近況分析
限られた時間をうまく使おうと、十代からずっと思ってきたのだが、うまくいった達成感は少ない。決めた通りにロボット的にできるのは、最長数日間で、それが続くと疲れて飽きて他のことを妄想したり、よしなしごとに手を付けてしまう。だから、「完成」という言葉が心からわき上がるのは少ない。大抵は未完成、保留、そのうち忘れてしまう。もちろん忘れるというのは現代コンピュータとは違って、人間の上等なところだと感じてはいるが。なんでもかんでも覚えていたら、日々秒単位で約束や決めたことを履行することに、全人生が費やされてしまう。忘れもしないのに、次々と約束を破りなにもしない人も多いが、余のように常に「義務感」「責務感」に追われる仁士(笑)には、忘れるほど良きことはない。覚えている限り、ネズミやゴキブリのように走り回ることになる。
さて、自己点検。
1.夏期の論文作成
これはこの15年なんとかこなしてきたのだから良しとしよう。この季節年齢になると、もはや内容がどうの、ああのという子供じみた葛藤は少なくなる。気力、体調ととのって、夏に論文を書けるかどうかが問題なのだ。これは、よし。
2.日曜作家
遅い。年間一作は長編小説を作ろうと2000年ころから頑張ってきたが。予定では今頃七作は書いているはずなのに、公開出来ているのは犬王と蛇神のたった二作。現在、完成・未公開稿は「化石」一作。これは夏期には連載予定。現在書き出しているのが「湖底宮」、この速度だと公開は2008年。その次は、タイトル未定の妖しい嵯峨野物。そうだな「嵯峨野妖怪婆」かねぇ。この五作で探偵司書小泉佐保の冒険シリーズ完了。
次のシリーズは、あはは、ナイショ。今度はまともな青年を中心に、冒険と妖怪と、……なんとなく、底が割れていますね。
日々連載中のは! これがなかなか、プレッシャーが強い。上記シリーズとは内容も構想も全く異なるから、読者も書き手も毎日、汗を流している。しかし、始めたのだから、終わりまで連載しないとね。これを、「忘れた」と言えるほどにはまだ、達観した人生じゃない。けど、毎回「ああ、しんど」の心なり。送信し終わると、ぐったりする。
3.教育
適切に。うまずたゆまず、めげずに。~
*.その他
MuBlogを大体毎日掲載しようとしているが、これも波があって、常に倦怠感を味わうのは、掲載記事を見直して、余の世界観の狭さと浅さに気付くことだね。いや、これを自覚するための「行」と思うこともある。だいたい、人間というのは限られた世界の中で生きている。世間と言うても、毎日数人~数十人内外の人とだけ顔を合わせて生きていく。何十年間も。余なんか、それだけ長い間、人の間に生きてきても、識別できる人格は日々数人にすぎない。だから、狭くって浅い井戸の中に住んでいるカエルか小魚か、昆虫ほどの世界観しかないわけ。
ところが、ネットに記事を出すと、この二年半で、すでにサイト全体では47万アクセスに近づき、MuBlogだけでも30万アクセスに近い。これは、ゆゆしいことである。だれかかれかに、余の世界観を見られている。恥ずかしいことだが、存在の検証のためには仕方なかろう。それ以外、無いという方法を身につけてしまったのだからな。
そういうことの自覚を持つために、日々書いていこう。
ただし、これは時々「忘れた」振りをしても良かろう。
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コメント
(作家としての覚悟)
今、連載中の小説からは、そういうものが感じられますね。
今は、誰でも簡単に(小説)を公開することができますが、作家としての覚悟ができているかといえばそうじゃない。
(書くことは、銀座の街ん中を真っ裸で走れるぐらいの覚悟がなきゃ~)と、以前本物の女流作家が話すのを聞いたことがありますが、それぐらいの覚悟は必要なのだと思いました。
投稿: wd | 2007年1月20日 (土) 11時43分
なんだか、Wdさん、このコメントいただいて叱咤激励というか、怖い監督に「おまえ、今度の映画じゃ、脱げよ」と言われた新人女優のような、錯綜した思いにおそわれました(笑)。
ネットなんかで作品を公開するのは、読者が不特定というわけですね。作品というのは、大抵毒があるものです。フグ毒みたいに致命的なものもあるだろうし、またそれなくしては、本当のフグの真髄を味わったことにならない。そう言う求道美味の人にはフグは欠かせない物だけど、そんなことを知らない人や興味もない人には、毒そのものとなる。そういう塩梅が難しいです。
日曜作家は本来「犬王」とか「蛇神」の路線で行くつもりだし、それでよいと思っています。いや、そうであっても、日曜作家としてのある種覚悟性のもとに、佐保シリーズを公開したわけです。
しかし、夜麻登志になると、ちょっと読者対象が異なるわけです。作者として申すならば、犬王や蛇神は普通のファミリーカー、運転上手な人や旅の好きな方には喜んでもらえる。もちろん操作を間違うと凶器にかわりはないのですが。
でも、夜麻登志となると、これはちょっとばかり改造の激しい、ギンギンの暴走族好みの車ですから、文学凶器を操るのが好きな人以外には、まあ、事故起こしてもしようがない欠陥車すれすれ。
というわけで、欠陥改造車も作れるという自己確認ができたら、もう二度と夜麻登志宇流波斯の系列は書かないことでしょう。現にMuがずっと愛用している自動車は、普通のファミリーカーです。自動車は好きだし、いろんな所へドライブもしたいし。だから自動車を手放すことはないです。
というわけで、日曜作家の限界と覚悟性への弁といたします。
では
投稿: Mu→Wd | 2007年1月20日 (土) 12時27分