« 2006年10月 | トップページ | 2006年12月 »

2006年11月30日 (木)

酒船石遺跡(2)岡の酒船石

承前:MuBlog:雨の飛鳥紀行 {益田岩船、高取城、酒船石遺跡}
承前:MuBlog:酒船石遺跡(1)亀形石造物
地図(酒船石

酒船石(1)丘の道、地盤、全景:Mpeg4動画 (9737.7K)
  岡の酒船石は、丘陵にある。酒船石が最初からここにあったのかどうかは知らない(在ったと想定している)。地盤が気になる。岩が土から覗いている。すでに本居宣長は旅日記に酒船石の記録を残している。
酒船石(2)全景と欠損箇所:Mpeg4動画 (10923.8K)
  表面の独特の模様は明確に残っているが、長辺の左右の欠損は激しい。この断石が高取城にあるかと思うと呆然とする。仮に、磐座(いわくら)を構成するもっと小さな付帯岩がいくつもあって、それはそのまま運ばれたのかも知れないと夢想した。

酒船石のやじろべえ模様

酒船石のやじろべえ模様
 わたしはあえて「岡の」と酒船石を修飾してきた。これは、実はこの著名な酒船石だけではなく、あと二つの酒船石がある。松本清張が『火の路』で中心に描いたのがこの岡の酒船石で、あと一つも作品に現れている。それは「出水の酒船石」と呼ばれ、その一部は京都市の岡崎の個人宅にあるらしい。お家の名前もわかっているが、なんとなく多くの文献や、松本清張も表記しなかったので、ここでも伏せておく。遺物の行く末には波乱がつきもののようだ。
 他には栄山寺(奈良県五條市)で戦前に似たような模様の石が在ったらしいが、発見されて後に工事のために爆破された。もったいない。詳細は「大和志」V6(1)1939年に、猪熊兼繁氏が記事をのせている。これはまた猪熊兼勝「酒船石」『明日香風』(4)1982年として報告がある。

史跡・酒船石(さかふねいし)昭和2年4月8日史跡指定

史跡・酒船石(さかふねいし)昭和2年4月8日史跡指定
 この独特の模様を持った岡の酒船石の用途、由来については様々な人が説をたててきた。最近では別掲の「亀形石造物」を包含した丘陵全体の意味から考えることが多い。そうすると、斉明天皇への関わりが強くなり、祭祀、庭園の中で捉えるのが有効になるだろう。もちろん、独立した酒船石を考える人もいるし、私も当初は丘と谷とを全体として考える方向を取っていたが、今回の調査撮影で「酒船石」独立説に傾いてきている。
 要するに、亀形石造物と岡の酒船石は時期も用途も異なるものだろうという、推理である。それはデザイン、雰囲気上の直感からだが、少なくとも人工物には作る関係者の意志があって、そういう意志の違いを人工物を見て考えるのは非科学的とは思わない。仏教寺院とキリスト教会と神社とでは、あきらかに造る関係者の意志が異なり、それが眼前の人工物(建築)の違いとなって現れている。

酒船石の用途説
 ともかくざっとこれまでの酒船石に関する説をリストアップしておく。
1.江戸時代 『古跡略考』、本居宣長『菅笠日記』などに酒船石が現れている。当時の地元では、濁り酒を溝に流すことで清酒にするという伝説があった。酒船石という名称の淵源はそこにあったのだろうか?
2.昭和初期『飛鳥誌』では、大規模な燈油製造器説がある。これは岡の酒船石、出水の酒船石、車石などを組み合わせたものとして想定されている。
3.松本清張『火の路』と大麻酒造説(ハオマ精製)。これはゾロアスター教との関係で小説に描かれているのだが、内容の考証が明確なので、当時の世間で注目を集めた。
4.いろいろな説があった。
 辰砂生成説(酒船石を水銀朱の採取の為の器とみる)
 天文観測機器説(暦の機能か)
 浄水装置付水道説
 饗宴観賞用仕掛石
 ……
*Mu説
 私は、この岡の丘にある酒船石の原形を亀形石造物とは切り離して考え、岡の酒船石は飛鳥時代以前の磐座と思う。
 ただし模様の溝の彫り方が精緻なので、これは石工という概念、つまりノミなどの道具を必要とするから、主に三韓から渡来した技術者によって彫られたとする。これは石細工がいつごろから在るのかを調べる必要もある。たとえば古墳の石棺などの製造技術と比較して考える必要があろう。
 模様は無意識に「やじろべえ」、と私は記しているので脳裏には「ヒト形」があったのだろう。呪術的に見える。少なくとも、谷にある亀形石造物とは異なる意識で造ったと考える。
 そして、想像だが、この酒船石一つではなかったはずだ。酒船石の地盤は、調査報告がもしあればはっきりするだろうが、自然な岩盤が露出しているように見えた。つまり、磐座とイメージしたのは、自然石がいくつもあって、その中にひときわ大きな酒船石があったと、思うわけである。
 庭というには、呪術的側面が強い。最初は磐座として祀られていて、それに斉明天皇の強い意志がはたらいたのだろうか。あるいはそれ以前、縄文時代のアニミズムの結果が、この特殊模様なのだろうか。不明。

酒船石・欠損断面

酒船石・欠損断面
酒船石・やじろうべえ模様の右側欠損
酒船石・やじろうべえ模様の右側欠損

 酒船石の模様は写真のように欠けている。しかしもともと左右対称なので、イメージとしては完全なものが浮かんでくる。実際はわからない。もしも、高取城の石垣にその部分があって、すべてを回収してジグソーパズルのように組み立てたならば、また新たな説も生まれるかも知れない。
 ただ、長い歴史の中で高取城の石垣にも苔むした中に古の人たちの想いがこもっている。酒船石復元が大切なのか、高取城石垣保存が大切なのか、というような二者択一はしたくない。あるがままでよいだろう。
 と、いいながらも(笑)。
 もしも地震などで高取城石垣が一部決壊し、そこに岡の酒船石の断石が現れて出たならば、それこそ天佑。
 ……。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年11月29日 (水)

酒船石遺跡(1)亀形石造物

承前:MuBlog:雨の飛鳥紀行 {益田岩船、高取城、酒船石遺跡}
地図(酒船石遺跡

亀形石造物全体1 (WMV動画 5326.0K)
  平成12年に岡の酒船石の北の谷から、石敷、石段、導水施設、小判形水槽、亀形石造物が発見された。このビデオはその復元された谷の全体を撮した。
亀形石造物全体2(Mpeg4動画 6303.3K)
  復元された導水施設の音を採取し、あわせて亀形石造物の横からの姿をクローズアップした。

亀形石造物と導水施設

亀形石造物と導水施設
 この施設を始めて見たのは平成12年に発見されたその数年後だった。多くの人、そして研究者にとっても、この狭い谷の遺跡が発見されるまでは、その丘上にある酒船石は独立した「石」として扱われてきた。一世を風靡した松本清張『火の路』のころは、まだこの亀形石造物はこの世に現れていなかった。だから「酒船石」を考える時、平成12年以後は、{亀形石造物、酒船石}この二つを包括して考えていく必要がある。もちろん、独立した石造物として考える方もいる。(1)

亀形石造物(Tortoise Shaped Stone )

亀形石造物(Tortoise Shaped Stone )
 導水施設を伴った亀形石造物(水盤とする)が何のために作られたか、使われたかについては、酒船石の由来と同じく様々な考えがある。宗教的見地からは、斉明天皇も信奉したであろう道教由来のものと考えられている。縁起物とか、シンボルとしてのデザインである。しかし道教思想から古代日本の磐座信仰を伴った古神道の禊ぎは上手に浮かび上がってこない。私は丘の上にある酒船石を巨大な磐座(いわくら)と考え、谷の亀形石造物はそれに近付くための禊ぎ空間と考えている。
 庭園説からは、水の観覧庭園、祭祀場、聖空間説などがある。私は、石段や石敷を見ていると、極端に洗練化された聖空間に思えた。

小判形水槽と亀形水槽

小判形水槽と亀形水槽
 亀の前に小判形水槽があるのは、これを濾過装置としてみる考えがある。腰掛けベンチのようなものもあるので、温泉でも湧いておれば足湯場と見間違うところである。水を濾過して清い水を亀の水盤に溜める。そのために小判形水槽を繋げた。
 河上先生は亀形の方を、スッポンと断じておられる。もしそうならば、小判形の方が亀なのかもしれない。亀とスッポンと連接して、何を表現したかったのか。上面からみると、後円部が極端に大きい前方後円墳のシルエットが見えてきた。

亀かスッポンか

亀かスッポンか
 河上先生は、スッポンである理由として、指が4本しか描かれていない、丸い、亀は背中に何かを支えてシンボルになるが、この水盤は水をたたえている。スッポンと亀は古来全く別の物として扱われてきた。スッポンであるから、これを黄河の神、水の神の使徒と考えることができる。そこから五穀豊穣を願う祈年祭が浮かび上がる。と、そう書いておられた。

酒船石遺跡(酒船石途上の案内板)

酒船石遺跡(酒船石途上の案内板)
 酒船石遺跡と名付けることに河上先生は否定的だ。丘の酒船石と谷の亀形石造物とはつながらないという判断である。この考えに私は当初は不審を覚えたが、今は別の感慨がある。
 つまり、丘の酒船石はまったく別の時代に作られたのではないだろうかという憶測である。曝された経年変化にもよろうが、酒船石と亀形水盤とは石の色が違う。繊細度が違う。酒船石は原始的で、亀形、小判形水槽は文化の匂いがする。
 酒船石には、模様が刻まれ、その模様にナスカの地上絵のような趣がある。綺麗な曲線を持った亀形水槽や小判形水槽を立体物として仕上げるのと、石の平面に模様を刻み彫るのとではどう考えても同じ思想には思えない。亀形石造物はおそらく斉明天皇の意向を強く受けた作品なのであろう。祭祀場、禊ぎの水、秘密の庭園、……。いろいろ考えられるだろうが、そこに外来思想も盛り込んだ文化意思がある。7世紀という比較的新しいアジア国際世界観の上で作られたのではなかろうか。酒船石のアニミズムからは遠い。
 酒船石は、もっと古い呪術的色彩が濃い。つまり、古代そこに巨石があった。それに何らかの意図を持った模様が彫られた。やがて磐座(いわくら)として祀られてきた。斉明天皇はそれを知って、その丘の下に祭祀場を兼ねた水の庭園を造営した。私は、いまそんな風に考えている。

丘陵をとりまく石垣

丘陵をとりまく石垣
 磐座・酒船石の近くに宮殿を造り、その回りを長い石垣で囲った。両槻宮(ふたつきのみや)である。河上先生はそれを軍事施設ととらえた。飛鳥京(Mu:具体的には後飛鳥岡本宮だと思う)からの逃げ城と記されていた。
 宮殿と城機能とは合体していたのかもしれない。それが表面的実質的な機能だと思う。しかしそこに、庭石のように古代からの磐座が祀られていた。石垣は酒船石に対する結界の標し、つまり古神道の証としての瑞垣、石垣ではなかろうか。

参考文献
  (1)飛鳥発掘物語/河上邦彦.扶桑社、2004

| | コメント (2) | トラックバック (2)

2006年11月28日 (火)

晩秋の嵐山と初冬の鴨なんば、そして三波春夫

晩秋の嵐山

晩秋の嵐山
 今日は大学の祝祭日で授業がない。キャンパスにも人影はまばらだった。カレンダーを見ると11月末の平日。嵐山には最近出向いていないので行って昼食をとることにした。春と秋の嵐山は極早朝か夕方でないと、人も車も身動きならない。だが、今日は大丈夫だろうと思って出た。空いてはいたが中心に近づくと混んでいたので抜け道をつかって、嵯峨野某蕎麦処に出向いた。

初冬の鴨なんば

初冬の鴨なんば
 鴨なんばは十一月中頃から三月中頃までの季節限定だ。どんな鴨を使っているのかは店に聞いていない。味がよければそれでよし。鴨も鳥なんばのカシワも余の記憶では、いわゆる「地どり」の味がする。あぶらがのっていて、味わいが深い。すかすかしたものと比べて丁度その反対の極致である。今日もダシを飲み干した。元気がでた。

 今日の葛野記はこれでおさめるつもりだった。祝祭日・節句働きなりにToDoリストは長い。しかし、実は今日意外な事実を知った。情報源はTV(音だけの)だった。NHKだ。三波春夫の思い出を作家の森村誠一が語っていた。
 余は途中からだったので最初を聞き漏らしたが、森村先生は三波春夫の全歌謡からベスト4を選んで解説されていた。4番目は聞いていないのだが、ベスト3は解説と三波春夫の歌声を耳にした。
 軽くネタバレとも思うが、書いてしまうと。
 1.チャンチキおけさ
 2.大利根無情
 3.雪の渡り鳥
 だった。
 感動したのは、「2.大利根無情」への思いを切々と森村先生が語っていたことだ。鳥肌だつ、という表現だった。セリフ「止めてくださるなぁ」はたしかに身体が震える。余は三波春夫の多くを愛好しているが、絶唱「大利根無情」の平手造酒(ひらて・みき)には血涙をしぼった。昔、腰の曲がったよろよろした高齢女性たちが、金銀錦の舞台をみて三波の声を聞くと本当に腰がのびて元気になったという神話がある。事実だったんだろう。我が父が麻雀パイを握ったとたん元気になったのと同じことだ。
 森村誠一先生の作品は以前いくつも読んだ。近いうちに、新装なった活字の大きい文庫を買って読み直そうと思った。余は20代末から大利根無情に人生を重ね、その重厚な三波の男道に心の鬱を解いてきたのに、この歌を今日の森村先生のように称揚した方はいなかった。森村先生の一言一言が胸をついた。

 ということで、余もときどき世間の中に、ずれだけじゃなくて、「おお」と思う同心を味わうこともある。
 ただ。それだけのことだ。
 しかし、それが重い。

追伸
 そういえば、「二十世紀少年」でも三波春夫さんがモデルになっていて、鋭い切り口を見せていた。浦沢直樹も同好の士かもしれない(笑)。
 森村誠一「公式サイト」があった。あれれ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月27日 (月)

うとうとと早寝:blog異変

 夕食後気がついたら眠ってしまっていた。これは表現として文法ミスではないが意味的にはおかしい。正確には、「そのことに、さっき目覚めて気がついた。」と、書くべきだ。
 というわけで、起きてしまった夜の11時前後に。このまま眠るのもじゃまくさいので一筆したためておく。
 先週まで低迷していたblogアクセスが、数日前から急激に騒がしくなった。キーワードは、「しる幸 京都」だった。

解析ページ        訪問者/アクセス
 1 MuBlog: トップページ 19 83
 2 MuBlog: 勤王志士・古高俊太郎邸跡と、しる幸:私の京都・河原町通{四条→三条} 52 76
 3 MuBlog: 登喜和(ときわ)のステーキと春の京北周山町 4 35
 4 MuBlog: 高取城(たかとりじょう) 6 21
 5 MuBlog: 地図の風景 12 14
 6 日々30: 「しる幸」は古高邸跡だったのか 7 12
 6 日々: 登喜和のメニュー 3 12
 8 日々: 登喜和の店内 2 10
 9 MuBlog: 姑獲鳥の夏:うぶめのなつ(映画) 6 9
 9 日々2: ダ・ヴィンチ・コード/ロン・ハワード監督 (映画パンフレット) 9 9

 今日一日で関係blog全体の数値は、 アクセス数:803、訪問者数:325、となっていた。上記リストの1「トップページ」と4「高取城」とは、ほぼおなじ内容「高取城」を指していて、これは最新記事だから理解できるが、他の、しる幸や登喜和ステーキや、 まして昨年夏の「うぶめのなつ」となると、理解しがたい。MuBlogは過去遡及タイプblogを標榜してきたが、数ヶ月前や昨年の記事にアクセスが増えると、おや?、となる。原因は不明だ。
 blogはまるで生命体とか天候のように思えることが多い。いつなんどきどんな変化を見せるのか、分からないことがたびたびある。今夜はその極端な夜だった。

 さて。
 分析しようと思ったが、そろそろ眠くなってきた。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年11月26日 (日)

高取城(たかとりじょう)

承前:MuBlog:雨の飛鳥紀行
地図(Google):高取城跡
動画
 高取城・登山 (mpeg4 7088.1K)
   自動車は城内までは行けません。
   道の終わりから徒歩ですが、急坂でした。
   途中の眺望もよいです。
 高取城・城内 (mpeg4 15542.6K)
   ここ数年に改修した石垣もありましたが、
   大半は昔からの物でした。
   思った以上の広さがあって、広場もありました。
 高取城・石垣 (mpeg4 9650.0K)
   大和中の古跡、古墳からかき集めたと噂される石が、
   苔むした中に見られます。
   酒船石の断石や益田岩船の断碑も移ったと言われますが、
   それを識別発見することは難しいです。
 高取城・景色 (mpeg4 8473.3K)
   城跡、紅葉黄葉と石組み、そして眺望。行楽に最適です。
   ただし、日曜の早朝、無人でした。

 2006年11月19(日)の早朝8:10に橿原市の益田岩船を出発した。朝まだき。高取城の本丸登山口に到着したのが8:45で約30分、実走距離で13km前後だった。無人だったが数分後に大阪ナンバーの四駆がRSの後ろに到着した。「一体この人、こんな早くに何をしに?」と自問自答したが、相手の男性もそう思ったことだろう(笑)。(「なんで、京都ナンバーのちっこい車が~」と) 男性はすたすたと山を登っていった。私もしばらくして坂の途中でビデオをまわしていると、もう下山してきた。挨拶を交わした。後で思ったが、おそらく紅葉を確認したのだと思う。一人でさっと行ってさっと戻る様子からみて、相当にこの道の、手練れの人なのだろう。

高取城からの大和眺望

大和眺望
 まず高取城の由緒来歴を忘れてこの眺望を見てみたい。地図では北西方角の橿原(かしはら)・當麻(たいま)と、西の葛城・金剛山の連峰だと思う。雨天の山々は雲が霞のように細かく漂っている。雨上がりの、標高584mの高取山から見た絶景だった。

高取城址(碑)

高取城址(碑)
 高取城は14世紀に大和の越智(おち)氏が築いた。こういう山城をこの地に何故築城したのかは戦略的に私には分かりずらい。だが、後述する保田與重郎によれば南北朝関係の城として見られている。すると、吉野を守る為とも思えた。たしかに地図では、高市郡高取町に南接して吉野郡大淀町や吉野町がある。

 越智氏の後、16世紀には豊臣秀長(秀吉の弟で郡山を治めた)の臣下・本多氏が対鉄砲戦などを考えて相当に手を加え近世山城として完成させた。その後17世紀からは植村氏が幕末まで居城とした。現在は、日本百名城に選ばれている。(3HP)

古い石塁

古い石塁
「高取城は城内(ニノ門より内)と郭内(釘抜門より内(こちらの「札の辻」項参照))に分けられる。城内は、約10,000平方m、周囲約3Km、城郭は約60,000平方m、周囲約30Kmという広大な物で、山城としては日本一であろう。」(1HP)とあった。

 たしかに広い。高取山ひとつがまるまる城というおもむきだった。山城として屈指のものなのだろう。広いので閉塞感はなく、居住空間も豊かに取れたはずだ。籠城すれば難攻不落の城になっていただろう。城跡に立つと、ここはかりそめの砦というものではなく、安定した堅城と思えた。

高取城之図

高取城之図
 河上邦彦先生(きやすく引用していますが、未知の方です(笑))が30数年前に「石垣の内に文字がある」と聞いて高取城に登った。そして「高取城の築造の時、石垣の石材は古墳の石室がその採石場となってしまったのである。鬼の俎(まないた)や酒船石に現在残っている石を割るときの矢跡」(1)~ そして、私もその矢跡をいたるところで見た。

 こういった石材は主にカーブ、直線の美しい隅石部分に使われていた。掲載動画の「高取城・石垣」にもそれが見られる。高取城の図を見ると広大で、石垣の数も数え切れない。越智氏か、あるいは豊臣家の本多氏か、大和の古墳を次々と切り崩してこの城を造ったのだろう。中世に箸墓が砦になったのだから、そういう急ぎ働きが繰り返されたのかも知れない。だからこそ、この高取城は貴重な遺産として残した方がよいと思った。もし解体修理するときが来ても、石ころ一つ慎重に扱わねばならないだろう。本丸石垣のどこかに失われた酒船石の断石や、益田岩船の断碑が埋もれているかも知れない。

高取城沿革

高取城沿革
 写真を拡大すれば奈良県教育委員会による詳細な沿革が分かる。
 ここで、その創築した越智氏と南北朝について、保田與重郎の説を合わせて記しておく。文献(2)によれば、「高取城は、飛鳥の南、里餘(Mu注:4キロあまり)ほどの山城、南北朝の頃、越智氏ここに拠り、つねに南朝第一の藩屏(Mu注:南朝の守護者)に任じた。合一の後も南帝の御遺裔(Mu注:南朝皇家子孫)を奉じて節を變へず、その終焉は應仁の亂にまでつづいた。即ち文明三年越智氏の奉ずる南帝最後の御遺裔は、西軍の主として京師に迎へられ、東軍の奉ずる内裏に對して、西軍名分上の主上とならせらる。ここに於て後の南朝は終つたのである。(Mu注:南朝・西軍の主としてとは、小倉宮の王孫か? 「南北朝時代史/田中義成」でも詳細不明)(3)」)

 保田は越智氏が後南朝の小倉宮・王孫を奉じたと記している。別途捜せば詳細があるかもしれないが、私はこの山城の位置と堅固さを見て、そもそもの始まりは応仁の乱前後の騒乱渦中にあって越智氏自家存続を願い、そして南朝聖地吉野を守る南朝贔屓によって造られたと思った。話は、雨上がりの眺望に似て霞んでくるのだが。

無事なRS

無事なRS
 曇天の古城を歩き回るのは実に楽しかったが、さすがに経験則から危険を察知して長居をさけた。登城するまでは降っていたし、また降り出しそうな天候だった。携帯電話はアンテナが立っていたが、足でも滑らせると大ごとになる。疲れぬ前に用心深く慎重にじっくりと下城した。

 RSは待っていた。さらわれることもなくそこに居た。ほっとした。分かってはいるが長年余程に自動車依存心が強い。しかし実質的に全天候型移動シェルターの機能を果たすのだから、私にとっての探検調査必須ツールだと思っている。観光とか健康ハイキングの気持は薄い。
 登城口を出たのは、午前10時だった。169号線清水谷に出るまでは行き交いが困難な、完璧なワインディングロードだったので時速は20~30に押さえた。行き先は、直線で北行4kmに位置する「岡の酒船石」だった。実走では12kmほど離れている。

参考HP
  (1HP)高取町観光ボランティアの会:高取城
  (2HP)高取城CG再現プロジェクト/奈良産業大学
    ↑(依頼主:奈良県高取町のボランティア団体「たかとり観光ボランティアガイドの会」)
  (3HP)日本百名城/日本城郭協会
参考文献
  (1)飛鳥発掘物語/河上邦彦.扶桑社、2004
    ↑21章「石を転用するために潰された古墳……高取城の石垣」
  (2)檜隈墓の猿石と益田の岩船/保田與重郎(『飛鳥路』より)
  (3)南北朝時代史/田中義成.講談社学術文庫334(底本は大正11年1922年)

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年11月25日 (土)

マゾな学園祭週

 この週はいくらか自虐的な週だった。というのは、火曜日あたりから行事や祝日や学園祭で、今日まで授業が無かったからだ。もう少し詳細に記すなら、授業がないと時間感覚がゆるまり気分が楽になるのだが、その一方で、厖大なし残した仕事をかたづけなければならないという強迫観念に襲われる。その内容というと、それこそ切手やノリを探すことから始まって(つまり手書き郵便)、会議の書類準備確認、場合によっては忘れるとクビがかかってくるようなことまで~。何種類も何項目もあって、まずそのリストを作ってからこの数日をこなしてきたわけである。外では祭りに浮かれてどんちゃかと音楽はなるし、嬌声は聞こえるし、……。そのかたわらで苦虫つぶして一つ一つの案件をつぶしていく、この自虐的なオーラ。当然木曜の祝日も葛野に出てきていた。

 MuBlogは何時書く、読書は何時する、研究? ははっは、そういう世界とは異なった、いわば場末の商店主の趣だね。跡継ぎもいないし、裕福な客(笑)もこないし、なのにやれ税金の、自治会の、防犯会議のと、毎日せっつかれるオヤジの気分だなぁ。

 今日もようやく夕暮れになった。学園祭も終わったようだ。昨日も今日も結構著名な芸人さんが来ていたようだが、いっかな余の知らない世界だ。猫に小判。そうだな、たとえてみれば余の前に山盛りのニガウリやトカゲの天ぷらや恋愛DVDやお笑いDVDをおいて、「さあ、Mu先生。たんと楽しんでください」と言われるようなもんだね。

 さっき夕べの珈琲を淹れ、できたので今飲んでいる。同僚や学生にまずいのにがいのと、評判は悪いがそういうことがトラウマになって最近はずっと長く一人で飲んでいる。昨年に、珈琲好きの同僚に「うん、ちょっとね」と言われたことが深い傷になって、このごろは珈琲を作って飲んでいるそぶりもできるだけ見せないようにしている。
 ところが実は、余は「ああ、美味い。一仕事終えた後の一杯は、格別じゃ~」と、本気で独り言をつぶやき、そしてあろうことかMuBlogに書いている。

 余は時々悲しむ。いろいろな感覚が世間とずれたまま、何十年も生きてきた。その間、それはそれはこっそり涙ぐむ苦渋も多々あった。それが、珈琲一杯で、なにかしら、ヨーロッパの超長編小説のように、思考をとばせてしまう。ああ、失われた時を求めて(笑)。

 で。
 MuBlog書いて一休みしたので、今日の最後のお勤め。月曜の授業準備を三つ分、いまからとりかかる。先週は随分準備したのに、肝心の月曜に体調をこわして(腹痛:一種の希な授業拒否症候群かな)、満足にすすめていない。だから、来週は同じことをもっと深く、濃密に話さないとならない。となると、先週のことは記憶からすっぽり抜け落ちているので、また準備をする必要がある。余は、いささか頭が悪いという自覚を持ち、さらに丁稚のお使いと一緒で溝を跳び越えただけで記憶が落ちる。この数日間ひたすら雑務(というと、イヤな顔する人がおるが)に専念したので、すっかり飛んでしまった。
 ああ、今日も日が暮れた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月24日 (金)

木幡の夕暮れ

 気がついたら夕闇に包まれていた。ここ宇治の木幡にも平等に闇が訪れる。さっき早めの夕食を終わってほっとしていたら、MuBlogに手が伸びていた。
 夕食は事情で、寿司にした。ついでにカニの茶碗蒸し。ついでにビール。ものすごく豪勢だ。
 やはり食事を美味しくいただけて、よく眠られるのが人の世の幸せだと痛感する。食事も睡眠も毎日のことだから、ついちょっと激情にかられて食べたり眠ったりしても、効果はうすいな。

 それでblogの右上にカレンダーがあって、その日付を見て驚愕したのだ。おお、あと一週間で12月、師走、2006年の最後の月になるとは、これはいくらなんでも早すぎはしないか。Muは今年まだまだし残したことが多い。造りたいものだけでも、スターリングエンジンにはじまって、ウニモグ模型、H&KのマシンP、 ミニウジ、カトンボRCヘリ、読みたい本も10冊ある。行きたいところも一杯だ。
 人生は実に短い。あっというまに師走とは。このまえ正月だったような気がする。

 というわけで、年末のことを考えるより先に今夜をどうするか、作戦を練ってみよう。
 ……。
 というわけで、そのままだと数頁読書して深い眠り。木幡の夕暮れもあっというまに深夜になってしまう。
 というわけで、ながながと木幡記を記すつもりだったが、書いている間にやってみたいことがでてきて、とりあえずまた今度。(なんだか、中途半端になったが、実人生はこんなものだな~)
 そう。
 激烈に読書したくなった。MuBlogを書いているばあいじゃない!

| | コメント (2) | トラックバック (0)

ぼくらのスターバックス

三卒業生α
 ことの起こりは観能の午後だった。舞った者に倶楽部局長がいたのだが、私は所用で欠席した。が、すでに卒業した人達が三人、新ご隠居さんも交えて午後の一刻を楽しんだらしい。私はと言えば、珍しく呼び出しを受け、観能が無理ならばお茶くらいに顔を出せとのことだった。遠隔地から上京した者もいたので、夕刻仕事をすませて葛野を出立した。

 四条烏丸で軽い夕食をとって、その後みなでスターバックスに寄った。キャラメルマキアートのアイスを飲んで、みんなは、○□チャイとか□□チョコレートとか、それぞれ好みを出していた。
 丸テーブルを五人で囲んで、とりとめもなく話していた。
 現代のスタバは、当初あった米国流という雰囲気も日本にほどよく溶け込んで、回りを見ると一心不乱にノートをとっている女や、携帯を飽かず眺めている男や、まだ初々しいカップルや、ちょっといけ好かないすかした女や、十代から三十代ころまでの男女で満ちていた。
 昨年の今頃も、このスタバに似たようなメンバーで来たのを思い出していた。何を話したかも覚えていないし、今秋ふたたび何を話したのかも、一晩眠ると忘れてしまう。それは。忘れた方がよいこともあるし、笑顔があったとか、話し込んだとかいう雰囲気だけが残ればよいと、自然に思うようになっていたからなんだろう。

 また来年も会うかもしれないし、お互いに音信不通になっているかもしれない。今年は携帯電話で写真を残した。近況は? と、問われて何も言えなかったのが、私の気持ちに残っている。何も変わらない、変化がない、ただ最近センセは充実していると、だけは答えておいた。それはMuBlogでもあるし、RSの走りの佳さでもあるし、心身が比較的晩秋にむかって向上しているせいかもしれない。集まった四人はどうなんだろう。充実しているのか、不本意なのか、心底までは分からない。こうして、分からないことはそのままに、日々が過ぎていく。「近況は、blogに書いてある、とおっしゃればそれでよいでしょう」と、遠隔地からの者が言った。それにうなずいたはずなのに、その夕べ一心不乱に私は自分の近況を考え込んでいた。「何も変わりはない」。それだけだった。

 ただ、最後に「ぼくらのスターバックス」というセリフが脳内を走った。声には出さなかったが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月23日 (木)

益田岩船(ますだのいわふね)

承前:MuBlog:雨の飛鳥紀行

地図(Google)

動画:益田の岩船(MPEG4) (13889.3K)

 木幡を当日午前五時半出発、到着は七時すぎだった。人影はなかった。だが、確かにナビげーションシステムで現地まできたはずだし、益田の岩船は下から見えると思っていたが、付近の山を見上げても、まるっきりそれらしきものは無かった。結局うろうろしてしまった。
 私は益田岩船を飛鳥の範疇に入れていたが、行政区域としては橿原市になり、ガイドパネル、道表示などが明日香村ほど明確ではなく、結局30分近くうろうろしていたことになる。途中、小学校の裏で少年にきいて「お墓の上」と耳にしたので謎が解けた。
 奈良県橿原市南妙法寺町と白橿町との境界で、白橿南小学校の西側の裏山になる。
 なんのことはない通りに面したお墓の横に、日時計のようなものがあり、そこが山に登る入口だった。よく見ると階段もすこしだけ付いていた。
 登山は急な坂道を約100m、5~6分程度だった。階段を上がると道が細く草が生い茂り迷わないかと不安になった。息がきれた。

横から:益田岩船

横から:益田岩船
 この写真で、横幅が11m、奥行が8m、そして高さが5mある。高さについてはビデオで見ると実感する。上辺に穴が二つ見える。それは次の写真で明確だが、1.6m四方で深さが1.3mの四角い穴である。この穴を以て河上先生(3)は一石二室の横口穴式未完成の石槨(せっかく:遺体を納めた石棺や副葬品をまとめて入れる墓)と推定されているが、さて。別の人のもう少し詳しい説では、どうにも思い出せないのだが、皇極天皇(天智天皇の母親)が生前に石槨を作り始めたが、事情で60代に重祚(ちょうそ)なさって斉明天皇になられたので、その墓を放置したという説もあった?

上から:益田岩船

上から:益田岩船
 この益田岩船の由来についてはいくつもある。松本清張記念館で入手した松本清張「火の路」誕生秘話(1)はそれらを簡略にまとめている。清張の場合、斉明天皇の天宮という説に始まり、ゾロアスター教の拝火壇と推測されている。小説『火の路』(2)では、文庫下巻のp347で、益田岩船と兵庫県高砂市の「石の宝殿」とが同一目的で作られ放棄されたものと描かれていた。つまり、後日調査予定の「石の宝殿」は完成したなら、この益田岩船の側に運ばれて、ゾロアスター教の神殿になるという推測だった。

益田岩船現地解説

益田岩船現地解説
 文献(1)では、
 ■益田池碑台石説 「益田岩船--私考/重松明久、1983」
 ■占星台説「益田岩船考/藪田嘉一郎、1963」
 ■物見台説「岩船巨石と漢氏/北島葭江、1963」
 ■火葬墳墓説「益田岩船墳墓説/川勝政太郎、1964」
 ■天文観測施設説「益田岩船は天文遺跡か/斉藤国治、1975」
 ■石棺式石室説「石宝殿/猪熊兼勝、1977」、「今来の双墓についての憶説/和田萃、1981」
などが挙げられていた。いくつかは、以前に酒船石のことを読んだときにも、おなじパターンとしてあった。

接地部:益田岩船

接地部:益田岩船
 益田岩船は最初の写真のようにつるつるに磨き上げられた部分と、そしてこの接地部写真のように格子状の刻みとがある。意味のある模様にも見えるが、おそらく石工たちが岩をハツル際にこうした刻みを入れたのだと思った。はがれやすくなる。そして磨くのかもしれない。
 それで逆に、表側のつるつるの面が大きな面積を占めていることに、墓とすることの不審が残った。現代の墓は見えるところを鏡のようにして文字を刻み込むが、当時の古墳、天皇陵などはほとんどすべて封土で覆ってしまうように想像したからである。以前石舞台の動画を撮ったのでその印象が強い。今の石舞台は土を全部とりさった生の姿だ。石槨内部の磨き上げはよく見るが、外層・表面の石を磨き上げた部分はあまりない。

側面:益田岩船

側面:益田岩船

側面2:益田岩船

側面2:益田岩船
 私は以前から、この地に伝承となっている、空海の記念文をでっかい碑にして立てたという説に傾いている。(4)の「檜隈墓の猿石と益田の岩船/保田與重郎」にはその詳細があって、興味深い。想像を絶する大きな碑だったのかもしれない。益田池が出来たことの完成祝いである。
「この石碑の碑文は、空海の撰文並びに書と傳へられる。このことはこの巨大な石碑にさらに、偉容の絶大なものを付加した。「性霊集」にこの碑文の全文が見られるが、その文は六百字に近く、さらに四字五十六行の銘がある」(4)

 この著者保田與重郎は近くの桜井で生まれ育った人なので、現地の伝承をことのほか大切にされる。そして、益田の岩船の上に立った巨大な空海の碑は、次に私が行った高取城を造るために持ち去られたとの噂らしい。酒船石も壊されて高取城に持ち去られたらしい。実におもしろく、楽しい説だと思った。

参考
  (1)松本清張「火の路」誕生秘話/松本清張記念館、2004
  (2)火の路/松本清張、文春文庫(ま/1/30)
  (3)飛鳥発掘物語/河上邦彦.扶桑社、2004
  (4)檜隈墓の猿石と益田の岩船/保田與重郎(『飛鳥路』より)

| | コメント (10) | トラックバック (1)

2006年11月22日 (水)

夜麻登志宇流波斯(やまとしうるはし)はミステリではないのです

 この11月半ばから別のblogで突然、長編小説の連載を始めました。やまとしうるはし、と読むタイトルの由来はいろいろあるのですが、基本的には倭建命=日本武尊=やまとたけるのみこと、の歌の一部です。倉敷の大原美術館で、棟方志功さんの「大和し美し」柵という大型の版画作品を観たこともあります。棟方志功さんがどんなお気持ちで造られたのかは分かりませんが、そういうタイトルを付けるという点では、似通った心性なのかもしれません。

 『夜麻登志宇流波斯』は、これまでの「犬王舞う」や、「蛇神祭祀」にくらべて読者数が増えています。実数は伏せますが日々四倍あるのです。で、なにかしらご期待があると申し訳ないので、著者弁明を最初にしるしておきます。
 この作品は、いわゆる普通の小説です。事件も殺人もトリックもまったく御座いません。世間でいう、ミステリとか推理小説ではなく、また古代史、時代小説でもありません。もちろん私小説でもないし、お笑いでもないし、バイオレンスでもないのです。エンターテイメントとは対極に位置する、ただの退屈な小説です。

 要するにわかりにくい小説です。
 著者の手元にある草稿は500枚ほどありますが、これを定稿にするために日々眺めていても、「どうしてこういう表現を私は使うのか」というところが多々あって、初秋からずっと悩んできました。大体一回連載は原稿用紙で3枚分(これまでのミステリ小説二作は、4枚~5枚でした)ほどなのですが、推敲には相当に時間がかかります。文章の捻れとか、誤字脱字に気をつけるよりも、一体何を表現したいのかという、自らへの強い疑念が先立ってしまうのです。

 ともあれ、読者が零になっても日々千人になっても、変わらず最後まで連載いたします。
 まずは、ご挨拶まで。

著者近況
 小説というジャンルはまことにおもしろく飽きません。人様の良い作品を読むのも楽しいですが、造る楽しみはその数倍のよさがあります。もちろん過程では身を削る命を削る幻想にもとらわれますが、元に戻ってみると、これほど迫力のある楽しみはないのじゃなかろうかと、感じています。

晩秋の朝、
浅茅原竹毘古(あさじはら・たけひこ:日曜作家) 識

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年11月21日 (火)

栞屋蕉庵+メリーアイランド、がんこ+はやしや

出雲会と栞屋蕉庵
 11月の上旬と中旬に、葛野図書倶楽部2001の縁で二つの会に参加した。ひとつは出雲会という別名で、副長2005が座長。もうひとつは初秋まで現役だった二人。
 私も生きている証というか、ときどき夕食や昼食をいっしょにする。本当は二つのグループだから単独記事にしても佳かったのだが、なんとなく司書っぽい人たちはシャイなので、いくら記念というても派手派手しく記録するのはきがひける。それで二つで一記事に圧縮した。

出雲会
 三輪山へ皆々で行ったのが昨日のようだ。みんな卒業して各々の道を歩んでいる。わざわざ時間をあけて出雲会を開催してくれた。ぼんやり日々を過ごしている私には、各人の体験談が別世界のように思えた。社会は、私とは違った意味で忙しいようだ。そして日々いろいろあるようだ。聞いているだけでおもしろい。

石畳と格子戸
 行ったのは木屋町御池の比較的新しい店だった。栞屋蕉庵(しおりやしょうあん)。副長2005が選んだ。若い人で一杯だった。私が酒を飲まないせいか、みんな温和しかった。そのあとで、近所のメリーアイランドとかいうしゃれた店にはいり珈琲を飲んだ。この二つの店とも、なんとなく若やいでいて、私一人では絶対に入れないな。栞屋は20代後半の雰囲気で、メリーアイランドは30代のちょっとリッチな人たちが、かっこよく決める所に思えた。
 二店とも、出雲会の人たちに先に入ってもらった。

ご隠居・特別助勤のお礼
 詩仙堂に皆で行ったのが幻に思える。初秋にご隠居さんになった二人には、この11月、朝一番の授業に三回も来てもらった。現役は五名いるのだが、なんとなくみんな初めてなので、その科目に格別な愛情(笑)を持っていたお二人を現役達が誘ったら、OKと返事があった。

がんこ寿司三条店と真向かいの「はやしや」
 というわけで私としても、はいサイナラだけでは心苦しいので昼食にお招きした。三条大橋の西詰めにある「がんこ」。一人は山奥から出てきた人なので、寿司と造りの豪華御膳だったぁ~。一人は名にしおう国立公園の絶海孤島から出てきているので魚には興味もなく、京風のちまちました可愛らしい御膳だった。私もそれにした。
 ところで、みんな忙しかったようだが、真向かいの「京はやしや」を二次会にさそったら、一名はわざわざデート相手(?)におくれる旨の連絡をいれて、一緒にエレベータにのってくれた。この店は、少なくとも歴代倶楽部員は全員ごいっしょしたはずだが、なんと、このお二人はまだ行っていないとのことだった。私か二人か、どちゃらかが記憶間違いなのだろう(笑)。

 というわけで忙中閑あり。いずれにしてもついちょっとの食事やお茶は心身によい。私の昔の知人たちは、みんな飲むというたら確実に午前様。信じられないなぁ。いや、しかし昼食会は最近そこかしこで耳にする。簡単な歓送迎会も昼食会で豊かに過ごすところもあるよし。酒無しも酒ありも、和気藹々。よいものだ。

参考
  栞屋蕉庵(京都市 木屋町御池)
  メリーアイランド(京都市 木屋町御池)

  がんこ三条本店(三条大橋西詰め北)
  京はやしや(三条大橋西詰め南)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

辛味大根・おろしそば(京都伏見大手筋・薮そば)

承前:MuBlog:雨の飛鳥紀行
   MuBlog:私の京都:薮そば

辛味大根・おろしそば
 この日、薮そばに入る予定はなかった。雨の飛鳥紀行はすべて山道を上り下りしての調査撮影だったから、そして昼食もとらずに戻ったから、伏見桃山・鳥せいで山賊焼きとウズラの丸焼きでも食べようと思っていたのだ。しかし日曜日の午後一時では、本当に店も駐車場も満席で、観光バスが数台狭い道を向こうからとろとろ走ってくる有様。疲労の中で喧噪とともに一人で焼き鳥ほおばるのもアホらしくなって、急遽いきつけの薮そばにした。

 無類の蕎麦好き。それなら最初から薮そばに入ればよいだろうにと、思うむきもあろうが(笑:誰も思わない!)、実はその二日前に嵯峨野某蕎麦処でこてこての超絶「鳥なんば」をいただいて満足して日ならず。帰りがけに「あら、鴨なんばじゃなかったんですか」とそこの女将。「いえ、鴨は12月からとうかがっていましたので」「ごめんなさい。店の者に言っておけばよかった。数日前から鴨なんばをはじめましたのに」「ああ、残念。なら来週またきます。でも、鳥なんばもよかったですよ」そういうわけだったので、ここ伏見桃山の薮そばはしばらくお休みしようと思っていたのだ。

 で、鳥せいが駄目になったとき、雨の飛鳥の記憶もふっとんで、次に浮かんだのは薮そば。そして。なんとイメージの鋭さ(笑)、瞬時にあっさりした「おろしそば」が浮かんだ。とは言っても薮そばのおろし蕎麦は未見だったので、思い出したのは大晦日木幡研のオロシそばと、越前今庄駅前のオロシそばと、東京の神田の某蕎麦処だった。

 話せば長いことながら。
1.東京の神田の某蕎麦処とは本当に覚えていない。まだACCESS社が上場していなかった時代。ふうてん爺さんに連れられて、副社長のトミーさんと三人でイタリアンを御馳走してもらった。そのあとで、トミーさんが蕎麦屋に案内してくれて、そこで! Muは酔っていたのだろう。メニューにない「おろし蕎麦」を食べると言い張った。ときどきMuをわがままと怒る人がいるが、なるほど客観的に考えると、店の旦那にも、トミーさんにも、少しわがままが過ぎた。ふうてんさんは、Muの数倍の御仁なので(酒を常備しない喫茶店で、ストレート! もし、氷が入ってくると「氷も水もいらないと、言っただろう」だもんね。気に入った灰皿があると、ホテルのマスターまで呼びつけて、売れ!……)苦虫つぶすふうてん爺さんを無視してなお「おろし!」と言い続けた。トミーさんが店の人とひそひそ話。そして、ついにオロシ蕎麦がでてきたのです。で、うまかった。あの神田の蕎麦処、一体どこだったのだろう。記憶が戻らない。

 さらに続く。
2.越前今庄町大桐がMuの父の祖地とは以前に記した。このJR今庄駅前の路地の奥に素晴らしい蕎麦処がある。ここでのオロシ蕎麦こそ、わがルーツだったのだろう。店名もしらず。ただ、当時三人姉妹がせっせと用意し、座敷に運んできたのを鮮明に覚えている。他の客達は、地元の旦那衆だったが、蕎麦と酒と新鮮なお造りを楽しんでいた。鄙には稀なというよりも、蕎麦名産地・鄙だからこその至高の贅沢と思った。
 祖母や母は、子供の頃に越前の蕎麦の食べ方をMuに語って聞かせた。ものすごでっかい鍋に大根おろしが大量に入った出し汁を蓄えて、ゆでたての蕎麦にそれをぶっかけて、薬味をかけていただく。豪快な味わい方だった。

 木幡研の大晦日。
3.ともかく年越し蕎麦をいただく。なにがなんでもいただく。Muの記憶ではとぎれたことはない。大抵、ブリとか烏賊のお造りが付く。熱燗も。椀にいれた蕎麦の上に大量の大根おろしをのせて、そこに鰹節やネギ、出し汁をかけて、最後に海苔をぱらぱらと。美味なり。

 そして伏見桃山大手筋南の薮そば。
 いや。もう、なんとも申しようがないお味でしたな。看板にいつわりなし、ツウのお味というよりも、これこそオロシ蕎麦。あっさり。蕎麦の甘みと大根の辛味。うむむ~。薬味は写真をごろうじろ。
 というわけで。こういうお蕎麦とかああいう鴨なんばとか、そういうビフカツサンドとか、絶妙のヒレ・トンカツある故に、一億のお金を積まれても都を離れる気持にはなりません。もし、なにかしらねど江戸なんかに住まざるを得なくなったら、隔日でお昼を京都に戻って参りましょう。食は命。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月19日 (日)

雨の飛鳥紀行 {益田岩船、高取城、酒船石遺跡}

 晩秋、日曜の早朝に思い立ってKohataRSのハンドルを握った。
 いつもの突発的な、激情にかられて(笑)の行動だった。
 何事も、綿密執拗に計画を立てるわりには、実行するときは、ある日ある時、あっさり突然やってしまう。

要件
 行き先、飛鳥一帯。(地図
   (「明日香」と書くと明日香村だが、「飛鳥」だと関係一帯と定義しておく)
 出発が午前5:30、帰還が14:00。
 所用時間、九時間三十分。
 距離往復、220キロ。
 経費、14020円。

    ミニサンドとお茶とチョコ:450円
    昼食おろし蕎麦:1080円
    昼食後の珈琲:400円
    酒船石遺跡入場料:400円
    万葉文化館駐車代:500円
    酒船石遺跡現地関係資料五冊:2500円
    高速道路往復:6400円
    推定ガソリン代(リッター13キロ、@135円):2290円
    合計=14020円
    (ちなみに、一時間あたり1400円程度になる)

感想
 非常に充実し、満足感が高かった。今から入る日曜の夕風呂は格別に極楽だな。
 一般に今日は雨だった。しかるに! 益田岩船も高取城も酒船石も、それを観察している間はすべて雨が止んだ。走行中はずっと雨だった。

さわり(目次)

1.益田岩船(ますだのいわふね)

益田岩船全景
 大昔に、松本清張の『火の回路』を読んだり、当時のTVドラマを見ての影響だった。一度、20代に行ったはずなのにやはりなかなか見つけられなかった。小学生に「ぼん、益田の岩船はどこにあるんや?」と聞いて、やっとたどり着きました。一体、この益田岩船はなぜ隠れていたのだろう?

2.高取城跡(たかとりじょうあと)

高取城の紅葉
 中世の山城としてつとに有名です。昨年でしたか、大規模な石垣改修を高取町が行ったようです。城全体は、起伏があって昔の山城の規模の大きさがはっきり分かりました。現地の写真で見ると、明治の始め頃までは天守閣があったようです。酒船石の断片が石垣に使われているとか言う噂があるのですが、Muは今日それを発見出来たのでしょうか?

3.酒船石(さかふねいし)と亀形石造物
 酒船石遺跡(1)亀形石造物
 酒船石遺跡(2)岡の酒船石

酒船石のフライパン
 上述の松本清張作品の大テーマでした。何故こんな形をした石が明日香・岡の丘の上にあるのだろう。そして20世紀末から21世紀初頭には、酒船石の直下に日本離れした石床の「亀形石造物」が掘り出され、整備されました。雨上がりの中、酒船石は以前と変わらず丘に鎮座していました。Muは、今回「酒船石はフライパンを兼ねた調理台説」を打ち出す予定、かな?(トンデモ・笑)

4.酒船石遺跡関連図版

飛鳥の宮殿/明日香村教育委員会編
 これは上記の3に含めようと思っていましたが、整理しているとその五冊が素晴らしい図版に思えてきました。酒船石の歴史がわかり、また最近(平成17年12月刊行)の『飛鳥の宮殿:古代都市飛鳥を探る』図録4、は飛鳥全体のいくつもの宮跡をわかりやすく書いてあり、おもしろい物でした。こういう文献図録は現地で調達するのが一番確実なので、思い切って酒船石遺跡入口で全部買ったのですが、五冊で2500円、良い買い物でしたなぁ。

5.薮そばの辛口・おろし蕎麦

お品書き:辛口おろしそば
 京都府民としては、奈良県でお金を落とす責務がないので、はるばる伏見大手筋までもどり、まずは「鳥せい」に行ったら、午後1時というのに満席! 付近には観光バスまで数台うろうろしている始末。思いあまって、周知の薮そばにいき、超絶美味の「おろし蕎麦」をいただきました。まさしく塞翁が馬の境地。

*では、飛鳥紀行20061119をお楽しみに。

| | コメント (8) | トラックバック (6)

2006年11月17日 (金)

小説葛野記:20061117(金)晴

 今日もたくさん仕事をてがけた。予定は7割すんだから、まずまずだろう。マシン相手と紙相手の仕事とを交互にすませた。目にも肩にも負担をかけたくない。
 今日に限って人間相手仕事はなかった。

 夕方、息抜きに屯所の倶楽部員に珈琲を淹れてあげた。まずいという評判の珈琲だが、本人はさらりと「おいしいです」と言うた。あはは。

 さて。七時だ。晩秋のこの時間は暗黒だな。六時ころから付近は無人になっている。
 さらに続けようとも思ったが、やはり、このくらいにしておこう。

 ところで。
 Win とマックG5マシンを両方使っているので、気分がよかった。つまり、マックでは長大な動画をDVDに入れたり、なにやかやと整理していたわけだ。主には、晩夏初秋の誠会総会のビデオだ。
 一つのファイルが10GBはざらだから、600GBに少したりないリソースもほぼつきてきた。これからは差し替え自由の外付けハードディスクを300~500GB単位で何本も用意しないと、不意に「容量が足りません」と、メッセージがでてきそうだ。
 それにしても、時間がかかる。えんえんとこなしている。
 で、マックG5がCPUをピークにしている数時間、余はWinマシンで演習の講評を書いているという塩梅だ。並行処理だね。コンカレント処理と、昔言うておった。

 なんだか、こんなふうにして、余生をすごすのだろうか。
 ふと、……。
 まあよい。マシン依存症で、安定しているのだから、これも一つの余生。ほほほ。
 では、明日は美味い嵯峨野蕎麦でもたべて、しっかり今日の予定の残りを果たそうぞ。
 明日は本当にキャンパス中、無人になる。
 アットホームに、パジャマ姿で仕事をしようかいのう。効率があがる!?
 ……。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月16日 (木)

小説葛野記:20061116(木)晴

 朝七時に到着し、いま夜の七時半になった。さっき会議が終わった。ふ~っつ。
 今日は午前中に二駒授業、午後は会議が二つ。最初のは委員長だったのでそれなりに言葉を発した(笑)。二つめはさっきまで無言の行だったが、脳は動いていた。
 生真面目にというか、無言のまま案件の一つ一つを総理大臣になったつもりで可否、解決案を模索していたが、どうしても3割ほどはお手上げだった。つまり、解不能というのか不定というのか、数学用語を忘れてしまったが、どうにも解きようのない難問がいつも何割かある。選択肢が多くありすぎて、あるいはもともと組織だって結論つけるのが無理なもの。それぞれが案件として出される。
 ……。
 そういうことなのだ。
 しかし終わってしまうとほっとする。よって、一筆啓上。

今日の授業
 情報サービスという科目がある。後期はグループで班に分けてツールを作る。特定テーマに関する縦横無尽の情報間リンクを持った知識の固まりを作ると想定すればよい。で、この授業は学生にとっても余にとっても一番難しく、またやりがいのあるものだ。いや、余ひとりが夜郎自大、勝手にいうのじゃなくて、多くの学生たちがあとでそんな風に証言している。
 今年も、なかなかボリュームのあるテーマが出そろった。それぞれ話し込んでみると、なんか「そりゃ、無理だよ」というような複雑大量の情報を整理しつくそうとする班が多い。目が血走ってくる、身体の底からわき上がるオーラのような勝ち気が空気をふるわせる。これで一席になると相当に名誉なことだし、余も見る目が変わってくる。だが、あと数週間は胃を痛める。痩せる。
 12月になると最終結果が出る。密かな楽しみだ。

 もう一つは、特定テーマを分類するという課題だ。これはなんとなく、二年生が多いせいか、テーマ自体も歴年ほんわかとしている。こういう授業を三つ経験して、上述の情報サービスが組み立てられるわけだ。だから分類は試金石だな。ときどき想像を絶する頓狂な方法論に出くわし、密かに爆笑している。あんまりキツイ指導はしない。なぜなら、頓狂なものは頓狂が肥大して誰の目にもはっきり分かるから。つまりだ。家を造って入ったら二階が落ちた! そういう明確な結果を招く。それをじっと側で見ているのも、なかなか根気がいる(爆笑)。失敗の方が益が多いのは、此の世の真理だ。

その他
 ネットが動かなくなったのを昼休みに発見して、とまどった。会議前だから。研究室で数分沈思黙考して、しかるのちにマシンを触った。動いた。うふふふ。神の手じゃね。

 今日も暮れた。ああ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月15日 (水)

そうだ、私の京都「高瀬川友禅流し」

そうだ、私の京都 (高瀬川・尾張屋・冠者殿社・三条大橋)

承前 [MuBlog:吉田屋・エスプレッソ珈琲

友禅流し(ミニ)

友禅流し(ミニ)
 日曜日だったか町にでた。四条京阪で電車を降りて大橋を通り、小橋に来てふと高瀬川をのぞいてみた。すると、ものすごく小さな友禅流しが色鮮やかに見えた。童子のころ鴨川では10mもある布が何本も流されていたのを覚えている。それに比べると「遊び」に思えた。しかし遊びは楽しい。しばらく眺めていた。

尾張屋地下店内

尾張屋地下店内
 町にでるたびに、とんとん来のチャーシューメンか、尾張屋か、どちらかで昼食をとることになっていた。習慣だな。その日は尾張屋に入って、始めて店内風景を写真に納めた。客が私一人だったので、勇気をだしてシャッターを押した。いつもなら人出が多くてカメラを向けられない。実は、たどり着いたとき表のシャッターがあいた、どんぴしゃりの到着だった。

鳥なんば:尾張屋

鳥なんば:尾張屋
 いつもなら、100%は天ぷらそばなのに、その日は思い立って鳥なんばにした。ここの尾張屋で天ぷら蕎麦以外を食べたのは初めてだった。本店では記憶の隅に、オロシ蕎麦を食べた記憶もある。鳥のだしがよくでていて美味だった。

冠者殿社:由緒地図

冠者殿社:由緒
 尾張屋の東にこの由緒書きがあったのは、昔から知っていた。いや、以前の記憶ではそれとは別に古い駒札、高札だったのか。町の真ん中の、密集した店舗のかたすみにこんな由緒があるのも、京都らしいなぁ。

冠者殿社

冠者殿社
 八坂神社、スサノオノミコトの荒魂らしい。大政所御旅所のことは以前記事にした。こんなちっこい鳥居・社殿にスサノオさんが鎮座しているのが気に入った。神様は融通無碍、広大無辺の神域でも、この冠者殿社のようないとちいさい所でも、それなりにご機嫌うるわしく祀られている。

三条大橋西詰め

三条大橋西詰め
 ここにたどり着くまでに、寺町界隈の南で、ソフトウェアを入手した。そして寺町を上り、途中新京極に入って三条のMIVIX映画館近くでドトールにはいり、珈琲とソーセージの入ったパンをいただいた。そうそう、寺町では別系統のショップで、H&KのマシンPとかミニ・ウジとか、いわゆるSMGに見とれていた(笑)。完成品のようだ。やはり組み立てる方がたのしい。

 出歩くところはまるでおなじなのだが、なにかしら景色、表情が違って見えて、ついつい写真をとってしまった。

参考 MuBlog:三条大橋の刀傷
    MuBlog:私の京都;四条・三条・河原町
    MuBlog:八坂神社の大政所御旅所

| | コメント (0) | トラックバック (0)

小説葛野記:20061115(水)晴

 昨日夕方は少し雨だったが、今朝は晴れていた。いつものように木幡では早起きしてシャワーつかって大量のシャツから好みを選んで身につけた。
 いや、つまりだ。
 数日前に、着る物がなくてこまったなぁと、独り言をつぶやいたところ、昨夜この数年間に買われ、袖を通していなかった衣類が30点ほど出てきたわけである。カーディガンだけで6着もあった。つまり、余はじゃまくさがりなのだろう、眼前の服にしか手を出さない。衣類とはどこかに整理整頓されて納められているというイメージがわかないようだ。
 余はいつからこんな風になったのだろう。末子(ばっし)の属性なのだろうか。やはり軽いオタクなのだろう。熱中していることには微にいり細にいり粘着質そのものなのに、それから外れると、まるでアウトオブ眼中。もしかしたら、「お金がないなぁ」とつぶやいたら、大金の入った袋が枕元にドスンと置かれるかもしれない。ためしてみよう。
 さて。というわけで、この冬は暖かく過ごせそうで、よかった。

本日定食
 熟練の助勤さん二名と、若い助勤さん五名とで、すでに二日間終わった授業の今日は三日目。まとめ日になる。ノリのよい班、悪い班。いろいろあるけど、なんとか今日までは無事に終わった。
 その後は、明日の重要会議のために別館で打合せ。
 その後は、別の会議。
 その後は、掃除しながら、作戦を練る。

戦略と戦術
 つとに思うようになった。時間を無意識に有効に使うようにセットしなくては、と。つまり、スケジュルを細かくたてて、分単位で行動するのはかっこう悪いことだ。そんなのがこれからの余生であってはならない。蝶のように舞い、蜂のように刺す。こうでなくちゃね、でないと、アメーバや猿と変わらない。
 どうするか。
 年内まで立ち止まって過去を振り返り、厖大な雑事余事無駄事を整理する。つまり掃除だね。かかえこんだままウン十年とかいうものを整理する。そうすることでなんとか、ゆったり乗り切ろう。
 しかし。
 無趣味無芸隠遁生活と思う割には、好き事が多すぎるなぁ。
 ……。

 マシン関係。せめてwinかマックか、どっちかに整理する→できないなぁ。
 ソフト関係。Delphi 一本にしぼると言ったじゃないの→そう言っても、なぁ。
 車関係。タクシーと電車、新幹線でどこでも行ける→RSは棄てられないなぁ。
 旧式のMAUSER M721なんか棄ててしまう→も、もったいないなぁ。
 読書。「文学」にしぼって、マンガやキワモノ(何をさす?)は棄てる→うむむ、青ざめるなぁ。
 歴史。古代史に絞って、その他は無視する→ああ、困った。
 隠遁生活。携帯もメルも棄てたらもっと隠遁→よい考えだが、逆効果。つまり隠れれば隠れるほど好奇心(まだ、生きとるかな、と)を持たせてしまう。
 会議。いなくても良い会議は病気になるか→クビになる覚悟しないとね~。
 授業。……→ホントに免職になるぞぉ。

 ともかく、生きていくと言うことは、なかなか気苦労がつきない。人生、蝶のように舞い、蜂のように刺す。これは難しいね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月13日 (月)

小説葛野記:20061113(月)晴

 葛野に着いたのは7時だった。普通なら珈琲を飲んで、さて早速小説葛野記を執筆するはずだったが、授業の準備がやけにおもしろくってあっというまに8時50分になってしまった。先週すませたはずなのに、しつこいというか粘着質のわが身を知った(笑)。

 それで、午前の二つ、午後の一つ、そのあとの公務、そのあとの学生指導:これはword原稿をパワーポイントに写す、移すことなど、無事終えた。後者は、あっさりドラッグですませるはずだったが、なんと幾つかの図版や文字囲いがあったせいか、そのままだとパワポ画面に載せたとたんに内容が壊れてしまった。
 「えっつ!?」「そうなんです先生。だからお呼びしたんです」と。
 「まてまて、うむうむ」。 と言うわけで数分後に秘伝の技を使って完了。
 まだまだ、昔取った杵柄よな。

 さて、そのあとは9月に開催した誠会のビデオをDV化する作業にようやくとりかかった。細工は隆々、あとは気力と時間だけ。マックG5健在。古いマシンでも(昨年の!)、メモリーは3GB弱、ハードディスクは合計500GB以上あるから、……。来年はテラバイトにしなくっちゃ。

 というわけで、今はもう外は真っ暗になってきた。
 昨夜の功名が辻はなかなかよかった。勝った者の悲哀が良く現れていた。勝も負けるも人生。生きてなお不確かな未来を生きる苦もあれば、石田三成のように端座して首を打たれる人生もある。
 ところで、これは木幡記に属する話だが、最近は淀君が良く思えてきた。勝ち気な女の悲しみがよく分かるのう。……。歴史にifは禁物だけど、あの時秀頼がせめて彦根あたりに陣をはっていたなら、裏切りもなかったかもしれない。女子は戦争、戦略思考にはむかないのかもな(と、性差別かねぇ)。

 ああ、これは葛野記だ。
 アップルが気持ちよくて仕方ない。事情は判然とせぬのだが、なんかこう、動画とか写真を相手に触っていると、全体が潮や気流に乗って流れるような感じがする。精神衛生上、まことによい。

 明日からはまた新しい世界に入ろうぞ。いつも、明日がある。そして過去は連綿と重なって余の背にある。過去が宝。その光で明日を照らす。くくく、たまにはかっこうつけてもよかろう。
 ただ。電気を消した後、そこで思念が消えたとき、時のない世界にうつる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月11日 (土)

二十八万アクセス:最近のMuBlog

制作中

承前:最近のMuBlog(2006/10/23)
    二十六万アクセス(2006/08/11)


 今朝起きてみたらMuBlogが28万アクセスを越えていた。
 累計アクセス数: 280049 1日当たりの平均: 289.01
 2006年11月11日(土)の午前8:17観察なので、越えたのは昨夜だったのだろう。
 他方、サイト全体だと、累計アクセス数: 431197 1日当たりの平均: 444.99、となっていて、写真を軒並み見ていく奇特な方がいるようだ。
 以下にMuBlogのこの一ヶ月を見てみる。

 解析対象期間: 2006年10月12日(木) ~ 2006年11月10日(金)
 アクセス数: 6,567
 訪問者数: 4,747

→カテゴリーには太字と下線を付けた。バックナンバーは太字とした。
順位/タイトル/訪問者/アクセス/訪問者%、アクセス%
1 トップページ 520 1,583 11.0% 24.1%
2 みたかのもりじぶり:三鷹の森ジブリ美術館 196 226 4.1% 3.4%
3 地図の風景 184 207 3.9% 3.2%
4 NHK功名が辻(03)竹中半兵衛のこと 104 115 2.2% 1.8%
5 ノート・パソコンのハードディスク交換、取り扱い処方 101 114 2.1% 1.7%
6 Prius(日立製ノートパソコン)のハードディスク交換 91 113 1.9% 1.7%
7 京都の書店 84 85 1.8% 1.3%
7 うじ・びょうどういん:宇治平等院 78 85 1.6% 1.3%
9 スマート珈琲店(京都・寺町)のホットケーキ 56 77 1.2% 1.2%
10 美味しいところ 57 75 1.2% 1.1%
11 皇国の守護者(2)勝利なき名誉/佐藤大輔 57 72 1.2% 1.1%
12 登喜和(ときわ)のステーキと春の京北周山町 45 70 0.9% 1.1%
13 Blogメモ 59 64 1.2% 1.0%
14 さくらだ:桜田 41 62 0.9% 0.9%
15 じょうしょうこうじ:常照皇寺 42 56 0.9% 0.9%
16 2006年01月 4351 0.9% 0.8%
17 ふしみももやまじょう:伏見桃山城 39 50 0.8% 0.8%
18 ふしみぶぎょうしょ:伏見奉行所跡と魚三楼 32 49 0.7% 0.7%
19 前方後円墳の航空写真 26 48 0.5% 0.7%
20 2006年02月 43 47 0.9% 0.7%
21 小説木幡記 41 46 0.9% 0.7%
22 勤王志士・古高俊太郎邸跡と、しる幸:私の京都・河原町通{四条→三条} 34 44 0.7% 0.7%
22 邪魅の雫(じゃみのしずく)/京極夏彦 41 44 0.9% 0.7%
22 若さと言葉 20 44 0.4% 0.7%
22 読書余香 41 44 0.9% 0.7%
26 20世紀少年(21)/浦沢直樹 40 41 0.8% 0.6%
26 高校の授業 25 41 0.5% 0.6%
26 姑獲鳥の夏:うぶめのなつ(映画) 35 41 0.7% 0.6%
29 北方謙三『水滸伝』一「曙光の章」 35 40 0.7% 0.6%
29 JO記事『クエ料理 九絵家(大阪)』のこと 36 40 0.8% 0.6%
29 ノート・パソコンのハードディスク保守(シャープのメビウス・ノート) 37 40 0.8% 0.6%
32 配所の月とは望郷か 22 39 0.5% 0.6%
33 皇国の守護者(1)反逆の戦場/佐藤大輔 32 38 0.7% 0.6%
33 皇国の守護者(9)皇旗はためくもとで/佐藤大輔 36 38 0.8% 0.6%
35 桜の森:佐野藤右衛門邸の桜 29 35 0.6% 0.5%
35 地図の蠱惑:未踏地 17 35 0.4% 0.5%
37 辨慶うどん 24 34 0.5% 0.5%
38 NHK功名が辻 28 33 0.6% 0.5%
39 目次:新撰組(新選組!) 26 31 0.5% 0.5%
40 グルニエドールのアップルパイとダウンバースト&竜巻 29 30 0.6% 0.5%
40 風景と歴史 10 30 0.2% 0.5%
42 Santa Monica Beach : サンタモニカ・ビーチ 27 29 0.6% 0.4%
42 2006年05月 24 29 0.5% 0.4%
44 宇治・平等院の航空写真(Google) 25 28 0.5% 0.4%
44 月夜の美観と科学 21 28 0.4% 0.4%
44 【少しずつ進める癖/森博嗣】への共鳴感 25 28 0.5% 0.4%
44 2005年10月 26 28 0.5% 0.4%
44 2006年03月 25 28 0.5% 0.4%
44 イメージの素 25 28 0.5% 0.4%
50 Turboシリーズ(Delphi) 22 27 0.5% 0.4%
50 ダヴィンチコードとキリスト密教史 26 27 0.5% 0.4%
50 2006年04月 26 27 0.5% 0.4%
50 2006年06月 26 27 0.5% 0.4%
54 謎の大王継体天皇/水谷千秋 23 26 0.5% 0.4%
55 『豊饒の海/三島由紀夫』の課題 20 25 0.4% 0.4%
55 PowerMacG5の内部 20 25 0.4% 0.4%
57 黄桜かっぱカントリー:kizakura kappa country 21 24 0.4% 0.4%
57 映画の余香 20 24 0.4% 0.4%
59 新装のジュンク堂BAL店:私の京都・河原町通{四条→三条} 18 23 0.4% 0.4%
59 二十五万アクセス 23 23 0.5% 0.4%
59 だいちゅう・ラーメン:大中ラーメン 21 23 0.4% 0.4%
62 二十六万アクセス 22 22 0.5% 0.3%
62 長尾真博士のノート 16 22 0.3% 0.3%
64 『蛇神祭祀』(はむかみさいし)の連載 16 21 0.3% 0.3%
64 水無瀬殿(みなせ)→水無瀬神宮 14 21 0.3% 0.3%
64 北九州の旅:仲哀天皇大本營御舊蹟(ちゅうあいてんのう・だいほんえい・ご・きゅうせき) 15 21 0.3% 0.3%
64 天橋立(あまのはしだて) 19 21 0.4% 0.3%
64 最近のMuBlog 18 21 0.4% 0.3%
64 2004年11月 16 21 0.3% 0.3%
64 2006年08月 18 21 0.4% 0.3%
71 2004年08月 15 20 0.3% 0.3%
72 古民カフェ:私の京都・河原町通{四条→三条} 17 19 0.4% 0.3%
72 ヴァンパイア・レスタト/アン・ライス 19 19 0.4% 0.3%
72 チャングムのこと:2005年初秋 19 19 0.4% 0.3%
75 長岡京紀行:2006/03/03 15 18 0.3% 0.3%
75 枝魯枝魯(ぎろぎろ)の一夜 16 18 0.3% 0.3%
75 カクレカラクリ/森博嗣 18 18 0.4% 0.3%
75 MuBlog 目次 :記事 逆掲載順 17 18 0.4% 0.3%
75 北方謙三『水滸伝』十八「乾坤の章」 17 18 0.4% 0.3%
80 北九州の旅:門司港レトロの午後 15 17 0.3% 0.3%
80 もう終わった昨日の日記 13 17 0.3% 0.3%
80 みんなどうしてるの心と私のいま 11 17 0.2% 0.3%
80 墓盗人と贋物づくり:日本考古学外史/玉利勲 14 17 0.3% 0.3%
80 2006年07月 14 17 0.3% 0.3%
85 少し変わった子あります/森博嗣 15 16 0.3% 0.2%
85 小川珈琲本店 13 16 0.3% 0.2%
85 甘樫丘東麓遺跡(あまかしのおか・とうろくいせき)と蘇我入鹿邸跡 15 16 0.3% 0.2%
85 2006年10月 15 16 0.3% 0.2%
89 吉田屋・エスプレッソ珈琲:私の京都・河原町通{四条→三条} 11 15 0.2% 0.2%
89 λに歯がない/森博嗣 14 15 0.3% 0.2%
89 あなたの、ご趣味はなんですか 14 15 0.3% 0.2%
89 日曜の朝はわくわく、そして~ 12 15 0.3% 0.2%
89 高齢者(老人)差別 14 15 0.3% 0.2%
94 みしまゆきお・ぶんがくかん:三島由紀夫・文学館 14 14 0.3% 0.2%
94 北九州の旅:門司港駅 9 14 0.2% 0.2%
94 0501010・大晦日の鍵善と八坂神社 13 14 0.3% 0.2%
94 まつもとせいちょう・きねんかん:松本清張記念館 12 14 0.3% 0.2%
94 葛野図書倶楽部2001 11 14 0.2% 0.2%
99 長岡京市埋蔵文化財センター 12 13 0.3% 0.2%
99 うじがわ・うかいふね・あたごさん:宇治川鵜飼い船・愛宕山 11 13 0.2% 0.2%
99 「壬申の乱」の関係地図 12 13 0.3% 0.2%
102 北方謙三『水滸伝』十九「旌旗の章」 最終巻 12 12 0.3% 0.2%
102 二十四万アクセス 11 12 0.2% 0.2%
102 北九州の旅 9 12 0.2% 0.2%
102 ちょっと秋の深まる10月近況 10 12 0.2% 0.2%
102 賜死皇子大津 10 12 0.2% 0.2%
102 もりしょう:そうめん処・森正 7 12 0.1% 0.2%


 今日は、アクセス地域別も一ヶ月分見てみた。これはデータをとることができないのもあるので、総量は少ない。
 解析対象期間: 2006年10月12日(木) ~ 2006年11月10日(金)
 集計対象アクセス数:1,767

 ?数県足りないようだ、はてどの県だろう。

都道府県/アクセス/割合
1 東京 442 25.0%
2 京都 212 12.0%
3 大阪 175 9.9%
4 神奈川 119 6.7%
5 愛知 82 4.6%
6 静岡 81 4.6%
7 福岡 75 4.2%
8 兵庫 59 3.3%
9 千葉 45 2.5%
10 埼玉 40 2.3%
10 北海道 40 2.3%

12 三重 32 1.8%
12 奈良 32 1.8%
14 茨城 30 1.7%
15 岡山 19 1.1%
15 長野 19 1.1%
15 滋賀 19 1.1%
18 広島 18 1.0%
19 熊本 16 0.9%
19 岐阜 16 0.9%

21 群馬 15 0.8%
21 石川 15 0.8%
23 山形 14 0.8%
23 宮城 14 0.8%
25 栃木 12 0.7%
25 山口 12 0.7%
27 秋田 10 0.6%
27 新潟 10 0.6%
27 大分 10 0.6%
27 長崎 10 0.6%
27 高知 10 0.6%

32 福島 8 0.5%
33 和歌山 6 0.3%
33 岩手 6 0.3%
35 愛媛 5 0.3%
35 富山 5 0.3%
37 福井 4 0.2%
37 香川 4 0.2%
37 沖縄 4 0.2%
37 鳥取 4 0.2%
37 鹿児島 4 0.2%

42 山梨 3 0.2%
42 佐賀 3 0.2%
44 島根 2 0.1%
44 青森 2 0.1%
44 宮崎 2 0.1%
44 徳島 2 0.1%


| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年11月 9日 (木)

若さと言葉

若:『常用字解/白川静』

若:『常用字解/白川静』
 昨夜NHKのクローズアップ現代を帰路車中TVで聞いていて、うなずくところがあった。要約すると現代の青年は言葉を知らず字も書けず社会にでても問題を起こすことが多い、その原因は携帯電話やパソコンに慣れ親しみすぎて脳を動かさず、まともなコミュニケーションを図る努力訓練を経ていないからだ、とのことだった。
 事例としてさる工場で「差異」という言葉が、22歳の従業員に分からず、彼は事態を放っておいたばかりに製品に瑕疵ができて、損害の生じたことが挙げられていた。
 私がうなずいたのは自他、二点あった。

1.携帯メルは、およそ日本語からは遠い。誤字脱字、文の捻れ、言葉足らず、猿語に近い。
2.字が書けない。これは私がすでに30年来ワープロ常用なのでよくわかる。まともに書けない。

 さて。
 物事は自他ともにいろいろ考えてみると見えてくる。
 まず今の若者だけではなくて、若いということは愚かしいことだと毎日思っている。どのくらい愚かしいかを本人達、慮外、自覚していないからすさまじい。眼をおおいたくなる愚劣さである。よくまあ、すました顔して生きておるなぁ、と私は日々思っている。
 で肝要なのは、私がそうであったし、いまも年寄り達からはそうおもわれている、と感づくことが折々ある。
 なぜ愚かしく思うかは、いろいろ考えた末に、それは言葉を知らないからだということに尽きる。たとえば今の青年達は、おそらくこういった私のいうことの数パーセントしか理解していないし、理解しようと努力もしないし、努力しても無理だろう。それは語彙の多寡だけではなくて、文意、行間すべての情報を含んでの上である。

 かくしてそこに情報伝達のギャップが生まれる。
 言葉は思考の発露である。
 思考は言葉によって成長していく。
 その言葉を大切にせず、身につける訓練をしないと、猿のまま老いて死んでいく。
 自明である。
 どうすればよいのか。別にぃ~。猿のままでよいなら、それでよいのだろう。しかし猿は猿でありヒトではない。その自覚が可能なのはヒトであることが条件になり、永遠に解けないパラドックスがある。

 一日町にでて、言葉の不要さを味わう。
 電車の乗降は自動券売機その他のおかげで、言葉は不要。
 書店で図書を選んでも、レジで会話はない。
 ラーメン屋に入っても、メニュウを指し示すだけで事足りる。
 条件が整えば、終日誰とも何も話さなくても過ぎていく。
 携帯は絵文字と(笑)で通じる。
 言葉が無くても生きていけるような錯覚に陥る。
 かくして、猿もヒトも易きにつく。
 言葉を学ばなくても、読書しなくても生きていける。

 かく申す私は若者言葉を知らないことで日々苦渋、汗を流している。
 と、「オチ」、それで終わればこの記事の値うちが下がる。
 実は。
 若者同士も、ほとんど完全な情報伝達はなされていないことに気がついた。洞察力の差異によって、各人が何を見ているかがまるでばらばらなのだ。そういう者同士が何を話し合っても無理という客観的事実に直面する。

 近頃亡くなられた白川静さんの言葉はおもしろい。文字、言葉の背景が縷々述べられている。「若」という一文字に込められた意味を、知っているものと知らない者とが話し合っても、なにも伝わらないなぁ、と膝を打った一瞬だった。

 言葉は大切にしよう。

| | コメント (6) | トラックバック (1)

2006年11月 8日 (水)

小説葛野記:20061108(水)晴

 今朝は午前3時に起床した。少し早いなと思ったが、じゃまくさいので起きていることにした。近頃、やっておきたいことが多くて、寝るのもじゃまくさく感じる(と言いながら、実は横になると寝てしまう)。
 とりあえず洗顔した。ずっと電動歯ブラシなので、脳天に突き抜けるような振動で目が完全に覚める。福井県山中・永平寺の坊さんのことを思い出すと、彼らは僅かな水で洗顔していた。しかし余は現代人なので温水でじゃぼじゃぼと洗った。これは王侯貴族の振るまいかも知れない。リタイアしたら水にしよう。
 M1君は昼夜完全逆転なので、朝の挨拶をした。
 で、何ヶ月ぶりかに目玉焼きを作った。ずっと、朝の目玉焼きは停止していたのだ。そのかわり発酵バターを使うのはやめて、ブルーベリージャムを一杯のせて、ブラックアイスコーヒーで食べた。木幡研はジャムも味噌もハーブも自家製なので、たっぷりたべても毒にはならないだろう(笑)。
 と、いろいろ前振りが長くなったが、今朝は寒かった。

本日定食
 100人の受講生を7名の上級生が支援するグループ討論会二日目。先回は受講生達のノリが良かった。
 この授業構成はすべて倶楽部関係者が議論して作ったものだ。原案は昨年まで余が使ってきた方法論なのだが、今年は印象がはっきりと違って見える。
 別の科目で作った近未来の生涯学習館・近似図書館企画書がある。これを10点選んで各班に手渡し、討議資料にするのだが、先年まではこれを初日に渡した。今年は、今日、二日目に渡すことになった。この違いが大きいと、余は今朝感心している。一回目に手渡すか、二回目か。ここで支援学生達は、一回目には直接生涯学習館にもっていかず、まず「自分たちの生涯学習」を論議させる方向をとった。
 次に今日二回目は、各班から代表を選んで、授業の最初に先回グループ討議内容を発表してもらうことになっている。そして大部な企画書を討議資料として手渡す。
 ……。
 こんな細かなことを書いても関係者以外はわかりにくかろう。
 要するに、優れた学生達がまるまる一日かけて「授業構成」を考えると、一人の教授が考えるものよりも斬新というか、現実に即したものが生まれる、こともある(笑)、それが言いたかった。

 午前は会議一つ。委員長なので、近々開催される公式会議の準備を始めている。なかなかに~。
 午後も会議一つ。

 その後は、掃除と、情報学関係の図書を選定して発注する。情報学というても独特のニュアンスを込めたつもりで、それこそDelphi からblog自製、ミンスキーの名著『心の社会』のようなもの、認知心理学、文章論、多様である。ちと乱暴なくらいに見えるだろうが、なになに、内在的論理はちゃんとある。

思うこと
 いろいろRSで走りたいのだが、11月でこの寒さだと、山間部などは早めに行かねばならない。平地部とか町なら年末年始の暇な時(皆が大忙しになると暇になる)に行けるのだが。やはり今度車を買うときはがちがちの四輪駆動にすべきか。などと、夢想。ああ、伊吹山は早めに登らないとたしか道が閉鎖される。琵琶湖も冬は船がほとんど止まる。また来年か~と、何年来。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月 7日 (火)

受験問題:無為と充実との境

 自分が無為と感じるか、人が無為と観るのか、迷うわけではないが、ついふふふと思うことがある。昨日月曜日のことだった。

 1限目はあれこれの末にネットワーク・モデルを教科書図版で指定して、そこに前期グループ(5名前後)で三ヶ月過ごした自分達の班の相互連絡通信状況を当てはめてもらった。階層型、星形、合成、カオス(笑)、と最初は悩んでいたがついには9割以上の学生がそれなりに、客観的な図を返してくれた。
 全く孤立したノード(個人とする)とか、ノード同士が薄い薄い点線で結ばれたものとか、眼をおおう惨状じゃなかった面白さだった。同一班だった学生が、相互に別々のモデルを書いているのが一番おもしろかった。たとえば、一人が指揮系統のはっきりした完全階層タイプのコミュニケーション経路図なのに、他の者はノードがリンクしない孤立というかカオスのような図を出してきた。一つのことが各人には別々の像を結んでいるのだろう。

 2限目は数回先をみこして、少し複雑な文庫本のネタ(標題紙、カバーなどのコピー)を配布して、それをみて図書の目録を造りなさい、と指示した。いまさらコンピュータ目録じゃなくて、紙に目録を書きなさいという指導を、余自身ふふふと笑っていた。そのまえに解説は先回から続けていたのだが、なかなかに新規に目録を造るのは大変なようだった。そこでまたふふふと自笑した、「まだまだ、余も役に立つかもな」と。
 「日頃生意気な学生達ができないことを、余はできる、ふふふ」と。

 昼は会議が入っていた。あさりみそ汁と、安い五目ご飯弁当をかきこんで、参加した。非常勤講師採用の打ち合わせとカリキュラム、だった。余の関係科目とは無縁な打ち合わせだが、参加しないと会議が成り立たない。それに、この会議はあっとほーむなのでストレスがない。

 終わると直ちに準備して、裏門からぽたぽたとお隣さん大学へ向かった。そこで各々四人の班長からプロジェクト進捗状況を個別に聞いた。うまく答えられない班長にはきつくののしった。うまく答える班には甘く接した。それが最良とはまったく思っていない。ただ、世の中の姿を披瀝しただけ。ただし鬱の班長には、それなりに対応した。だってな、教師なんだから。教師は医師を兼ねておる。

 で、ふたたび葛野にもどって、別館へ行き所定の部屋、所定の椅子に座って判子ぽんぽん。少しく担当チーフと打ち合わせをした。

 部屋に戻ってソファに座った。それから六時ころまでぼんやりしていた。
 六時ころに予定通り卒業生が別件で来てくれた。しばらく報告を細かく、詳細に聞き、終わったところでカステラの残り(半分は昼に余が食べていた)を出して、近頃話題の小説話をした。案の定爆笑話になってしまった。帰って行った。
 また、ぼんやりしていた。

国語の受験問題

上記の文から、著者はなにを「無為」とし、はたまた「充実」としているのか。著者の気持ちを想像して、無為と充実について400字以内でまとめよ。

ヒント 冒頭文で著者は、二方向の視点(自分と他人)を導入している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月 5日 (日)

ミホミュージアムの秋

ミホミュージアム(滋賀県甲賀市信楽町桃谷300)地図

ミホミュージアムの秋

ミホミュージアムの秋
 ミホミュージアムは滋賀県の山奥にある。宇治市木幡からはRSを駆って70分かかる。甲賀といえば忍者。それもよいが、狸の置物で有名な信楽町の山中と言えば想像がつくかも知れない。博物館は「桃源郷」をイメージして造ったようだ。つまり広大な領域を持っているので、施設は全部自然の中に埋もれている。レセプションホールと博物館とはトンネルで結ばれている。駐車場から降りてレセプションホールへ行く途中で、秋を見つけた。

おにぎりと天ぷらそば

おにぎりと天ぷらそば
 レセプションホールにはレストランもある。この博物館は1999年以来何度も行っているので、様子が分かっている。つまり11時半から昼食サービスが始まるから、その時間に着けば良い。昼を過ぎると列が出来る。何故か。極めて美味しいからだ。最初に行ったのも、20世紀末の新聞で自然食のおいしさという記事を見かけたからだ。私は自然食党でもないし菜食主義でもない。美味しい物ならばうれしい。おそらく、実際に食されるとびっくりするはずだ。何故、おにぎりがこれほどの味を持っているのか。何故山菜そば・うどんがこんなに味わい深いのか。「自然食だから」と書いてある。それだけじゃないはずだ。気持がこもっているのだと私は結論付けた。ただし、価格はそれに見合っている。おにぎり定食が1600円。山菜天ぷらそばとおにぎり一個で1400円。町に比べて高価だ。それは仕方ないことだろう。

博物館のエントランス

ミホミュージアムのエントランス
 電気自動車がひっきりなしにレセプションホールと博物館を連絡している。トンネルを越えて乗車時間は数分。無料。トンネルを抜けると竜宮城、というおもむきがある。私は長年この博物館の総てが気に入っているが、この竜宮城だけはなんとなく中国っぽいのでひりひりする。中国といえば極彩色に気持がなってしまい、するとこの硝子造りの竜宮城は違和感がある。ところで、最近流行ったダヴィンチコードではルーブル美術館が舞台になったが、あの硝子ピラミッドとこの竜宮城、というか博物館全体の設計は中国系のI.M.ペイという人だ。ものすごい作品だと、いつも思う。竜宮城はさておき、一歩中に入ると驚愕する。

博物館(奥)の喫茶室

美術館(奥)の喫茶室
 小一時間特別展示を見た後、いつも奥の喫茶店に行く。生ジュースやケーキが美味しいからだ。というよりも、この建築物の結構を見るにはここが良い。空が見える。地下から地上、そして空を見上げる仕組みになっている。中庭もある。椅子やテーブルは広々とした空間に点在する。あっさりした印象だ。それがなんとなく自然農法にかなっていると思った。こういう自然っぽい中に、ステンレスだろうか、巧妙な金属の結節を持つフレームがきりっとした手応えを感じさせる。要するに、私好みなのだ。

栗のモンブラン

栗のモンブラン
 私は甘党ではないのだが、栗100%という案内に、つい手を出してしまった。本当に栗栗していた。こういうお菓子をここでは造っているのだ、と感心した。和菓子もよいが、モンブランもよい。他には絶妙のプリンもあった。これは凄い。えてして、人の食べるものは美味しく見える物だが、ともかく、桃源郷だからこそ味わえた。

追伸
 ところで、常設展はいつか案内するとして、今日の特別展は「青山二郎の眼」だった。

  昭和の文芸サロン、通称「青山学院」の中心人物青山二郎は、柳宗悦の民芸運動の設立に参画し、小林秀雄、白洲正子の骨董の師でもあった稀代の目利きでした。 その眼に適った中国・朝鮮・日本の古陶磁の逸品を中心に、彼及びゆかりの人々の旧蔵品、手がけた装幀作品などを通して、伝説の人物である青山二郎の眼にせまります。

 青山二郎のことは案内にあるように、私の場合は小林秀雄、白洲正子関係の読書でずっと気になっていた。今日も沢山の図書をショップで買って持ち帰った。そのうち、さっき名古屋は瀬戸物・加藤唐九郎(参考HP)についての文章を読み終えた。二郎さん、一筋縄ではいかない御仁のようだ。
 一番気に入ったのは青山の手になる装幀だった。
 なお、この件はまた後日にMuBlogに書いておきたい。今日はひたすら山菜蕎麦とモンブランとに終始した。

参考
  MIHO MUSEUM
  MuBlog:山ツツジと522号線:滋賀県信楽町朝宮(2006年5月にミホミュージアムへ行ったとき、その途中の道が気に入った)
  地界のMIHO MUSEUM/浅茅原(現在不首尾でインターネット・エクスプローラIE以外のブラウザでは写真がでません。)  

| | コメント (0) | トラックバック (2)

Turboシリーズ(Delphi)

 今朝は四時半に起床し、さっきM1君の入れた珈琲と、トーストで朝食をとった。このあと、またしばらく眠るつもりだ。今日は遠出するので、少しでも眠った方がよいと思った。
 朝の話題は、ダン・シモンズ『イリアム』をM1君がざっと読んだ話。私はしばらくおいておく。長くて重いので、どうやって読めばよいか迷っている。それに文字も文庫本よりも小さい。
 ギリシャ神話、トロイの木馬、こういう世界が未来の火星で繰り広げられる。この人のは、ハイペリオン・シリーズを全部読んでいるので、実力は最高クラスとわかっていて安心。出すたびに賞をとっているようなので、感心する。

 以下は小説葛野記に書けばよいのだが、昨日土曜は思った通りに時間を使えた。木幡で書いているので小説木幡記としておく。

 Trubo Delphi Professional のネット発注をすませた。
 このために一時間以上時間をかけた。ようするになぜこの開発系を購入するのか、迷いもしたし、調べもしたからである。ボーランド社はこれまでずっと、Borland シリーズで販売してきた。Delphi、C++、C#、Java などたくさんのものをまとめていた。しかし数年前から、私もわけがわからなくなってDelphi7で止めてしまった。要するに大規模なソフト開発会社が使って役にたつというか、個人利用者から離れて完全に企業向けになっていたからである。

 今回は、Truboシリーズという名称で個人向けのシステムを並行して出すようになった。内容は、ひとことでいうと学生、個人向けのコンパクトなものである。そしてダウンロードして無料で使えるものが基本になっている。
 有料(私の場合、優待制度を受けられるので29800円)と無料の内容は、違いがほとんど無い。なぜ有料にしたかというと、そこを書こうとしたのだが、書き尽くせない。「Turbo」と書いた箱が気に入っているというのは冗談にせよ、無料でついちょっとという考えをTurboに対しては、したくなかった。
 私自身の研究や開発や収入は、人生の中で30年前のTurboPascal以来、ボーランド社の出す言語系に頼っていたのだから、ファン心理というか、なにかしら寄付というか(笑)、祝儀というか、しめしをつけたかったのが事実である。

 Turboシリーズによって、学生や好き者や、毎日が日曜日の人達が、人類の造り出した人工言語に親しむ機会が増えたことだろう。無料版といっても、最先端の内容で熟成している(つまり、主力のBorland Developer Studioの一部だから)ので、なんでもできる。Turboと言う名称によって、初心者や学生に対する「コンピュータ言語教育」 というゆりかごが造られるはずだ。
 ともかくここ数年来のボーランド社の方向について、今回一応の決着を私自身がつけたというわけである。

 昨日土曜日は、そのあとすっきりしたので珈琲を飲んで、山積する事務と、月曜日の授業三つ分の予習をすませた。「先生」だけが予習し、学生は居眠り、内職するという現実になかば笑いを噛み殺しながら、ノートや教科書をみていた。一つあたり90分の授業時間をどういう風に割り振るか、これが予習の内容だが。深奥はつたわらないものだ。わかりやすい授業は、ないのだと思う。学問、お勉強、読書、人間関係。わかりやすいものにろくなものはなかった。わかりやすいということは、無用というものなのだろう。わざわざ時間をかけることはない。もっとも、わかりやすい映画や図書は暇つぶしにはなる。

 昨日土曜日は、早めに帰って、豪華な手巻き寿司をいただいた。ひさしぶりに木幡研研究所員全員が集まった。自家製卵焼き、ブリ、ひらめ、海老、貝柱、つけもの、でっかい海苔、ワイン、……。またりん翁がずっと不在なのはしかたない。
 そのあと、全米でヒットしているという超常アドベンチャーDVDを一つ見た。兄弟が父親を捜して全米を旅行するという内容だ。「スーパーナチュラル」というて、ものすごく怖かった。白い服を着て夜の道に立ちつくす綺麗な女性、これが怖ろしい。「狩る」という言葉が一杯あった。兄弟は一種の悪魔狩り、ハンターなのだ。なぜそうなったかが、第一話にあった。なんとなく、やみつきになりそう。
 そのあとTVで、藤枝梅安を鑑賞した。ふんいきが善く出ていた。

 さて今朝。
 そろそろ眠りましょう。よい朝でした。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年11月 3日 (金)

読書の秋と「華胥の幽夢(かしょのゆめ)」

 ずっと読書の秋モードなのだが、ともかく、小野不由美さんの十二国記、講談社文庫で今出ている最後の二冊も読み終えた。『黄昏の岸、暁の天』、『華胥の幽夢』。
 さっそく記事をと思ったが、思い返せば『魔性の子』で助走し、『月の影、影の海』から本格的にこの世界に入ってしまった。気になって『華胥の幽夢』の奥付をみると2001年だった。それから後がでていない。
 つまり。
 なにかしら、最後の二冊は感想を記しにくい。

 最近感想を記した『図南の翼』で一旦雰囲気が変わり、さらに上述最後の二冊は変わっていた。『華胥の幽夢』は{冬栄、乗月、書簡、華胥、帰山}と短編集なのだが、長編黄昏と短編華胥とで、沈痛な思いをした。この世の中について相当に深く味わうところがあった。こういう小説を書いてしまうと、その後が大変だと思った。
 そういえば以前、20世紀末に綾辻行人さんの『時計館の殺人』を読了したとき、このあと書けるのだろうかと、心配になった。もちろん、書いておられるが。
 私は大昔に三島由紀夫さんが『豊饒の海』を書き終えた時、いろいろな思いは残ってしまったが、一番強く感じたのは、全四巻を完成したのだから、それで書くのを止めても仕方ないという気持だった。

 さて。
 たしかに読書の秋だ。今日は、海原猛さんの『水底の歌』を新潮文庫で読んでいる。ずっとここ何年も初版本が部屋に見つからず、一年ほど前に新たに文庫で買っておいたものだ。よいよい。
 昨日は葛野でUML関係の図書二~三冊を読んでいた。モデリング、Eclipse-UML、という風なものだ。もう一冊も一昨日読んでいたが、葛野に置いてきたので題名がわからない。これもモデリングだと思う。

 あといろいろ読みたい物があるが、すぐに眠る癖と、すぐにマシンを前にしてUMLを触る癖と、なんとなく日曜作家のまねごとをするので、結局断片的になる。それに葛野で山積の事務書類もかたづける必要がある。三連休とはならない。

 というわけで、木幡を出ずに鬱のただよう部屋で丸くなって読書していると、世間が世界が霞んでくる。
 と、そういう毎日だ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年11月 1日 (水)

小説葛野記:20061101(水)晴

 例年のことながら、秋になるとたしかに読書が深く広くなる。
 毎晩、毎休日になるとマンガ、冒険、ミステリ、気むずかしい文学、ソフトウェア関係、……。ものすごい速度で埋没している。これまでずっと、秋になしたことがその後の人生を変えてきたので、今年の読書週間(笑)も、将来の引き金になりそうだ。

本日定食
 生涯学習という科目があって、この11月は都合3回、学生7名を交えて100人ほどの受講生を指導することになった。この晩夏に、葛野図書倶楽部2001は4年生全員が隠居したので、後期助勤制度は廃止したのだが、この科目に限って、現役の倶楽部員たちの意見もあって復活した。ご隠居も格別にこの科目を愛好する者がいて(笑:学生達にも、好みの科目があるようだ)、二週間前に三年生と有志隠居がまる1日かけて、授業構成を考えてくれた。(ありがたいことです)
 というわけで、本日の余は、粛々と授業がすすむのを見ているだけ。
 一回目の今日は、「自分たちの生涯学習」を、10人程度の班単位で、助勤まじえて討論するようだ。

 そのあと、余は某所で判子ぽんぽん、打合せ。
 そのあと、余は延々と図書全文の可視化に関するUMLのモデル支援機能について、深く深く潜水。
 夕方には、夕睡(笑)。

昨日火曜日のこと
 UMLのことで終日考え込んでいた。
 昨日は葛野で「研究テーマ・日本語文章の可視化」のために、年来のUML(Unified Modering Language)に耽溺していた。これまではずっとコンピュータ言語とUMLとの関係に拘泥しすぎていたが、純粋に「モデル」という視点でみると、また世界が広がった。

さて
 今朝も元気だ、授業にいくぞ。
 おお、そのまえに打合せがあった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年10月 | トップページ | 2006年12月 »