若さと言葉
若:『常用字解/白川静』
事例としてさる工場で「差異」という言葉が、22歳の従業員に分からず、彼は事態を放っておいたばかりに製品に瑕疵ができて、損害の生じたことが挙げられていた。
私がうなずいたのは自他、二点あった。
1.携帯メルは、およそ日本語からは遠い。誤字脱字、文の捻れ、言葉足らず、猿語に近い。
2.字が書けない。これは私がすでに30年来ワープロ常用なのでよくわかる。まともに書けない。
さて。
物事は自他ともにいろいろ考えてみると見えてくる。
まず今の若者だけではなくて、若いということは愚かしいことだと毎日思っている。どのくらい愚かしいかを本人達、慮外、自覚していないからすさまじい。眼をおおいたくなる愚劣さである。よくまあ、すました顔して生きておるなぁ、と私は日々思っている。
で肝要なのは、私がそうであったし、いまも年寄り達からはそうおもわれている、と感づくことが折々ある。
なぜ愚かしく思うかは、いろいろ考えた末に、それは言葉を知らないからだということに尽きる。たとえば今の青年達は、おそらくこういった私のいうことの数パーセントしか理解していないし、理解しようと努力もしないし、努力しても無理だろう。それは語彙の多寡だけではなくて、文意、行間すべての情報を含んでの上である。
かくしてそこに情報伝達のギャップが生まれる。
言葉は思考の発露である。
思考は言葉によって成長していく。
その言葉を大切にせず、身につける訓練をしないと、猿のまま老いて死んでいく。
自明である。
どうすればよいのか。別にぃ~。猿のままでよいなら、それでよいのだろう。しかし猿は猿でありヒトではない。その自覚が可能なのはヒトであることが条件になり、永遠に解けないパラドックスがある。
一日町にでて、言葉の不要さを味わう。
電車の乗降は自動券売機その他のおかげで、言葉は不要。
書店で図書を選んでも、レジで会話はない。
ラーメン屋に入っても、メニュウを指し示すだけで事足りる。
条件が整えば、終日誰とも何も話さなくても過ぎていく。
携帯は絵文字と(笑)で通じる。
言葉が無くても生きていけるような錯覚に陥る。
かくして、猿もヒトも易きにつく。
言葉を学ばなくても、読書しなくても生きていける。
かく申す私は若者言葉を知らないことで日々苦渋、汗を流している。
と、「オチ」、それで終わればこの記事の値うちが下がる。
実は。
若者同士も、ほとんど完全な情報伝達はなされていないことに気がついた。洞察力の差異によって、各人が何を見ているかがまるでばらばらなのだ。そういう者同士が何を話し合っても無理という客観的事実に直面する。
近頃亡くなられた白川静さんの言葉はおもしろい。文字、言葉の背景が縷々述べられている。「若」という一文字に込められた意味を、知っているものと知らない者とが話し合っても、なにも伝わらないなぁ、と膝を打った一瞬だった。
言葉は大切にしよう。
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コメント
昨日のクローズアップ現代は、衝撃的でした。
漢字が読めても、意味がわからない。それよりも意味を知ろうとしない現実に驚きました。
高校生の頃なんて、辞書を引く面白さってあったのになぁ・・。
知らない言葉に出会うと、辞書で引いて、その説明の中の言葉がわからないと、またそれも引いて、一冊の辞書があれば、それだけで楽しめたような気がします。
テレビの最後の方で、若者がたくさんの辞書を買い込んで、わからない言葉に出会うと辞書を引くという習慣づけをしている様子も映し出されていましたね。今からでも遅くないと思うんです。
(想像力の欠如)ということが言われていますが、それも言葉を持たないがために起こることなのかもしれないと思いました。
携帯・パソコン・電子辞書。みんな大人が子どもに買い与えたものです。
言葉を習得するべき時期に、言葉を読み、書き、覚える作業を繰り返し行うことの大切さを感じました。
今は学校の授業時間も減らされています。
私が中学の時に習った有島武郎の文章なんて、暗い難しいと教科書からはずされ、ユーミンの『春よ来い』が音楽ではなく、国語の教材として用いられています。ユーミンが用いられていることが悪いというのではありませんが、昔の子ども達より、今の子ども達は、言葉を学ぶことや覚える機会も減りつつあるのかなと思います。
投稿: wd | 2006年11月 9日 (木) 17時01分
WDさん
正論というか正面コメントありがとうございます。
ところが、実は私は漢字が書けません(と、笑いでごまかす)。これは30年間ワープロを使用していて、もうダメですね。仕方ないとあきらめております。もともと悪筆だったので、確信犯ですね。その補完として、なにやら訳の分からない旧字も読めます。
さて。私の日本語に関する日々訓練を披瀝しておきます。これだけやって、やっとほどほどなのだから、若年の遊びたい盛りの子らが易きにながれるのは仕方ないでしょうね。小中高教育での鞭の側面を強化しないと、日本語は、というよりもまともな想像力、洞察力を持った人は少なくなることでしょう(まあ、もうよいですがぁ)
1.携帯メルは、およそ日本語からは遠い。誤字脱字、文の捻れ、言葉足らず、猿語に近い。
↑推敲を重ねています。MuBlogでは投稿する前に1回、投稿してから二回。合計3回しております。それでも文章のねじれ、誤字脱字消えません。公に出す文章ですと(公式会議)5回は推敲します。
論文ですと、8回程度します。
2.字が書けない。これは私がすでに30年来ワープロ常用なのでよくわかる。まともに書けない。
↑肉筆手紙を書くのは絶無です。書けないのです(つまり、マシンと一体化してしまったサイボーグ!)
板書が困ります。だから、板書はしません。
ということで、出来ることと出来ないことを区分しています。
ただ、基本的に、まともな読書をしないと言葉は生まれません。まれな事例はあるのですが、……。
1.読書しないと言い張る有名作家がおります。しかしその人の文章は、優れています。おそらく天才なのでしょう。
2.まれに難読症の方がおられます。噂ではケネディ大統領とか、アインシュタインとか事例にあるようです。本当に、読めないようですね。
ワープロと私のことは、将来機会があれば記事にします。
以上
投稿: Mu→Wd | 2006年11月 9日 (木) 17時55分
白川静先生
94歳で先日身罷られましたね?先生の本ではしきりに祝詞を入れる器(口)の話が出てきた記憶が有ります。
巫女さんの踊る姿で何で、足が曲がってるんでしょうか?金文では座位の姿のように見受けられますが、甲骨文字では立って激しく踊る姿のようにも見受けられますね?
白川静先生は何回も、何回も甲骨文字を複写する過程で古代の人々の気持ちに触れたという、そんな話を何処かで聴きましたね。
文字は自ら書かないと、ダメなのかも知れませんね?私もパソコンで文字は書けないように退化したかも知れません。
投稿: jo | 2006年11月 9日 (木) 22時43分
文字と言葉と
重たいテーマですね。
漢字という文字の問題と、言葉が使えているかという問題と。
漢字に関してはキーボード時代には絶望的でしょうかね。
自転車の乗り方を覚えているように我々の世代ではまだ取り戻せますが。
当方などは3、4年くらい前から近場の喫茶店でノートに書きつける事で、手書き文字を書けるように維持しようとしています。
もう一つは言葉でしょうね。
漢字ということではなくて自己表現を言葉でちゃんと出来るかどうか。
これはMuさん、若いうちは難しいですよね。
高校生までは言うに及ばず、大学生になってもねえ・・・。
親への金の無心を手紙でする、とか、恋文を書いて何とか相手の心を引きつけようとか。
会社にはいって、レポートを書いて仕事を他部門にお願いする、とか。
そういう(場)が当方などの文章修行でしたねえ。
そして40歳も過ぎて、そろそろ記憶力があやしくなってきて、ああ自分の言葉を持たないとダメだと思いました。
エッセンスを一行で表現しておく。
そうしておけば、自分でも忘れないし、人にも伝わりやすい。
そんなことが分かってきたのは40歳も過ぎてからでしたなあ。
最初の一行は(ハード屋はハードに裏切られる)というものでした。
この一行で、その後ずいぶんと仕事上、救われました。
投稿: ふうてん | 2006年11月10日 (金) 00時40分
JOさん
白川先生の「若」をわざわざ写真で載せたのは、甲骨、金文、篆文(てんぶん)を伝えたかったのです。
かゆいところに手を届かせるJoさん。
つまり漢字を書けなくなった男が、それでも「書いてみたい」という郷愁に誘われるのがこれら古代中国、殷、周、秦王の時代の文字なのです。
私、あはは、半分呪術世界にいるけど、半分はものすご合理的思考の人間でしてな。味わいの薄い楷書というか、印刷文字というか、ワープロで完全に使いこなせるものを書いてもしょうがない、という気持がありまして。脳は他のことで目一杯使っているから、文字書きなんかに回せない、口述筆記でもしたいくらいです。
だけど、あの曲線、見ているだけで文字というか、絵が脳に溶け込んできそうな古代文字、素晴らしいです。あれなら書いて見たい。だから白川先生があくことなく甲骨文や金文をお書きになった気持、よう~分かります。
さて。「口」は祝詞をいれる籠みたいなもんでしょうか。白川先生の字典にはそこら中に巫女さん、祝詞、神、ひざまずくという言葉が出てきます。多分、古代中国は世界観の90%が呪術的色彩だったのでしょう。白川先生の「孔子」では、あの聡明な孔子さんが、呪の世界に生まれ育った可能性が描かれていました。
古代漢字を記すのは、宗教的な意味合いが強いのでしょうね。象形文字。よろしいな。
投稿: Mu→Jo | 2006年11月10日 (金) 06時33分
ふうてんさん
「若い者は愚劣だ」と記したのは自らの経年変化のあとをトレースした結果です。記すのも憚かるような、赤面状態の連続でした。若い頃の文章は酔っぱらったような情念怨念妄想を自動筆記したような物ばかりでした。意思疎通を図るべき対人関係も、(今でもそうかな)メチャクチャでしたなぁ。
転機は40代の頃でした。
諸事情で公開文書、論文などをものすごいスピードで書かざるを得なくなりました。学士卒論レベルの分量を月に1~2点、書くことになったのです。
その時、完全無欠の文学壮年の私の文章指導には、なんと文系じゃなくて、工学系の先生が二人つきましてな。
それこそ出すたびに、言葉の綾じゃなくて、100%の朱が入りました。ある大家は、見ている前で、私の清書した論文をハサミで切り出して、セロテープで前後冒頭結末、あっちこっち貼り直されました。
なんというか、私は時々異様な経験をするわけでして。この時、まともな文章とはどうあるべきか、開眼しました。
40代の私がもし見どころがあったとしたら(笑)、それを平静にうけいれ、「ありがとうございます」と言えた所でしょうね。今の若いもんにそんなことを私がしたら、憎悪されますよ! やれ「プライドの」やれ「そこまでされるのは耐えられない」と、叫ぶ事でしょう。あはは、洞察力の欠如でしょうなぁ~。
結果的に、ふうてんさんと同じように、40代という遅い時期に、私の文章観が生まれ変わりました。
その結果は遠くMuBlogに影響を与えていますが、なんというか青年期の酔っぱらった文書と、40代に開眼した文章とが、その日の気分で配分が異なり、いろいろです。
投稿: Mu→ふうてん | 2006年11月10日 (金) 06時57分