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2006年11月23日 (木)

益田岩船(ますだのいわふね)

承前:MuBlog:雨の飛鳥紀行

地図(Google)

動画:益田の岩船(MPEG4) (13889.3K)

 木幡を当日午前五時半出発、到着は七時すぎだった。人影はなかった。だが、確かにナビげーションシステムで現地まできたはずだし、益田の岩船は下から見えると思っていたが、付近の山を見上げても、まるっきりそれらしきものは無かった。結局うろうろしてしまった。
 私は益田岩船を飛鳥の範疇に入れていたが、行政区域としては橿原市になり、ガイドパネル、道表示などが明日香村ほど明確ではなく、結局30分近くうろうろしていたことになる。途中、小学校の裏で少年にきいて「お墓の上」と耳にしたので謎が解けた。
 奈良県橿原市南妙法寺町と白橿町との境界で、白橿南小学校の西側の裏山になる。
 なんのことはない通りに面したお墓の横に、日時計のようなものがあり、そこが山に登る入口だった。よく見ると階段もすこしだけ付いていた。
 登山は急な坂道を約100m、5~6分程度だった。階段を上がると道が細く草が生い茂り迷わないかと不安になった。息がきれた。

横から:益田岩船

横から:益田岩船
 この写真で、横幅が11m、奥行が8m、そして高さが5mある。高さについてはビデオで見ると実感する。上辺に穴が二つ見える。それは次の写真で明確だが、1.6m四方で深さが1.3mの四角い穴である。この穴を以て河上先生(3)は一石二室の横口穴式未完成の石槨(せっかく:遺体を納めた石棺や副葬品をまとめて入れる墓)と推定されているが、さて。別の人のもう少し詳しい説では、どうにも思い出せないのだが、皇極天皇(天智天皇の母親)が生前に石槨を作り始めたが、事情で60代に重祚(ちょうそ)なさって斉明天皇になられたので、その墓を放置したという説もあった?

上から:益田岩船

上から:益田岩船
 この益田岩船の由来についてはいくつもある。松本清張記念館で入手した松本清張「火の路」誕生秘話(1)はそれらを簡略にまとめている。清張の場合、斉明天皇の天宮という説に始まり、ゾロアスター教の拝火壇と推測されている。小説『火の路』(2)では、文庫下巻のp347で、益田岩船と兵庫県高砂市の「石の宝殿」とが同一目的で作られ放棄されたものと描かれていた。つまり、後日調査予定の「石の宝殿」は完成したなら、この益田岩船の側に運ばれて、ゾロアスター教の神殿になるという推測だった。

益田岩船現地解説

益田岩船現地解説
 文献(1)では、
 ■益田池碑台石説 「益田岩船--私考/重松明久、1983」
 ■占星台説「益田岩船考/藪田嘉一郎、1963」
 ■物見台説「岩船巨石と漢氏/北島葭江、1963」
 ■火葬墳墓説「益田岩船墳墓説/川勝政太郎、1964」
 ■天文観測施設説「益田岩船は天文遺跡か/斉藤国治、1975」
 ■石棺式石室説「石宝殿/猪熊兼勝、1977」、「今来の双墓についての憶説/和田萃、1981」
などが挙げられていた。いくつかは、以前に酒船石のことを読んだときにも、おなじパターンとしてあった。

接地部:益田岩船

接地部:益田岩船
 益田岩船は最初の写真のようにつるつるに磨き上げられた部分と、そしてこの接地部写真のように格子状の刻みとがある。意味のある模様にも見えるが、おそらく石工たちが岩をハツル際にこうした刻みを入れたのだと思った。はがれやすくなる。そして磨くのかもしれない。
 それで逆に、表側のつるつるの面が大きな面積を占めていることに、墓とすることの不審が残った。現代の墓は見えるところを鏡のようにして文字を刻み込むが、当時の古墳、天皇陵などはほとんどすべて封土で覆ってしまうように想像したからである。以前石舞台の動画を撮ったのでその印象が強い。今の石舞台は土を全部とりさった生の姿だ。石槨内部の磨き上げはよく見るが、外層・表面の石を磨き上げた部分はあまりない。

側面:益田岩船

側面:益田岩船

側面2:益田岩船

側面2:益田岩船
 私は以前から、この地に伝承となっている、空海の記念文をでっかい碑にして立てたという説に傾いている。(4)の「檜隈墓の猿石と益田の岩船/保田與重郎」にはその詳細があって、興味深い。想像を絶する大きな碑だったのかもしれない。益田池が出来たことの完成祝いである。
「この石碑の碑文は、空海の撰文並びに書と傳へられる。このことはこの巨大な石碑にさらに、偉容の絶大なものを付加した。「性霊集」にこの碑文の全文が見られるが、その文は六百字に近く、さらに四字五十六行の銘がある」(4)

 この著者保田與重郎は近くの桜井で生まれ育った人なので、現地の伝承をことのほか大切にされる。そして、益田の岩船の上に立った巨大な空海の碑は、次に私が行った高取城を造るために持ち去られたとの噂らしい。酒船石も壊されて高取城に持ち去られたらしい。実におもしろく、楽しい説だと思った。

参考
  (1)松本清張「火の路」誕生秘話/松本清張記念館、2004
  (2)火の路/松本清張、文春文庫(ま/1/30)
  (3)飛鳥発掘物語/河上邦彦.扶桑社、2004
  (4)檜隈墓の猿石と益田の岩船/保田與重郎(『飛鳥路』より)

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コメント

花崗岩

 益田岩船は花崗岩ですか?堅い石やね?これは、技術がないと削岩できない代物ですね。

しかし、飛鳥近辺は石像物の宝庫ですね。日本古来の日本海沿岸は木の文化であるのに対して、石の文化は渡来系でしょうか?

 ストーンサークルの文化は東北、北海道の北方ルートであり、飛鳥の石像文化は朝鮮半島系統でしょうね?同じく、磐井の石像物も新羅の香りがします。

益田岩船に関しては、私は松本清張さんの本しか読んでいませんが、判りません。今は石棺だと考えています。

 しかし、元気な還暦過ぎた親爺さんですね?ロマンがありますね?

投稿: jo | 2006年11月23日 (木) 19時17分

Joさん
 益田岩船の材質は正確には「石英閃緑岩」らしいです。ただ、石英を含む岩石は広義には、花崗岩らしいので、花崗岩と言ってよいのでしょう。地質学にうといので、それくらいにしておきます。

 岩石を加工しだしたのは、飛鳥時代が一番流行ったのでしょうね。渡来人が中心だと思います。ほとんど三韓の人なんでしょうね?

 古墳には、いろいろな石が使われていたから、ずっと昔からなんでしょう。滋賀県の石工で著名な穴太(あのう)は、新羅系をご先祖に持つようですよ。

 ところで年齢には実年齢と脳年齢があって、後者は私、19くらいなんです(本当のようです)。いろいろ操作、自己暗示をかけて、やっと三十代半ばです。だから、元気というよりも、自然に、激情にかられて早朝から走り回るのです。
 なんとかの、冷や水、という陰口もあるのかないのか~。

 JOさんこそ若すぎる。
 ベトナム探検なんだから(笑)

投稿: Mu→Jo | 2006年11月23日 (木) 21時42分

初めまして、たんぽぽと申します。

ちょっと、教えて頂いても宜しいでしょうか?

現在奈良県に住んでおりまして、今度、益田岩船を一人で観に行きたいと思っているのですが、女性一人でも危なくない道なのでしょうか?

何年か前に近くに住んでいたので、この公園まで行ったことがあるのですが、確か、不気味な道だったような気がするのですが・・・?

その時は、まだ、今ほど巨石には興味が無かったもので、直ぐに登るのを諦めました。

突然、変な質問に来て、申し訳ありません。m(_ _)m

遺跡に興味のある友人が近くにいないもので、何でも、一人で行動しなくてはいけないもので・・・。

お返事、何卒、宜しくお願い致します。

投稿: たんぽぽ | 2010年1月 7日 (木) 23時27分

はじめまして、たんぽぽさん

 日時計のある公園をご存じなら、簡単に上れます。
 ただし、雨上がりの後は地面が粘土状で危ないですから、避けた方がよいです。

 道はあるのですが、雨水などで削られていて、約30~50センチの段差で、足を上げる必要があります。ズボンと運動靴でないと、しんどいです。

 別の危険を感じるなら、朝から昼がよいでしょう。

 昔、松本清張の「火の回廊」では、20代の大学女性助手が一人でうろつく場面設定が、小説・TVドラマでありました。だから、普通の、ちょっと急な散歩道程度でしょうか。

投稿: Mu→たんぽぽ | 2010年1月 8日 (金) 12時12分

わあ。有難いです!
まさか、こんな風に詳しく教えて頂けるとは!感謝いたします。

ズボンとズックは、いつもの私の服装ですので、そちらの方はバッチリです。

今年は、三輪山にも一人で登る計画があるのですが、どうしても、女性ということで、山となると、少し躊躇してしまいがちで、それにしても、勉強になります。松本清張さんも、そんな内容の小説を書かれていたなんて、全く知りませんでした。

とても勉強になることが多いので、これを機会に是非、こちらのブログをチョクチョク拝見させて頂くことに致します。

益田岩船は昨年から興味があったのですが、なんだか、不気味なような気がして躊躇しておりました。

まさか、こんな風に詳しく教えて頂ける方と出会えるなんて思ってもいませんでした。

それに、後から分かったのですが、同じココログで書かれていたのですね。

いつになるか分かりませんが、岩船を観て来た時には、また、ご報告に上がらせて頂きます。

もしかすると、普通の知識人が観られたら、驚くようなとんでも無い記事を書いている可能性もありますが。r(^ω^*)))

本当に、有難うございました!(゚ー゚)

投稿: たんぽぽ | 2010年1月 8日 (金) 12時42分

こんばんは。

先日、益田岩船の道について教えて頂きました、たんぽぽと申します。

先週の金曜日に、無事、一人で行って来ることが出来ました。有難うございました。

記事を書いてから、こちらへお礼に来ようと思っておりましたので、今日になりました。

私は、いつも、ハチャメチャなことも自分の感ずるままに書いたりしておりますので、お恥ずかしいのですが、一応、ここに記事のアドレスも一緒に貼らせて頂きたいと思います。

http://miihyann.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-7337.html

凄く感動致しました!ご親切に教えて頂いたことにより、なんだか背中を押して頂けたようで、あの時、ここに辿り着けて良かったです。

有難うございました。(*^-^)

投稿: たんぽぽ | 2010年1月26日 (火) 22時33分

たんぽぽさん
 うまくたどり着いたようですね、祝!
 しかしこのごろの歴女は一般に江戸時代、戦国時代、幕末が中心ですが、たんぽぽさんのように、古代日本に興味を持たれる方は稀少と思います。歴男は、意外にMuのようなのがごろごろおります。邪馬台国ロマンなどは、若い頃の卑弥呼を想像しているのじゃなかろうか、と邪推するくらいに、男子が多いですね。

 御記事を二つ拝読いたしました。
 びりびりと現地の様子が伝わる迫力でした。
 途中一瞬「この道でよいのだろうか?」と、心中空白になりますが、その心と同じ様子が書いてあったので、拍手しながら読みました。

 今後ともおもしろい記事を書いてください。
 ただ、十分に気をつけてください。太くて鉄芯の入った杖を用意し、あらかじめ杖術を練習しておいた方が、今後の探検に心強いと思います。

投稿: Mu→たんぽぽ | 2010年1月27日 (水) 00時50分

たんぽぽです。こんにちは~。

MUさんのようなお方に、ワタクシのような惚けた者のブログを真剣に見て頂けたなんて、今、お返事を読ませて頂いて、とても驚きました。と、共に、感動と感謝です。

有難うございます。(*^-^)

私も、古代日本に興味を抱き始めたのは、まだ、最近のことなのです。ですが、この日本に、今とは、まったく違った文化があったりですとか、また、どのような人達がどのような思いをもって暮らしていたのか?などなど、計り知れないほどの想像心をかき立てられ、追求していると、とても楽しいです。

橿原考古学博物館の方へも昨年、初めて訪れて、とても感動しました。

もっともっと、遺跡の方も、今年は、どんどん出てくると良いのにな~。って思っているのですが、邪馬台国は特に気になります。卑弥呼は謎めいて興味津々です。

それから、杖のアドバイス、有難うございます!本当に、その通りですね。

これから、もっともっと、本格的に見て回るとなると、杖は必需品になるかも知れないです。

事故や事件の防止になりますものね。いつも的確なアドバイスを有難うございます。o(_ _)oペコッ

では、また、拝見させて頂きますね!(゚▽゚*)

投稿: たんぽぽ | 2010年1月27日 (水) 15時53分

突然失礼いたします。
30年ほど前、岩船の近所に住んでいたものです。
ネットで調べてたところ、この場所にたどり着きました。

昔は良く岩船の上で遊んでいました。
写真では竹林がうっそうとしていますが、昔は岩舟から団地が
見渡せるようになっていたんですよ。
山の真下は小学校があり、私もそこの学生でした。

岩の上には写真に写っているとおり四角い穴が2つ開いており
いつも雨水が溜まっていました。で、その水の中には死者がいて
悪戯をすると引きずり込まれると聞かされ怖かったのを覚えています。
また、岩の上には小判の形の凹みがあり不思議に思ったりしていました。
この事を知っているのはあまりいないかもしれませんね。(ちょっと自慢!)

本当に懐かしく昔を思い出すことが出来ました。
ありがとうございました。

投稿: 元住人 | 2010年5月29日 (土) 00時38分

 元住人さん。
 そんなに昔にお詳しいのは、地元の強みですよ(笑)
 私は30代前後に行ったことがあるのです。記憶はほとんどゼロですが。
 もっと開けていました。
 そしてTVドラマでも見ました。考古学女性研究者卵が迷うこともなくすたすたとたどり着いておりました。
 10年後が恐いですね。
 道も消えていたりして。
 それにしても、この記事にはいろいろな漂流者が来られて、賑わいがあります。不思議。

投稿: Mu→元住人 | 2010年5月29日 (土) 13時54分

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