« カクレカラクリ/森博嗣 | トップページ | 定稿『蛇神祭祀/浅茅原竹毘古』(はむかみさいし) »

2006年10月 3日 (火)

ちょっとした夕方

 今日ははやめの6時半ころに葛野をでた。なんとなく、懐かしいような経路をたどって木幡についたが。伏見大手筋・御香宮はお祭りだった。数日前から。

 すこしだが、バーンアウト症候群のようだった。夕方二時間も半睡してしまったのだ。全身がだるくなって。この記憶は20世紀末にも明瞭に覚えている。当時、若い先生二人と談笑していて、ぼそりともらしたら、診断された。脳は、メンタルな症状は、はっきりと身体に表れる。今日の午後は横になったまま、起きられなかったわけだ。

 ドアが開け放しになっていて、ノックがあった。卒業生が尋ねてきて、アジャリ餅を土産にくれた。よくおぼえていないのだが(半睡だから)、起きあがらないで、そのまま横臥したまま談笑した。数分後に帰って行った。なにやら、漫画の話をしたような(笑)。おそらく30分後だろうか、なんとなく起きた。すると、少しすっきりしていた。数通のメル返して、さて、30分かけて、明日水曜の授業準備をした。

 燃え尽きるほどなにかをしたわけではないが。重なったことや、なんとなくいくつかの軋みもあったせいなのだろう。夏の論文。これは、まだまだ家持や保田を読み切っていないという思いの残ったまま、脱稿した。『蛇神祭祀』これは、自分では気に入っているし、数名(笑)のファンも掴んだというささやかな充実感はあるのだが、やはり虚脱感だな。

 なにをいまさら、虚脱感の脱力感の挫折感の虚無の絶望の~と、20前後に毎日呪文のように唱えていた小難しい言葉がときどき頭をかすめて、にたにた笑い出していた。ようするに、だるかったにすぎない。
 昔、自動車を運転し始めたころ、先輩に「到着してもすぐにエンジンをきらないように。数分間アイドリングしておくこと。マラソンのあと、しばらく足踏みする心」と言われた。どんなことでも、急な発進や停止は、身体にというか、システム全体によくないことなんだろう、とは思っていた。そういう癖があって、いまでも停車しても軽くアクセルをふかせて、一呼吸おいてエンジンを切っている。なにかのおまじないなんだろう。
 次のステージに移る前に、数時間燃え尽きて、横臥して、アイドリングして、やおら起きあがるという一連の身体動作は、昔の自動車扱いの癖なのかも知れない。どうなんだろう、我が身を自動車システムになぞらえていることの妥当性は。やはり、おまじないか。

 気持の中では暗黒無音の深宇宙を一人乗りのボートに乗ってしずしずとさらに深い銀河の底へ飛んでいるようなというか、滑り込んでいるイメージに乗っている。
 またひと眠りしたなら、どこかの惑星系を見つけて、しばし着陸し必要な薪炭を補給し、水を食料をと探し回る心よなぁ。

 ともかく、からくもいきてきた、そしてからくも生きていく。
 夕食は、蒸した温野菜(ズッキーニ、カボチャ)。少し手を加えた鶏肉唐揚げ、スダチかけて。赤ワイン。若布のみそ汁。おつけもの。熱いお茶。日本だよね、夕食は。

 そして明日の一限目は、生涯学習概論。まさに、生涯学習しておるなぁ。

|

« カクレカラクリ/森博嗣 | トップページ | 定稿『蛇神祭祀/浅茅原竹毘古』(はむかみさいし) »

小説木幡記」カテゴリの記事

コメント

A Burnt-Out Case

 記事を拝見して何故かグレアム・グリーンの(燃え尽きた人間)を思い出しました。
原題は上のようでした。
小説の内容はすっかり忘れていますが、若いころ余り本は読まなかったのにグリーンは全集を買って読みました。
勿論日本語に翻訳されたものです。

 今回のMuさんの症状はやはり、ある意味(燃え尽きた)のではないでしょうか。
この半年ほどはいつものMuさんではない風にブロッグからは感じられます。

 燃え尽きる、というのは悪いことではないと当方は思います。
あることをとことんやって虚脱感に襲われる。
今まで三度ほどありましたが、最初は一週間、次は一カ月ほど、最後の三度目は一年以上。
精神的に、だけではなく体調まで悪くなりました。
そうなると何も手につくものじゃありません。

 虚脱感に襲われてボ~ッとしばらく過ごすのです。
そのうち頭が真っ白になります。
それまでのよしなしごとがどっかへ去ったとき、次の章が始まるのではないかしら。

投稿: ふうてん | 2006年10月 3日 (火) 23時44分

 一生とか毎日を微分していくと、小事の数珠ですよね。これを積分するとどうなるのか、ふうてんさんは一応(笑)工学部の、電子も情報も付かなかった時代の電気工学だから、微分積分のことなんかご存じなんでしょうね。
(あの大学のあの学部は、多分数学ができないと入れなかったはず:と、団塊世代の過酷な受験期を回想して)

 でね、いいたかったのは、「小事の数珠」このことです。非常時での首相や大統領の国の存亡かけた大事なんかは、一般人は経験しませんね。

 論文書いたり小説かいたり卒業生たちとの催し物をしたり、日々葛野木幡往還したり、授業したり、会議に出たり、……。どう考えても小事です。
 そういう小事の積み重ねの前に、ある時期、その幾つかを同時に終えたとき、なんとなく全身がだるくなって、横臥してしまうという、そういう不思議さを思って、ますますだるくなったわけです。

 私なら、毎授業ごと、会議ごとに燃え尽きるわけがない。
 電車、新幹線の運転手さんが最終駅に到着したとたんに燃え尽きていたら、世間は成り立たなくなります。刑事さんが事件解決のたびに虚脱感に襲われたり、医師が手術執刀終えるたびにぶったおれたりしたら、……。

 しかし人とは。
 たいしたことでもない、場合によっては私事にすぎない小事に、達成感をすっととおりすぎて、何も手に付かなくなることがあるようですね。

 たぶんに、同世代、それは風雪梅安一家もふくめて、彼等が隠居する年代だからかもしれません。一応、私はお勤めしていますが、なんとなく同世代の親友知古の気持をトレースして、自分のなかにも「仕事、終わったなぁ」という雰囲気がでてきておりますなぁ(笑)

 さて、まとめ。
 バーンアウト・ケースとは、小事、大事にかかわらず、何かを終えたとき、達成感を味わう間もなく、虚脱感に襲われ、軽鬱状態で、全身がだるくなることをさす。(Mu定義)
 と、なりますようで。

投稿: Mu→ふうてん | 2006年10月 4日 (水) 04時21分

 (四十にして惑わず・・)

 そんなことできそうにもありません。まして(五十にして天命を知る)なんて、不可能に近いです。ですから、(四十になったら、惑わないでいたいものだ)そして(五十になったら、天命を知りたいものだ)と考えるようになりました。

 それじゃあ六十になったら・・?これも四十・五十を引き続いて、(虚脱感の脱力感の挫折感の)にさいなまされているんでしょうか。でも、みんなそれを口に出すか、出さないかの違いで、そんなものとは、人間縁が切れそうにもないなと思っています。

 Muさん、あんまり生き急いだらあきませんよ。やりたいこと、やらなければならないこと、上手く整理して、もっとゆったりする時間をもうけたらいかがでしょうか。今までは、やらなければならないことが先だったでしょうが、これからの時間は、やりたいことを先にして、やらなければならないことを(ちょっと手を抜く)とか、ハンドルにはあそびが必要ですよ(笑)。

 (ストレートな毒舌家のwdでしたm(_ _)m)

投稿: wd | 2006年10月 4日 (水) 12時18分

反面教師
 わたしはwdさん、反面教師でもあるから、「みんな、人間、いくつになっても、ややこしい心の綾に身を縛られて、やれ虚脱の、ほれ脱力の、はあ、挫折のと、のたうちまわるんだよ」という表現を、言葉にするのも芸のうち(失笑)。

実のところ
 アイドリング状態。つまり最低限の機能を維持して(職場に出る、授業する、会議でる、挨拶する)、次のステップを、あれこれ考えている、その楽しみ中でもあるんです。それを昔風文学青年的ノリで記すと、かくなる次第。

生き急ぎ
 どうなんでしょうね。生来イラチ、短気だから、だれもとめないと、翌朝の洗顔・着衣まですませて就寝するタイプですからね。

 ときどき「逼塞」という言葉を使いますが、やりたいことをするために、そりゃもう工夫しとります。そのかいあって、

1.年賀状毎年10枚程度(出さない、返事も書けない)

2.木幡も葛野も携帯も私宛の電話は、平均して限りなくゼロです。まず、数ヶ月にわたって絶無ですね。せいぜい「今夜は水炊きだから、早く帰れ」「台風だから、帰れ」そんな程度です。

3.この上記1も2も、年齢役職(笑)から考えると、ほとんど異常、異様な状態ですね。有り体に言えば、世間的には、「死に体」です。で、その時間は、きっと、夜ごとのミステリ読書三昧ですよね。あははは。

 だから、本当は暇の海にどっぷり。あたかも忙しそうなのは、ここだけの話ですが、それは昔懐かしい受験生の「(逆)しゃみせん」です。
 ところで、この「しゃみせん」とか「四当五落」なんて古典語は、現代の人には、翻訳不能です。あはは、はは。

投稿: Mu→WD | 2006年10月 4日 (水) 13時54分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ちょっとした夕方:

« カクレカラクリ/森博嗣 | トップページ | 定稿『蛇神祭祀/浅茅原竹毘古』(はむかみさいし) »