石塔寺(せきどうじ) 阿育王山(あしょかおうざん)
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石塔寺(滋賀県蒲生(がもう)郡蒲生町石塔)地図
動画:石塔寺門と境内 (Mpeg4 3645.0K)
門の扁額、「阿育王山」が目につきますね。お寺は綺麗に掃除されていて、本堂も広いです。
動画:石塔寺の三重石塔(阿育王塔) (Mpeg4 3076.8K)
どう観ても、これは圧巻でした。実物は7m以上の高さがあって、どんな風にして積み上げたのか、あるいは地震なんかではどうなんだろうと、ぼんやり眺めておりました。一説では、回りに土を積んでその中に石を埋め込んで、最後に土を取って立てたという話も読みました。奈良の大仏さんがそうだったはず。
1.百済面(くだらのめん)
2.百済の館
ずっと以前に石塔寺を訪ねたことがあった。まだ若かったそのころは『かくれ里/白洲正子』が私のガイドブックだった。「石をたずねて」という章にあった。同時期に司馬遼太郎さんのなにかの記事も読んでいた記憶があるが、さだかではない。司馬さんの記事ではただ「異様な石塔である」という片言が脳にこびりついていた。
下調べもせずに昨年の夏突然この地におりた。名神高速道路、滋賀県の八日市ICから少し下がったところだった。それで目に付いたのが「百済」。くだらは、ひゃくさい、と読んでも間違いではないが、日本ではクダラと読むようだ。現代の朝鮮語ではどうなのか知らない。 なぜ、この地が百済なのか。
3.石塔寺(いしどうじ)
4.仏さま
5.お地蔵さんと三重塔への石段
百済の文字にふらっと目眩がしたあとで、門をくぐった。扁額の阿育王山はインドの古代・アショカ王に由来するというから、このあたりの伝説は枠が大きすぎてまた目眩がした。紀元前3世紀のアショカ王が世界に散布した仏舎利の二つが日本に来て、一つは琵琶湖の底、一つはこの石塔寺、阿育王塔(三重石塔)のようだ。現在は、天台宗の落ち着いた、静かなお寺である。
寺自体の開基は聖徳太子さんになっていた。とすると、7世紀創建になる。
ただ、この伝承はもう少し時代が後のことと思った。
時の仏教伝搬が日本でどうだったかは知らないが、日本書紀の推古天皇32年には、ちょっとした事件(僧が親を撃ち殺した、尊属殺人)があって、朝廷が驚いて寺院僧尼を調べたところ、寺が46カ所、僧尼あわせて1385人とのことだった。ここに近江が含まれたかどうかにもよるが、それほど多数の寺院が当時の日本に在ったわけでもない。聖徳太子は日本書紀では推古30(西暦622)年没だから、推古天皇32年というと、調査時点と大きな開きはない。
だから、聖徳太子開基伝承は、すぐにはうなずけない。
6.阿育王塔(あしょかおうとう:三重石塔)全景
なお、百済とか高句麗とは昔の朝鮮半島を治めていた国々で、飛鳥、奈良時代の日本とは切っても切れない縁がある。当時の日本(倭と中国から呼ばれていた)は国際国家で、特に朝鮮半島との行き来はひっきりなしだったようだ。いわゆる人種としては、同じモンゴロイド、ツングース系らしいので、その後の文明文化的異なりは大きいが、なにかしら似たところが多い。
歴史的には、百済(朝鮮半島西側)、新羅(しらぎ:半島東側)、高句麗(こうくり:半島北部)と三国あったのが、百済が新羅・唐に敗れ、次に高句麗が新羅・唐に滅ぼされた。そして最後は7世紀末に新羅(高麗)一国になった。新羅が統一国家になったころ、日本は天武天皇時代で、現代の奈良県の飛鳥近辺が都だった。
さて、その三重石塔が百済由来というのは、本当に似通った物が百済・新羅時代の現地・定林寺にあるらしい(未踏地・未見)。
7.五輪塔と石仏群
このおびただしい五輪塔や石仏群は、その後鎌倉時代ころから参拝者が数百年にかけて納めたもののようだ。こういうおびただしい仏様を観ていると、人の気持ちの一端が浮かんでくる。なくなった人達の供養なのか、偲んでいるのか、「死」に対する複合的感情の発露なのだろう。極楽浄土へ参りますように、と生きている人達が祈った証なのだろう。
百済渡来人
滋賀県はことのほか渡来人が沢山住み着いた地域のようだ。大津京の北には新羅系、そして石塔寺のある蒲生には百済系の人と、地域がある程度は固まっていたらしい。しかし司馬遼太郎さんの昔の対談(日本の朝鮮文化:中公文庫838)では、朝鮮半島から来たというよりも、昔から行き来が激しかったから、百済や新羅から日本に帰ってきたという印象があると漏らされていた。ものの考え方によるだろうが、史実としてはこの蒲生の場合は、百済が滅びたことによる、亡命百済人という言い方もあたっているだろう。
日本書紀では、天智8年(西暦669)に、佐平(さへい:百済の大臣相当高官)余自信(よじしん)や、佐平・鬼室集斯(きしつしゅうし)ら、男女700人前後を近江の蒲生郡に移住させたとある。
660年に百済が滅び、そして天智2年(663)に白村江の海戦で日本水軍が新羅・唐によって全滅した史実がある。
書紀によれば百済亡命人は一般人も含めて、この天智2年(663)9月25日、百済の地を去り日本にむかったようだ。その後、どうなんだろう、都はまだ飛鳥だったから奈良県南部に住んでいたのだろうか。大津京に遷都したのは天智6年(667)だから、この時同じように飛鳥から百済渡来人は一緒に近江にきたのかどうか。まだ調べ尽くせない。
一つ謎
書紀によると天智9年(670)、この年斑鳩の法隆寺が焼けた、天智さんは二月に、蒲生郡日野に、宮を造る地を見たと記してあった。この時、皇居は現代の大津市だった。日野というのは、石塔寺からは10キロほど離れた東、やや南あたりの地域である。「宮」というのは、天皇が住いするところか、別荘か、神社かと、いろいろ悩みだした(笑)。よほど、このあたり蒲生が好みだったのかもしれない。事実狩をした記事もあった(天智7年5月5日)。
なお、謎ではないが、佐平・鬼室集斯(きしつしゅうし)とは、おそらく百済の猛将軍鬼室福信(ふくしん)の縁者、息子さんなのだろう。忠臣・福信将軍は、白村江の戦いの始まる前に、鬱になった百済の王に斬首されている。このことが、百済軍内での致命傷になり、敗れたという話も読んだ。
で、話として、この鬼室福信将軍の息子の集斯が、日本に亡命し700人前後の人達と、蒲生郡に住み、後日日野町小野に鬼室神社ができた。(参考:湖東の渡来人)
感想
近江の国は、歴史が厚い。住んでいる宇治からは近いと言っても、数度の探索ではなにも分からない。そして石の血脈というか、石工たちの動きを知りたいという動機から、石塔寺(近江)、益田岩船(飛鳥・橿原)や、石宝殿(播磨)を彷徨ったわりには、まだまだ何も浮かんでこない。ただ、渡来人、これが石の血脈のキーになるのだろう。石工と、そして自然巨石の磐座(いわくら)、なかなかに楽しみは尽きないなぁ。
また、調べてみる。
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コメント
石塔寺
未見ですが、是非一度見学にゆかないといけないようですね?家内の母の故郷が蒲生(がもう)郡オイ蘇なんで、近くに何回か伺っています。
このあたりは、朝鮮半島の香りがする場所ですね。天智さんと百済の関係は深いでしょうから、近江は百済と関係が深いと考えて不思議は無いですね。
何時かこのあたりの葬式の話をしましたね?野辺の送りと土葬の風習が今だ存在しているのです。
投稿: jo | 2007年2月18日 (日) 10時20分
Joさん
消息通のJoさんにいうのは釈迦に説法ですが。秦氏、つまり葛野の広隆寺、葛野山城全域ですね(伏見稲荷もらしいね)は新羅系と本に書いてありました。意外に、聖徳太子さんは新羅系の後押しなんですねぇ。
それで近江の国、蒲生郡は、7世紀、百済滅亡時に、大臣、インテリ、技術者を含めた700人前後が、日本に渡り、そして数年後にこのあたりに居を定めたとのこと。
老蘇(おいそ)は現代地図では、蒲生郡安土町ですから、名神高速を挟んで北に老蘇、南に石塔寺、鬼室神社となるでしょう。なんとなく、蘇という文字に背中がぞくぞくするのは、私だけじゃないはず(笑)
なんというか。日本風、百済・新羅風と区別はつけにくく思いました。日本海と太平洋の区別が付けがたいのと同じですね。
中でも北九州や滋賀県はキメラじゃなくて、溶け込んでいるのじゃないでしょうか。その習合が現代日本なんでしょう。
もちろん、もとをたどれば、原人、アフリカがルーツ。ちょっと後で、ツングース。漢よりも、韓が倭(ちっこくて、小汚い人間のいる日本、とは昔の漢もえげつない言い方したもんですね)に大昔から沢山渡ってきたんでしょう。巫女さんなんかは、やっぱりツングースのシャーマンですよ。
7世紀ころの百済、新羅、高句麗渡来人は全員、今来たところで、今来(いまき)さんらしくって、それ以前から、縄文時代から、何千回も渡来があったんでしょうな。
だけど、主に気候風土地勢、成り行きで、その後日本も朝鮮も、みんな独自の文明そして文化を創ってきた。と、そうなるようで。
近江の国は、歴史の博物館だと、最近感じております。
投稿: Mu→Jo | 2007年2月18日 (日) 11時02分
本日拙HPにUPした「銅鐸の常識に疑問符を打つ確率」
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-90408.htm
において、貴HPの写真「五輪と石仏群」を借用しています。
もし、それは困るとお感じの節は、申し訳ありませんが、
メールにてご連絡くださるようお願い致します。
投稿: MM3210 | 2009年4月27日 (月) 17時30分
東近江市、合併前の八日市生まれです。先日30数年ぶりに姉妹で八日市を訪れました。近江八幡からレンタカーで出発しました。まず湖東の横溝で墓参を済ませ、雨の中でしたが百済寺を初めて訪れました。30年数前にはまだ湖東三山などという観光地はなかったような気がします。百済寺の開祖は高句麗の僧で、その後の供養は百済の僧が任じた、というパンフレットの説明ですが、もっと確かなことを知りたいところです。そのあと美しい稲田の海を進むように蒲生野を走り長谷野を越えて石塔寺へ向かいました。「サンデー毎日」に先日石塔寺がすばらしいという記事があり、この日はここを訪れるのが目的でした。それに姉妹とも小中学生時代には歩いて遠足に何度も来たことがあるのです。実際期待に違わず不思議な異空間でした。百済寺もこの石塔寺も、織田信長に破壊された歴史があるようですが、具体的にどうだったのか、あの累々と連なる五輪塔や石仏群はいつ頃何故集まったのか、知りたい。湖北にも魅力ある木彫仏がたくさんあるが、渡来人が伝えた仏教の足取りを知りたい。へしこやフナズシのような発酵食品が韓国にもありそうだが・・謎は深くて魅力的です。
投稿: 広島花子 | 2009年9月24日 (木) 21時32分
広島花子さん、初めまして。
と、MuBlogに2007に掲載した記事にコメントいただき、有難いです。石塔寺には、2006年の8月に行きました。最近では「百済寺:ひゃくさいじ?」に、昨年秋(2008)にいきました。
なにかと近江に惹かれて足を伸ばしていますが、本格的な渡来人歴史を考えたわけでも探索したわけでもないので、物見遊山にカメラが加わった程度の内容です。
信長はそこら中を破壊しているので、その意味や意義は、あんまり感じません。壊したかったのでしょう(笑)。ただ、伊賀住人に聞いた話では、500年経っても、伊賀の人で信長に怨みを抱いている人は、多いとのこと。滋賀、甲賀の人もそうなんでしょう。
土地感覚が薄く、石塔寺と百済寺を別々に行きましたので、広島さんのドライブ感覚が新鮮でした。あのあたり一帯、と考えて良いわけですね。
石塔寺の石仏群は、京都嵯峨野の化野を連想しました。だれかかれかが持ち寄って、なにか(地震や破壊)があるたんびに、寺の関係者とか付近の長者がお金をだして整備したのでしょうかねぇ~。
へしこやフナズシ、こういう発酵系食品は韓国キムチをルーツに考えると、理解が深まるのかと、お説をうかがって思いました。
近江はまだまだ、行きますので、将来記事を掲載します。その節はまたお越し下さい。
投稿: Mu→広島花子 | 2009年9月24日 (木) 23時30分
スッゴイ、亀レスで、すみませんm(_ _)m
私も、古代史が大好きなんですよ!
「百済」は、韓国語では、「ベクジェ」or「ペクジェ」と、云います。
東近江市の「百済寺」は、「ひゃくさいじ」で、間違い在りません。
「新羅」は、「シンラ」or「シルラ」と、読みます。
日本語で、「しらぎ」と、読むのは、今、資料が探せていないのですが、「シンラ・シルラの奴等め!」と、何やら、憎しみ込めてる言葉なのだそうです。
資料が見付かったら、また、カキコに来ますね!
投稿: 蓮 | 2012年3月 5日 (月) 03時34分