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2007年1月20日 (土)

ηなのに夢のよう/森博嗣

承前[MuBlog:λに歯がない(Gシリーズ5)]
  森博嗣『φは壊れたね』(G1)

η(イータ)なのに夢のよう(G6)

ηなのに夢のよう
 森博嗣のGシリーズが今回のη(イータ)G6、でひとまず完了したようだ。曖昧な書き方をしたのは、常々言うところだが、作者とは騙(かた)るものだから真に受けてはならない。いつ何時どうなるかは予断を許さない。とつぜんG7番外編がでたり、あるいはシリーズ名が変わるかも知れないし、パスカルやトーマが手を繋いで盆踊りをしだすかもしれない。
 今回は、作品中で他のシリーズやGシリーズに少し言及したところがあったが、森博嗣は博覧強記故にか決して作品の自己開示(難しい心理学用語を使用したが、簡単に言えば、自らのネタバレ)はしなかった。おおっ、と思ったところでセリフが曖昧(あいまい)にされた。これは、思うにこのGシリーズの最大読者が森ファンのうちでも比較的若い、初心者が多いからかも知れない。

 Muのように古い読者は、思い出すためにも、「センセ、もう一言」とつぶやくところだが、それはルール違反。こういう多重世界を描く作家は、森博嗣のように博覧強記でないと作品を上手に描き尽くせないと、思った。そこらの日曜作家だと、ついちょっと前作の結論に至る経過を自明のものとして、使ってしまう。そんなことしたら、多くの読者は、前作を読む気力が半減する。一般読者は、順番とかシリーズとかは気にしない物だ。眼前にあったものを図書館で借り、友人が薦めてくれた物を読む。気に入ったら、自分で買って、知らぬ間にディープなフアンになってしまう。そこで初めて、作品というよりも、作者の世界の順序性や構造が気になってくる。
 で、一番言及が目立っていたのは、反町愛(ラブ)チャンが活躍したθだった。

 さて、例によって、トリックがどうの、犯人がどうのなどという与太話は止めておく。森博嗣は、どう考えてもそういう世界との縁切りでGシリーズを描いてきた、と今となっては確信できる。ただし、将来どうなるかは知らない。作家は生身の人間だから、どんな天才でもシステムに瑕疵(かし:傷のこと)があるし、瑕疵を生かし切るのが才能なんだろう。だから、次作は古典的ディープなコアフアン待望の本格きらきらしい物になるかもしれない。由来、文藝作家とは、製造責任とか内容(ジャンル)責任を免れた存在だから、ファミリーカーと偽って高級スポーツカーを売りつけるなんて、稀にある。一般には、スポーツカーと偽って、ふわふわの車を売りつける物だが。逆に森博嗣はなにをするか分からない。そういう危機感をいつも抱かせる。

 とはいいながら、なにか一言、二言いわないと、MuBlog好評(笑)の読書感想文も書けなくなる。作者や出版社の言い分もそりゃあるだろうが、Muにも言い分はある。Muは人様の作品を食べては、「ああ美味しかった」「でね、なんで美味しかったか、考えてみたんだよ」「君も、食べてみないか」と、いうスタンスなんだな。だってな、Muは別の世界では、本に関係する先生をしてるんだ。つまり、読書感想文を書くのが仕事なんだよねぇ。

 真賀田四季、この人がキーになる。この人が本当はどんな人なのか、それは『四季』という森博嗣の大長編を読まないと分かりにくい。女性だ。いま幾つかわからない。天才科学者だ。その人がずっとGシリーズで見え隠れする。そしてキーワードは、死(自殺)とネットワーク世界。この二つがGシリーズ最終巻でも重要な要素になっていた。つまりは、Gシリーズとは、死とネット、この二つが織りなす夢のような世界。夢に思えるのは読者や作中人物の大半が普通の人だから、夢としかいいようがない。しかし、そういう象徴とか真賀田四季の意図を察知できる犀川先生とか、西之園萌絵さんとかは、なんらかの心の決着を付けていたり、付けようとしたりする。この二人の気持ちの処理の仕方が、世間一般では風変わりだから、その点が難しくもあり、気持が宙ぶらりんになるところだ。
 つまり、Gシリーズで出した結論は、真賀田四季と犀川と萌絵にしか納得できない可能性もある。萌絵はまだ納得仕切っていない。犀川は、そういう難しい解釈をつぶやくだけで、突き放す。

 昔、Muは、犀川を中心にして、真賀田四季と萌絵の△関係と論じたことがある。もちろん、四季は女王だし、才能においても犀川を凌駕(りょうが)している。だが、天才四季という理知的な側面にごまかされてはならない。どんな天才も恋はする。ロボットだって高級ロボットは恋して、狂う。ただ、いかにも天才らしく普通の振る舞いをしないだけなのだ。

 そろそろ結論を記す。
 ますます森博嗣の文体というか、文章が冴えわたってきた。巻頭の、数学者が事件に遭遇するまでの、風景描写とか、彼の心象風景など、言語がそのままMuの脳にイメージとして入ってきた。むしろ読者というMuの目でみているような描写だった。すごい、と思った。
 萌絵がまた旅立つ季節になった。十代のトラウマを十年経過した現在、彼女が自分自身をどのように処理するのか。そこに、たった十年で人はこれほど成長するのか、人間の成長とか「大人」になるという感触がずきずきと胸に染み込んできた。一つの事実を前にして、どれほど才能のある女であっても、十代と二十代とではまるで解釈が異なってくる。わずかなページでそういう萌絵の姿を描写仕切る森博嗣は、もう言い飽きたが、天才なんだろう。芸術家なんだろう。(そう思わないと、凡百の日曜作家は立つ瀬がなくなる)

 トーマと、萌絵の別れは迫真だった。つまり、肺腑をついた。

追伸
 肝心の「死」と「ネット世界」については、言及しないでおくことにした。それは読者が自身で考えるのがよいのだろう。あるいは、Muの謎(笑)

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コメント

Gシリーズは12作あるって、作者のホームページで言ってますよ

投稿: 名無し | 2009年4月11日 (土) 16時46分

名無しさん
「Gシリーズは12作」
 MLA記事で読んだ記憶あります。
 いま最近の出版情報をみてみたら、たしかにαで7作目でした。
 さて~

 Muは6作完結とどっかで思いこんでしまって、なぜそうおもったかの理由もわからないままに、あれ?っと思って昨年αを読んで、どっかで混乱して、2001年宇宙の旅のHALさんみたいに狂いかけて、忘れようとしている、そんな気がします。

 作家は虚構世界のひとだから、12作も確信もてないし、~。
 8作目がでたら、もしかしたら12作まであるのかと、思います。あの7作目は、あとで、実は他の新シリーズのためのもので、GじゃなくてFシリーズだなんてなったら、困るからね。

投稿: Mu→名無し | 2009年4月11日 (土) 18時10分

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