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2006年11月26日 (日)

高取城(たかとりじょう)

承前:MuBlog:雨の飛鳥紀行
地図(Google):高取城跡
動画
 高取城・登山 (mpeg4 7088.1K)
   自動車は城内までは行けません。
   道の終わりから徒歩ですが、急坂でした。
   途中の眺望もよいです。
 高取城・城内 (mpeg4 15542.6K)
   ここ数年に改修した石垣もありましたが、
   大半は昔からの物でした。
   思った以上の広さがあって、広場もありました。
 高取城・石垣 (mpeg4 9650.0K)
   大和中の古跡、古墳からかき集めたと噂される石が、
   苔むした中に見られます。
   酒船石の断石や益田岩船の断碑も移ったと言われますが、
   それを識別発見することは難しいです。
 高取城・景色 (mpeg4 8473.3K)
   城跡、紅葉黄葉と石組み、そして眺望。行楽に最適です。
   ただし、日曜の早朝、無人でした。

 2006年11月19(日)の早朝8:10に橿原市の益田岩船を出発した。朝まだき。高取城の本丸登山口に到着したのが8:45で約30分、実走距離で13km前後だった。無人だったが数分後に大阪ナンバーの四駆がRSの後ろに到着した。「一体この人、こんな早くに何をしに?」と自問自答したが、相手の男性もそう思ったことだろう(笑)。(「なんで、京都ナンバーのちっこい車が~」と) 男性はすたすたと山を登っていった。私もしばらくして坂の途中でビデオをまわしていると、もう下山してきた。挨拶を交わした。後で思ったが、おそらく紅葉を確認したのだと思う。一人でさっと行ってさっと戻る様子からみて、相当にこの道の、手練れの人なのだろう。

高取城からの大和眺望

大和眺望
 まず高取城の由緒来歴を忘れてこの眺望を見てみたい。地図では北西方角の橿原(かしはら)・當麻(たいま)と、西の葛城・金剛山の連峰だと思う。雨天の山々は雲が霞のように細かく漂っている。雨上がりの、標高584mの高取山から見た絶景だった。

高取城址(碑)

高取城址(碑)
 高取城は14世紀に大和の越智(おち)氏が築いた。こういう山城をこの地に何故築城したのかは戦略的に私には分かりずらい。だが、後述する保田與重郎によれば南北朝関係の城として見られている。すると、吉野を守る為とも思えた。たしかに地図では、高市郡高取町に南接して吉野郡大淀町や吉野町がある。

 越智氏の後、16世紀には豊臣秀長(秀吉の弟で郡山を治めた)の臣下・本多氏が対鉄砲戦などを考えて相当に手を加え近世山城として完成させた。その後17世紀からは植村氏が幕末まで居城とした。現在は、日本百名城に選ばれている。(3HP)

古い石塁

古い石塁
「高取城は城内(ニノ門より内)と郭内(釘抜門より内(こちらの「札の辻」項参照))に分けられる。城内は、約10,000平方m、周囲約3Km、城郭は約60,000平方m、周囲約30Kmという広大な物で、山城としては日本一であろう。」(1HP)とあった。

 たしかに広い。高取山ひとつがまるまる城というおもむきだった。山城として屈指のものなのだろう。広いので閉塞感はなく、居住空間も豊かに取れたはずだ。籠城すれば難攻不落の城になっていただろう。城跡に立つと、ここはかりそめの砦というものではなく、安定した堅城と思えた。

高取城之図

高取城之図
 河上邦彦先生(きやすく引用していますが、未知の方です(笑))が30数年前に「石垣の内に文字がある」と聞いて高取城に登った。そして「高取城の築造の時、石垣の石材は古墳の石室がその採石場となってしまったのである。鬼の俎(まないた)や酒船石に現在残っている石を割るときの矢跡」(1)~ そして、私もその矢跡をいたるところで見た。

 こういった石材は主にカーブ、直線の美しい隅石部分に使われていた。掲載動画の「高取城・石垣」にもそれが見られる。高取城の図を見ると広大で、石垣の数も数え切れない。越智氏か、あるいは豊臣家の本多氏か、大和の古墳を次々と切り崩してこの城を造ったのだろう。中世に箸墓が砦になったのだから、そういう急ぎ働きが繰り返されたのかも知れない。だからこそ、この高取城は貴重な遺産として残した方がよいと思った。もし解体修理するときが来ても、石ころ一つ慎重に扱わねばならないだろう。本丸石垣のどこかに失われた酒船石の断石や、益田岩船の断碑が埋もれているかも知れない。

高取城沿革

高取城沿革
 写真を拡大すれば奈良県教育委員会による詳細な沿革が分かる。
 ここで、その創築した越智氏と南北朝について、保田與重郎の説を合わせて記しておく。文献(2)によれば、「高取城は、飛鳥の南、里餘(Mu注:4キロあまり)ほどの山城、南北朝の頃、越智氏ここに拠り、つねに南朝第一の藩屏(Mu注:南朝の守護者)に任じた。合一の後も南帝の御遺裔(Mu注:南朝皇家子孫)を奉じて節を變へず、その終焉は應仁の亂にまでつづいた。即ち文明三年越智氏の奉ずる南帝最後の御遺裔は、西軍の主として京師に迎へられ、東軍の奉ずる内裏に對して、西軍名分上の主上とならせらる。ここに於て後の南朝は終つたのである。(Mu注:南朝・西軍の主としてとは、小倉宮の王孫か? 「南北朝時代史/田中義成」でも詳細不明)(3)」)

 保田は越智氏が後南朝の小倉宮・王孫を奉じたと記している。別途捜せば詳細があるかもしれないが、私はこの山城の位置と堅固さを見て、そもそもの始まりは応仁の乱前後の騒乱渦中にあって越智氏自家存続を願い、そして南朝聖地吉野を守る南朝贔屓によって造られたと思った。話は、雨上がりの眺望に似て霞んでくるのだが。

無事なRS

無事なRS
 曇天の古城を歩き回るのは実に楽しかったが、さすがに経験則から危険を察知して長居をさけた。登城するまでは降っていたし、また降り出しそうな天候だった。携帯電話はアンテナが立っていたが、足でも滑らせると大ごとになる。疲れぬ前に用心深く慎重にじっくりと下城した。

 RSは待っていた。さらわれることもなくそこに居た。ほっとした。分かってはいるが長年余程に自動車依存心が強い。しかし実質的に全天候型移動シェルターの機能を果たすのだから、私にとっての探検調査必須ツールだと思っている。観光とか健康ハイキングの気持は薄い。
 登城口を出たのは、午前10時だった。169号線清水谷に出るまでは行き交いが困難な、完璧なワインディングロードだったので時速は20~30に押さえた。行き先は、直線で北行4kmに位置する「岡の酒船石」だった。実走では12kmほど離れている。

参考HP
  (1HP)高取町観光ボランティアの会:高取城
  (2HP)高取城CG再現プロジェクト/奈良産業大学
    ↑(依頼主:奈良県高取町のボランティア団体「たかとり観光ボランティアガイドの会」)
  (3HP)日本百名城/日本城郭協会
参考文献
  (1)飛鳥発掘物語/河上邦彦.扶桑社、2004
    ↑21章「石を転用するために潰された古墳……高取城の石垣」
  (2)檜隈墓の猿石と益田の岩船/保田與重郎(『飛鳥路』より)
  (3)南北朝時代史/田中義成.講談社学術文庫334(底本は大正11年1922年)

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コメント

はじめまして(^^)たろと申します。
スサノオノミコトやニギハヤヒさまのことを調べていた時にみせていただいて以来、お勉強させていただいております。「やまとしうるはし」というタイトルの連載を始められたのですね。実は、ちっちゃいブログなのですが、私もこの春からこのタイトルをいただいております。まだまだ未熟でお恥ずかしいかぎりですが(*^^*)。そのことをブログでも紹介させていただきました。事後報告ですみません。
今朝の朝日新聞のテレビ欄の裏に、高取城のCG復元図がありました。秀長のお城跡近くに住んでいますので新聞に魅入っていましたら、こちらのブログにもっと詳しく載せておられて感激しました。
ブログも小説も楽しみに読ませていただきたいです。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

投稿: たろ | 2006年11月27日 (月) 09時09分

 立派な城で驚きました!

 しかし、立派な石垣ですね、石棺と思われる石材が二箇所見受けられましたね。

益田岩船、酒船石、高取城石垣とMuさんの関心はこの石材にあるのでしょうね?

しかし、よく登られました、荒い息使いが聞こえました。

投稿: jo | 2006年11月27日 (月) 12時54分

たろさん、はじめまして。
 秀長のお城というと、郡山なんでしょうね。
 やまとしるはしblogを、探し当ててちょっと拝見しました。
 高取城のCC復元については、HPを見て知りました。高取町の人たち、頑張っておられるようですね。
 奈良の飛鳥近辺は高校時代から良く行きましたが、定住者ではないので、漏れがおおいです。blog同名のよしみで、これからもよろしく。

投稿: Mu→たろ | 2006年11月27日 (月) 17時25分

Joさん、今回は特定の目的と言うよりも、積年の思い、果たせなかった高取城を我が目に、というノリでした。
 以前からずっと行きたかったのですが、飛鳥から南行直線わずかに4km、その距離が躊躇させたのです。
 なんとも伝えにくいのですが、ついちょっと目の前にあるのに引き返す、そういう心ですね。

 完全な山城でした。さっき引用(2HP)のCG再現も見てみましたが、山中に忽然と現れ出た巨大な城、いやはやものすごいです。

投稿: Mu→Jo | 2006年11月27日 (月) 17時41分

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