。そうですかぁ。MuBlogにも品格がでてきましたか。てへ。気恥ずかしい。
 「北九州住民携帯のっとり論」は、Muの冗談、ないし、勇み足だったということで、ご勘弁ください。
ではまた

投稿: Mu→ごみちゃん | 2007年4月16日 (月) 14時08分

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