絵葉書:皇居東御苑の石垣修復
数日前に、一昨年(2005)MuBlogでおなじみのDeepGから、今度は江戸便りが入りました。いつものように、ただ写真が数葉送られてきただけで、詞書きは一言「昨年の皇居」それだけ。そこでMuもそれなりに背景を想像し、録しておくことにしました。
ただ、以前は携帯カメラのようでしたが、今回からは、一枚500KBもあるデジカメ仕様の写真でした。当然普通のメルで重々しくまとめて4メガ近く送られてくるのですから、以前のように、華々しく連続で着メルを聞く楽しみはなくなりました。
参考記事によれば、皇居(昔の江戸城)の石垣が昨年2006年の夏七月ころ、修復されたようです。現地人ではないのでよく分かりませんが、相当な工事だったようです。いくつかの記事によれば、普通では入れないところも出入りできたようです。
もとの江戸城は、太田道灌が15世紀中頃に築城し、後に北条氏が出城のような形で使ったようです。そして徳川家康の時代。相当な大改築、拡大をおこなって幕末まで徳川将軍家の城としてあったわけです。1868年、つまり明治元年に天皇が遷都し、しばらくは東京城だったのですが、翌年には「皇居」とされて、「宮城」という名に変わりました。
さて昨年夏の修理がどうだったのか。その結論はしりません。
皇居・東御苑の近く
想像するに、DeepGは昨年、江戸に仕事を見付けたようです。そう言えば今年の年賀メルらしきものに、「江戸のおもちゃ屋さん」と書いてあった。どうにも、解せない話だ。しかし、若いからなのだろう。Muなどが葛野を飛び出して、江戸に行っても、食いっぱぐれるのがオチ。
皇居・天主台石垣跡
皇居・天主台石碑
日本の城跡は西洋の、総石造りと違って、石垣だけが残ります。もし、なんの知識も情報も持たない宇宙人がこの石組みを見たなら、なんと想像するでしょう。そう言えば、エジプトもマヤもアステカも、ピラミッド、ジグラットの跡はそのまま残っています。日本の城のように、木と瓦と土壁だけでできた建造物は破城されやすいし、炎上しやすいし、跡が残りません。しかし、もしも太古のピラミッドに、木製の屋根や屋上屋があったならぁ~。わかりませんよぉ。
皇居・古い石材
大名(松平吉明)の工事請負記録
石材は再利用が効くわけです。周知の、高取城は大和中の石を集めたそうです。もちろん、あの神聖な酒船石まで組み込まれているという噂。それにしても、拡大写真メモにも記しましたが、いくら再利用が現代に適用されても、徳川時代になっての江戸城の場合には、その規模からみて、関係者が各国大名だったことも合わせると、最初の最初はそこここから切り出してきたわけでしょう。大変な労力、資金が必要だったと想像します。
久しぶりのDeepG便りでほっとしました。それにしても、「皇居」、なんとも言いようがないです。そこは、真空地帯というか、聖地というか、昔なにかの本で読みました。必ず現代の翻刻写真を添付するところが、DeepGらしいところです。
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