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2006年10月13日 (金)

物語と歌

 日常に追われて、息つぐまもなく翌日になって、毎日の日付が×印で過ぎていって、美味い物食べて、風呂に入って瞬間睡眠に入って、朝のはよからメル返信をこまめにして、お迎えはいつごろかなぁ~と、ときどき首をかしげて来世を思う、今日この頃です。
 来世を思うというのは、嘘でして、一瞬にしてかじわじわとか、私の脳に蓄積された感情や知識や経験の総体が崩れていって、この世に私という名前で記号化された「わたし」がやがて消滅していくという風に思っているのでで、来世はないのでしょう。
 それが今日明日のことか、五年先か、十年、二十年先、三十年先かは、私にも分からない。確実なことは、やがて、消えるという事実を、私は把握しているわけです。

 幼少時から蓄積されたあらゆる記憶が、消滅するというのは、あっさりしています。
 ただ、ただ、生きて。生きる苦よりも総体的に愉悦の多いこれまでだったから(笑)、まだまだ元気に生きていきたいという、生きる衝動(と、言ってよいでしょう)に支えられ、毎朝目覚めるわけです。気力がなくなったら、目覚めないのじゃなかろうかとも、考えています。

 そういう、日々の中で、物語と歌、という句が常に私の脳裏を横切っていきます。
 今朝は、それについて少し記しておきましょう。

物語と歌
 ああして、こうして、こうなったという物語が好きです。これは小学生時代からの記憶としてあります。
 実は、断絶とか破綻とかに強い衝動を感じるわけなのですが、それには前提として物語がないと、そういう衝撃を味わえない。始めから、無とか、プッツンとか、なんにもないなら、破綻しようもどうしようもない。

 人格とかも、そういうわけです。始めから空白なら、そこに劇的ななにかが生まれるわけはない。
   がんばるから挫折がある。
   なにかするから、失敗がある。
   計画するから、頓挫する。
   約束するから、反古がある。
   信用するから、不信がある。
   就職活動するから、失意がある。
   恋愛するから失恋がある。
   結婚するから離婚がある。

  そもそも、生きたから死がある。

 ところが。
 生きる衝動というのは、何かをしたい、するというところから生まれるように思います。
 餌を、獲物を捜すことなど、根源的です。
 そこに物語が生じる。ああして、こうして、こうやって、美味しそうな野鳥を手に入れて、毛をむしって、焼いて食べて「ああ、うまかった」。愉楽、悦楽の境地。その経験記憶があるから、次の物語をもとめ、失敗し、手には何も残らず、苦を味わうが、あじわったままなら、死んでしまう。死よりも、焼き鳥にタレ付けて、原酒とともに味わった愉楽感が大きいと、次の物語を作り始める。

 というわけで、なんですなぁ。
 歌物語が好きです。物語の中で、何かがとぎれたときは失意、なにかが得られたときには達成感。そういう、穏やかな流れが、渦を巻いたり、滝になったり、消えたときに、歌が生まれます。
 だから、物語と歌なのです。

 こういう観点ですと、一首、一句をとりだして言葉の芸の術のと深く詮索するのは、好ましくないとおもうようになりました。背景に物語、詞書(ことばがき)あってこその、歌一首ですね。
 そうそう、私のなかでは、「歌」とは、世情言われている歌謡曲でもないし、短歌でもないし、せんじつめれば和歌というたほうがよいです。さらに、俳句なども、江戸時代のいくつかは、ジャンルわけなどとは関係なく、和歌と、とりまとめております。随分乱暴な話ですが、そう考えると、すっきりするのです。

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