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2006年11月29日 (水)

酒船石遺跡(1)亀形石造物

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地図(酒船石遺跡

亀形石造物全体1 (WMV動画 5326.0K)
  平成12年に岡の酒船石の北の谷から、石敷、石段、導水施設、小判形水槽、亀形石造物が発見された。このビデオはその復元された谷の全体を撮した。
亀形石造物全体2(Mpeg4動画 6303.3K)
  復元された導水施設の音を採取し、あわせて亀形石造物の横からの姿をクローズアップした。

亀形石造物と導水施設

亀形石造物と導水施設
 この施設を始めて見たのは平成12年に発見されたその数年後だった。多くの人、そして研究者にとっても、この狭い谷の遺跡が発見されるまでは、その丘上にある酒船石は独立した「石」として扱われてきた。一世を風靡した松本清張『火の路』のころは、まだこの亀形石造物はこの世に現れていなかった。だから「酒船石」を考える時、平成12年以後は、{亀形石造物、酒船石}この二つを包括して考えていく必要がある。もちろん、独立した石造物として考える方もいる。(1)

亀形石造物(Tortoise Shaped Stone )

亀形石造物(Tortoise Shaped Stone )
 導水施設を伴った亀形石造物(水盤とする)が何のために作られたか、使われたかについては、酒船石の由来と同じく様々な考えがある。宗教的見地からは、斉明天皇も信奉したであろう道教由来のものと考えられている。縁起物とか、シンボルとしてのデザインである。しかし道教思想から古代日本の磐座信仰を伴った古神道の禊ぎは上手に浮かび上がってこない。私は丘の上にある酒船石を巨大な磐座(いわくら)と考え、谷の亀形石造物はそれに近付くための禊ぎ空間と考えている。
 庭園説からは、水の観覧庭園、祭祀場、聖空間説などがある。私は、石段や石敷を見ていると、極端に洗練化された聖空間に思えた。

小判形水槽と亀形水槽

小判形水槽と亀形水槽
 亀の前に小判形水槽があるのは、これを濾過装置としてみる考えがある。腰掛けベンチのようなものもあるので、温泉でも湧いておれば足湯場と見間違うところである。水を濾過して清い水を亀の水盤に溜める。そのために小判形水槽を繋げた。
 河上先生は亀形の方を、スッポンと断じておられる。もしそうならば、小判形の方が亀なのかもしれない。亀とスッポンと連接して、何を表現したかったのか。上面からみると、後円部が極端に大きい前方後円墳のシルエットが見えてきた。

亀かスッポンか

亀かスッポンか
 河上先生は、スッポンである理由として、指が4本しか描かれていない、丸い、亀は背中に何かを支えてシンボルになるが、この水盤は水をたたえている。スッポンと亀は古来全く別の物として扱われてきた。スッポンであるから、これを黄河の神、水の神の使徒と考えることができる。そこから五穀豊穣を願う祈年祭が浮かび上がる。と、そう書いておられた。

酒船石遺跡(酒船石途上の案内板)

酒船石遺跡(酒船石途上の案内板)
 酒船石遺跡と名付けることに河上先生は否定的だ。丘の酒船石と谷の亀形石造物とはつながらないという判断である。この考えに私は当初は不審を覚えたが、今は別の感慨がある。
 つまり、丘の酒船石はまったく別の時代に作られたのではないだろうかという憶測である。曝された経年変化にもよろうが、酒船石と亀形水盤とは石の色が違う。繊細度が違う。酒船石は原始的で、亀形、小判形水槽は文化の匂いがする。
 酒船石には、模様が刻まれ、その模様にナスカの地上絵のような趣がある。綺麗な曲線を持った亀形水槽や小判形水槽を立体物として仕上げるのと、石の平面に模様を刻み彫るのとではどう考えても同じ思想には思えない。亀形石造物はおそらく斉明天皇の意向を強く受けた作品なのであろう。祭祀場、禊ぎの水、秘密の庭園、……。いろいろ考えられるだろうが、そこに外来思想も盛り込んだ文化意思がある。7世紀という比較的新しいアジア国際世界観の上で作られたのではなかろうか。酒船石のアニミズムからは遠い。
 酒船石は、もっと古い呪術的色彩が濃い。つまり、古代そこに巨石があった。それに何らかの意図を持った模様が彫られた。やがて磐座(いわくら)として祀られてきた。斉明天皇はそれを知って、その丘の下に祭祀場を兼ねた水の庭園を造営した。私は、いまそんな風に考えている。

丘陵をとりまく石垣

丘陵をとりまく石垣
 磐座・酒船石の近くに宮殿を造り、その回りを長い石垣で囲った。両槻宮(ふたつきのみや)である。河上先生はそれを軍事施設ととらえた。飛鳥京(Mu:具体的には後飛鳥岡本宮だと思う)からの逃げ城と記されていた。
 宮殿と城機能とは合体していたのかもしれない。それが表面的実質的な機能だと思う。しかしそこに、庭石のように古代からの磐座が祀られていた。石垣は酒船石に対する結界の標し、つまり古神道の証としての瑞垣、石垣ではなかろうか。

参考文献
  (1)飛鳥発掘物語/河上邦彦.扶桑社、2004

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コメント

皇極・斎明天皇の時代

 大波乱の時代を生きた女帝でしたね、蘇我氏全盛の時代から息子のクーデター、そして、朝鮮半島の百済と新羅・唐連合軍との緊迫した情勢。

最後は、筑紫で崩御ですが、鬼が出てくる。何とも、物騒な話が多い女帝でした。

私の興味は、最初の夫である、高向王とのあいだに出来た、漢皇子ですが、どうなったんでしょうかね?

 物騒な時代に石垣で城を築くのは、至極当たり前のように思いますし、いざ、朝鮮半島への出陣に禊をするのも気持ちは判ります。

亀・スッポンは水の神でもあるから、大陸への渡航安全祈願と考えては如何でせうか?

え?浦島太郎やない!(笑) 失礼しました。

投稿: jo | 2006年11月29日 (水) 08時23分

どうも、メル返遅れました。早朝からさっきまで身動きならない状態でしたんや。

さて。その高向王との間の、漢皇子は天武天皇説が有力でしたかな?
そんなん、人の息子のことは、Muもようわかりません。

別の図書で味わったのですが、645年前後から、最後は壬申の乱にいたる年月は、日本にとって相当に危機的状況だったようですね。{唐+新羅}X百済、唐X高句麗X新羅、そして三漢と日本とは各々微妙な外交を表裏行っている。

百済完全消滅の引導になった白村江の戦いには、日本の水軍全軍が荷担し、唐に負けた。このことの未然の恐怖などを考えると、飛鳥に逃げ城説もなっとくできます。

隋は百万兵で高句麗を何度もせめ、代わった唐は10万単位の兵を朝鮮半島に差し向けて、百済+日本の連合軍を押し切ったようですね。桁がちがいますね、内戦レベルとは。

投稿: Mu→Jo | 2006年11月29日 (水) 18時12分

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