小説木幡記:20070425(水)曇小雨だ会議一杯
さっき熱い茶をのんでほっとした。
帰還してそのまま食卓に座った。
夕方8時前まで葛野でプリントすったり、直したパワーポイントデータを古いノートマシンに移したりしていた。立て込んでくると研究室は少しずつ犬小屋じみてきたが、まだもう少し持つだろう。掃除しなくては。
ぼんやり明日の授業をイメージしていたが、昨日倶楽部幹部の依頼で、屯所に「図書のリクエスト制度」をもうけたので、授業で希望図書をつのってくれと言われた。明日、それをどのタイミングで差し込むか、考えていた。明朝一時間目は、30分の情報サービス・ビデオ鑑賞なので、感想を書いてもらうときに、希望図書を書いてもらおう。しかし、二時間目はカードを配布する予定ではなかった。で、考えて結論がでた。
そんなことを、長い会議の後、帰還するまでの30~40分で作業し、考え、ぼんやりしていた。長い連休前だから、授業にも節目、キリのよさを考えなくては。また、明朝考えてみようと思って席を立った。
夕方7時に最後の会議が終わった。これは6時から始まって、学部固有の懸案だった。
6時までは、3時からずっと難しい会議だった。どこの大学も現代は法的に、外部評価を受けることになっていて、今年はその準備時期で、相当に大忙しになる。なぜか、この委員。
3時に終わった会議は、二時半からだったので超特急で終わった。最初だから確認だけですんだのと、3時~6時の会議が予測されたので、早くおわったようだ。
二時半に終わった会議は、午後一番で、これは身内だけの会議だったので、気分は楽だった。
昼休みは学生に呼び出されて、控え室のパソコンの修理に励んだ。ファイルは生き返ったが、そのマシンではwordを使うとフリーズして、それは直せなかった。多分、根治療法が必要じゃ。余は見切りをつけて午後の会議を優先した(笑)。
お昼は冷えたコンビニ弁当を食べたが、なんだかのどを通らなかった。ご飯だけいただいた。ずっと何年も、外食の揚げ物は、よほど好みの店以外には箸をつけなかった。で、なにを間違えたのか、今日の弁当は揚げ物が一杯だった、要するにマズッタようだ。これなら、焼きたらこ・おにぎりにすればよかった、後の祭り。
12:30に終わった会議は、11時過ぎから始まったのだが、これは難問が三つあった。今日は余の方から、三つを列記指摘しただけで、答えは涌き出なかった。
一時間目の授業は、エジプトの50分・ビデオ鑑賞をした。ヒエログリフ、パピルス、死者の書、ラムセス二世、ファラオ、ロゼッタストーン、シャンポリオン、アレキサンドリア図書館、……。いわゆる、余のオハコ(笑)。カードには、わからなかった点、おもしろかった点、全体感想の三つを鑑賞記として出してもらっている。30分でそれを全部読み終えたが、壁画の女性は何故「裸」なのか? とか、なぜ王は神様になりたかったのか? とか、ラムセス二世ほどの偉大な王がなぜ側近4人に政治を任せたのか、自分は何をしていたのか? とか、答えられない問いがつらなっていて、研究室で一人、汗がでた。余は、本当は、吉村先生と知り合いでもないし、古代エジプトの専門家じゃない(業務秘密)。一番、こたえた疑問は、これが図書館とどう関係あるのか! だった。そりゃ、偉大な文明なくして、文字や図書館は生まれない、と言ってはみたが、……。どうしても、若い学生には嘘嘘しく聞こえるようだな。先回のメソポタミアでは、大英博物館の学芸員が粘土に丸棒で楔型文字を書いたり、アッシュルバニパール王宮図書館遺跡が写ったりで、違和感がなかったようだが。今朝のビデオは、図書館らしきものは写っていなかった。勇気を出して、大列柱石神殿こそ、図書館じゃったと言えばよかった、後の祭り。あっさり言えないのは、余も、典拠はあるんだが、う~む。まあ、よい(なにがよいのか)。
早朝の珈琲がうまかった。昨日は6時半に到着したら、研究棟の鍵が開いて無くて、こりゃいくらなんでも7時過ぎにしなくてはと、今朝は昨日よりちょっと遅れて7時10分入構、研究室にもすっと入れた。
起床は午前4時。
シャワーの季節、朝風呂までのゆとりはないが、熱い湯の中で、朝から瞑想していた。
また明日。
明日の授業は、これまたキツイ。しかし午後、会議はないので、連休明けの授業準備ができる。
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コメント
ある女子大教授の一日
そういう題名の短編を一本映画にしてみたくなりますね。
一切の形容詞を排して行動のみを記述する。
ムー大兄にもこういう(ハードボイルド・タッチ)の一文が書けるのですねえ。
感服しました。
黒澤明が(七人の侍)を作ったきっかけは、戦国時代、侍は一日をどう過ごしていたのだろう?と気になって古文書をいろいろ当たったのだけど、そういう記録は殆どなかったそうです。
朝起きてどうしたのか、何を喰ったのか、昼はどうしていたのか、夜は?
捜しているうちに(一つだけ野盗に襲われなかった村があった、その村では侍を雇っていた)という書き付けを神保町の古本屋で黒澤組の一人がめっけたのですね。
それで黒澤明のイマジネーションは飛躍したようです。
女子大の先生が朝起きて何をしていたのか、昼間どこで何を食べて何を考えていたのか、しかして夜は・・・・。
MuBlogはまことに貴重な記録かもしれませぬなあ。
投稿: ふうてん | 2007年4月25日 (水) 23時12分
ふうてんさん、遅いメル返になってしまいました。
さて。
おっしゃるように、歴史の中で、時代時代の庶民がどんな暮らしをしていたか、記録も少なく分かりにくいですね。
記憶がまだらですが、以前、江戸時代の「お畳奉行」がどうしたとかいう武士の日記は、新書で読んだことがありますが。
それでも、MuBlog なんかの教員は少し変則的なので、時代の実相はあらわしておりません。都会の企業戦士ですと、仕事一色でしょうね。いつ食べる、いつ眠る、……。Muにもよくわかりません。
最大の謎は、実は、ふうてん翁でしょうね。あの翁は、昔、川崎近辺にお勤めのころから実態不明でした、まして、いわんや現状おや。ロシナンテやチャリで、繁寿司通うだけで24時間が詰まるわけでもなし。謎は深まるばかりです。
その点、Joさんなんか、一見事細かく記録されているので、30円の昼食とったとか、部屋の管理人から洗濯代やわけのわからない料金を取られたとか、よう分かります。
ところで、昨夜書いた記事は、疲れ果てて半睡状態でしるしたものです。投稿したのが9時過ぎで、目が覚めたら朝の五時でした。
四の五の考えずに、メモする気持ちで書くと、粉飾のない、潤色のない、普通の文章になるようですね(笑)。
投稿: Mu→ふうてん | 2007年4月26日 (木) 15時46分