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2007年1月 8日 (月)

石宝殿(石乃宝殿:いしのほうでん)と生石神社(おうしこ)

承前:益田の岩船
石宝殿:石乃宝殿(高砂市阿弥陀町生石)地図
生石神社HP

動画:生石神社の表参道 (Mpeg4 11112.6K)
  車で行くと南側に駐車場があるので、そこから入るのが通常だろうが、表参道が別にあった。参道の様式が京都鞍馬の由岐神社(ゆき)を思い起こさせた。ただし由岐神社は拝殿の下に参道があるが、生石(おいしこ)神社では、参道の上は絵馬などがかかった休憩所のような造りだった。
動画:石宝殿 (Mpeg4 20280.0K)
  巨石の回りにはぐるりと一周する小道があるが、東は社殿、西南北は岩壁がせまっているので、撮影距離をとりにくかった。広角レンズが必要のようだ。

社殿裏から南東方角

社殿裏から南東方角
 以前から気にかかっていた石宝殿(生石神社では石乃宝殿と表記している)に、2006年末ようやくたどり着いた。ともかく播但平野をながめていると、その広さの中に、飛鳥と近江と播磨の距離を味わった。飛鳥には益田岩船(実際は橿原市)、近江には石塔寺(後日掲載)、そしてここ播磨・高砂市には石宝殿があった。時代も石工達も、製作目的もそれぞれまだわかりにくいのだが、「石」にだけ共通項があった。そして、もしかしたら当時の渡来人たちがこれらを作ったのかもしれない。石塔寺の巨大な石塔は仏塔であり、聖徳太子との関連がささやかれている。この地の石宝殿は物部守屋との関連、および聖徳太子にかかわる伝承がある。と、通観してみると、なんとも飛鳥の益田岩船がわかりにくい。

竜山と生石神社(おうしこ)

竜山と生石神社(おうしこ)
 話を石宝殿のある生石神社にもどす。私がなぜこの神社や石宝殿に興味を持ったかというと、発端は松本清張『火の路』だった。清張は、この地を石工・工房と見、未完成の石宝殿は、実は飛鳥に運んで、益田岩船と並べてペルシャ風拝火神殿になる予定だったと、推測していた。時間や空間に距離がある物を結びつけるところに清張ミステリーの面白さがあった。するとそれは虚構なのかと、今になると思いもするが、作家松本清張の詳細な論考、筋立てには当時も現代も定評がある。おそらく、松本清張には見えたのだろう。この石宝殿が益田岩船の横に並んだ姿が。そして、斉明天皇の怯えと鬱と信仰心とが。

浮き石

浮き石
 『火の路』には学術論文が多々引用されている。そして主人公高須通子をとおして、清張の論考が明確に現れてくる。この水中に浮いたように見える石宝殿の下部は、どのような工法かはわからないが、あといくらかえぐりとって、突起のある後方の下部に梃子を差し入れれば、石宝殿全体が社殿に向かって立つのが想像できる。清張は、後方にある突起部分が上になると推測していた。

左右・縦の溝

左右・縦の溝
縦溝の詳細
縦溝の詳細

 石宝殿が、社殿のある東南方向に立ち上がると、今は縦にある幅1.6mの溝は横帯のようになる。推測では、現在樹木で生い茂っている上面にも溝があるとされているので、現在の下部にあとで溝を彫れば、丁度四角柱の回りに帯をしたような形になる。それが、装飾なのか、構造的目的を持ったものなのかは、私には分からない。
 ところで、この1.6mの幅というのは、実は益田岩船の上面にある四角い穴が、1.6m四方なのである。なにかしら、類縁を感じてしまう。

突起

突起
 この突起は、起こすと屋根のように見えるので、家型石棺の屋根とみる考えもあるようだ。ただ、現地で見てみると、どうにも屋根には見えなかった。丸みがなく構造的な造りだったので、他のなんらかの物と接合させる部分に見えた。益田岩船は上面に凹部があったので、石宝殿の凸部とはペアになるのかもしれない(やや、トンデモか)。

真上から見た石宝殿(石之宝殿)

真上から見た石宝殿(石之宝殿)
 生石神社では、石宝殿をご神体扱いをしているようには見受けられなかった。神さんは、二柱おられて(おおあなもち、すくなひこな)出雲系である。しかし神石として大切にしているのはよくわかる。上面の樹木は、一種の禁足地扱いなのだろう。おそらく、だれもここに足を降ろしてはいないはずだ。

史蹟石乃宝殿・生石神社:日本三奇/生石神社(おうしこ・じんじゃ)

史蹟石乃宝殿・生石神社:日本三奇/生石神社(おうしこ・じんじゃ)
 綺麗なパンフレットである。石乃宝殿の由来が一ページ目。次ページは生石神社創建の由来、分霊、いささか仏教に縁の深い梵鐘。そして史料からみた石乃宝殿由来もあった。三ページ目は行事。なかなか活気のある御神輿姿があった。四ページ目には地図とアクセス、付近の情報もあった。参拝された折には手にされるとよいと思った。

霊岩

霊岩

大正天皇行幸之跡
大正天皇行幸之跡

 神社の右側に霊岩があった。そしてその右側に、岩から彫り上げた階段があって、石宝殿を上部から見ることが出来るようになっていた。さらにその上、裏山に登ると大正天皇由来の石柱碑があった。なぜ、大正天皇がここに来られたのかは、知らない。高砂市からの国見だったのか。

追補
 本文は説明に終始せざるをえなかったが、この晦日にわざわざ高砂市まででむいたことで、長年懸案の三つの巨石を2006年中にすべて実見したことになる。一つは昨年8月、滋賀県の蒲生郡にある石塔寺の石塔、これは20代のころに一度訪ねたことがあるが、あらためて迫力に感じ入った。一つは益田岩船、これも記憶の隅には20代に一度行ったことがある。
 そして、今回の石宝殿は初めてだった。
 回りの山肌も荒々しく削られていて、工場もあったので、松本清張が言ったように、ここはアトリエだったのかもしれない。それにしても、山をくり抜いてこういう物を造るという考えは、なかなかにワイルド、そして気持が大きいことだと思った。これが、神社関連構造物として現代まで残ったのは、作られた当初も、巨大さや、製作工法の面から、特別な物だったのかも知れない。
 やはり、特殊な石物だ、と現地でもそう感じた。

参考文献
  火の路/松本清張(文春文庫、上下、ま・1・29-30)

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コメント

この神社興味あります

 清張はんの説は別にして、興味ありますね。Muの旦那の研究によれば、ここは元々が三輪さん、即ち出雲系の大物主、大国主はんの聖地やった、だから、物部氏が管理し、例の蘇我氏との戦争に敗れ、聖徳太子はんの管轄下になった。

そないな、歴史ですかね?

 石材は当時としては重要な宝ものでしたでしょうね。

投稿: jo | 2007年1月10日 (水) 11時32分

Joさん
 無意識に思っていることを、いつもいつも丁寧に解きほぐしてくださってありがとうございます。
 しかし、聖徳太子はんは、伝説の多い方で、そこら中にありましてね。太子伝説。こまりますよね。

投稿: Mu→Jo | 2007年1月10日 (水) 14時11分

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